マチルド2
「私も、クラウスと結婚した時は考えていたのよ。もしアシュリーが私に懐いてくれたら、この館でずっと暮らしてもいいかなって。クラウスは、確かに今は領主代理よ。でも、クラウスが家督を継ぎたいと国王陛下に願い出れば、可能かもしれないじゃない」
「ええっと……それはどういう意味でしょうか? この家の跡取りはアシュリー様ではないのですか?」
今までマチルドがそんな不遜なことを考えているとは、思いもしなかった。
「でも、アシュリーにはクラウスに育ててもらった恩があるでしょ? 家督くらい譲ってくれたっていいじゃない」
マチルドの勝手な言い分に、リネアの心が急速に冷えていく。
少なくともアシュリーはこの館に深い愛着を持っている。
春に実る野イチゴや、古木にアプリコットが実る夏の日を毎年楽しみにしているのだ。
そんなアシュリーの気持ちも知らずに、マチルドは自分の都合ばかりを口にする。
それに何より、アシュリーの規格外の魔力でなければ、この館の地下は守り切れない。
実際に、アシュリーの魔力はすでにクラウスを凌駕している。だから、跡取りはアシュリー以外考えられなかった。
むしろクラウス自身、この館を守る重圧から早く解放されたいと思っているはずだ。
しかしそれは、地下の秘密も知らず、魔力もほとんど無いマチルドには知る由もないことだった。
「アシュリー様は、ご両親との思い出が詰まったこの館を愛していらっしゃいます」
「だから何よ? 使用人の分際で、なぜ継承権にまで口出しをするの? やっぱりあなた、アシュリーに何か吹き込んでここに居座ろうとしているのね! だからいつまでたっても、あの子は私に懐かないのよ!」
さすがにそれは被害妄想が過ぎると思う。
「マチルド様、私はそのようなことは一切しておりません。きちんと一週間後には出ていきます。どうかその点はご安心ください。ご心配なら、クラウス様に確認をとってください」
「それなら、あんたがお茶を淹れに行っている時に聞いてきたわよ! クラウスは自分が留守の間、私を一人でこの館に置いておくのは寂しいだろうから、あんたにいてもらうと言っていたわ。私は別にいいって断ったのに!」
そこで初めて、リネアはマチルドの苛立ちの正体を理解した。
地下から魔物が湧いてくることを秘密にしているせいで、マチルドとクラウスの間で致命的なすれ違いが生じているのだ。
マチルドはアシュリーが自分に懐くことなく、使用人であるリネアばかりを大切にする姿を見てきた。
そのうえ、クラウスとの間にまだ子供ができないことで、底知れない不安に苛まれているのだろう。
この国の貴族は、本妻に跡継ぎができなければ側室や妾を持つことを許されている。
だからこそ余計に焦り、嫌な想像ばかりが膨らむのだ。マチルドは自分の制御できない焦りや不満を、八つ当たりとしてリネアにぶつけているだけだった。
「すみません。ですがクラウス様の命令ですので、どうか、あと一週間だけ耐えていただけませんか?」
「嫌よ! せめて五日にして!」
怒鳴りながらも、マチルドの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
そんな姿を見ると、リネアの気持ちもわずかに揺れ動いてしまう。
マチルドは遠慮なくすべてを口にしているようで、本当はずっと不安を抱えながら我慢していたのだ。
自分だけがこの館の仲間外れだと、孤独を感じて焦っていたのだろう。
「あの……では、クラウス様がお戻りになり次第、即刻出ていくということでよろしいでしょうか?」
次の瞬間、突然マチルドに手元の紅茶を激しく浴びせられ、リネアは呆然と立ち尽くした。
「勝手にすればいいじゃない! どうせ誰も私の意志なんて尊重してくれないわ! こんな辺境までクラウスについてきたのに、アシュリーも懐かなければ、公爵家の地位ももらえない……もうたくさんよ!」
そう叫んで、マチルドは乱暴に部屋から出て行った。
リネアには、マチルドの後を追う気にはなれなかった。そんなことをされても、彼女は嬉しくないだろう。
ほどなくして、クララとセバスがノックの音とともに入ってきた。
「まったく……クラウス様は、どうしてあんな我がままで、甘やかされて育ったお嬢様が良いんでしょう!」
クララが悔しそうに言うと、リネアの顔と髪にかかった紅茶を素早く拭ってくれた。
「マチルド様はまるで、少女のまま大人になってしまわれたようです。それに公爵家を譲れなどと……この館の何にも貢献していないというのに」
セバスが呆れたような口調で、紅茶が跳ねたテーブルを拭いてくれている。
それから、悲しそうにセバスがリネアを見た。
「クラウス様は、本当に人を見る目がない。お坊ちゃまが戻られたら、どれほど悲しまれることか。リネア様、この理不尽な出来事を、どうかお坊ちゃまにお伝えください」
「え?」
セバスがそのようなことを言うとは思いもよらなかった。
「まさか、そんなことできません」
「お坊ちゃまなら、きっとリネア様をこの館に引き留めてくださいます」
「でも、そんなことをしたら、クラウス様とアシュリー様の関係が悪くなってしまうかもしれないし、マチルド様とクラウス様の関係も壊れてしまうかもしれない……。私には、できません」
リネアが静かに首を横に振ると、クララもセバスも同時に肩を落とした。
「リネア様、どこかに落ち着かれたら、どうかお手紙をくださいね」
クララが絞り出すような声で言う。
「クララ……」
「近況報告のやり取りをしましょう。リネア様もアシュリー様の成長をご覧になりたかったはずです。だから私は、リネア様からのお便りをお待ちしておりますわ」
「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても嬉しいです」
「リネア様は、優しすぎるのです」
そう言ってくれるセバスとクララの温かさに触れて、リネアの冷え切った心はぬくもりを取り戻した。
(私がここを去ったとしても、ここで過ごした時間が消えるわけではないわ)
それに、クララやセバスの手紙からアシュリーの成長を知ることができるのなら、これほど嬉しいことはない。
だが、リネアは最初から手紙を書くつもりはなかった。
きっと、文通していることがマチルドにバレたら彼女は再び傷つき、クラウスやアシュリーとの間に、修復不可能な溝ができてしまうかもしれないから。
リネアは使用人という立場でありながら、この家族の中に入り込みすぎてしまったのだ。




