マチルド1
「はあ、あんたようやく出て行くのね。長かったわあ」
マチルドはリネアの部屋に入ると、勝手にティーテーブルの椅子に腰を掛けてため息をついた。
「ええ、本当に長い間お世話になりました」
「で、今日出て行くんでしょ? 馬車の準備はできているの? それとも街道沿いで拾うのかしら」
リネアは返事に困った。地下室の管理があることは、彼女には秘密なのだから。
「ええっと……それが事務上の手続きがありまして、私は一週間後くらいに出て行くことになりました」
何とかそれらしい理由をひねり出す。
「やっぱり、ここから出て行くことに抵抗があるのね」
マチルドが目を細めた。
「申し訳ありません。手続きが済み次第、速やかに出て行きます」
「別に、リネアが悪いわけじゃないわよ。ただ、私の気持ちも分かってほしかったの」
「というと?」
「ちょっと、こんなところで立ち話させるつもり? お茶くらい用意しなさいよ。あんた使用人でしょ、気が利かないわね」
呆れたように、マチルドが肩をすくめる。
四年も生活を共にすれば、マチルドの性格はよく分かっていた。
彼女は思ったことをそのまま口にしているだけで、悪気はないのだ。
マチルドもリネアも元々の出自は伯爵家であるが、ここでは「使用人」と「公爵家の代理領主の妻」という、埋めようのない大きな差がある。
リネアは一階の給湯室へ行くと、早速準備を始めた。
「そんなこと、私がやりますのに」
クララが眉根を寄せた。
「いいえ、マチルド様のお言いつけですから。それからクララ、私は今週でお暇することになりました」
クララがショックを受けたような顔をする。
「そんな……リネア様はお坊ちゃまの恩人なのに、なんてことを……。ずっとこの館にいらっしゃるものかとばかり思っていました。何よりお坊ちゃまが悲しみます。それは、マチルド様がおっしゃったのですか?」
「いいえ、クラウス様のご判断です」
「クラウス様も、マチルド様がいらっしゃってからずいぶんと変わられましたね……」
クララが悲しそうな顔をして肩を落とした。
年は違えど、クララは戦友のようなものだ。
クラウスがいない時はセバス、クララ、リネアの三人で地下の結界を守ってきたのだから。もちろん、アシュリーは主戦力だった。
「私の仕事は子守ですから。ずいぶんと長く置いていただけて感謝しています」
特別手当付きで、退職金まで出る。
ここまで待遇の良い職場はそうそうないだろう。
王都で借家を借りて職を探すまでの、十分な蓄えはある。これでやっと実家から隠れられる。
リネアの夢がようやく叶うのだから、悲しいことなど何一つなかった。
リネアはお茶の準備をして、三階へと戻った。
ノックをして部屋に入ると、テーブルに肘をついて窓の外を眺めるマチルドの姿があった。
「マチルド様、お茶をお持ちしました」
「そう、ありがとう。今日は特別に、あんたも座って一緒にお茶を飲みなさいよ」
「いえ、それはいけません」
「立って話を聞かれるのは嫌なのよ。見下ろされているみたいで」
マチルドがバツの悪そうな表情で言った。
「では、失礼いたします」
リネアが席に着くと、マチルドがようやく口を開いた。
「別にあんたのことが嫌いなわけじゃないのよ。ただ、この館に若い女がいるのが嫌だったの」
「若いと言われましても、私ももう二十一ですが……」
「ちょっとやめてよ、私は二十六なんだから。クラウスがあんたに目移りしないか心配だったのよ」
ほんの少し不安そうに言う。
だから、リネアはマチルドを憎みきれないのだ。
彼女は性格に裏表がなかった。
「そんなわけないじゃないですか。クラウス様はマチルド様のことを、とても愛していらっしゃいます」
「それは分かっているわ。でも、私たちの間にまだ子供がいないの。だから……」
それが、マチルドの不安の原因なのだと分かった。
だが、誰がどう見てもクラウスはマチルドを愛している。
幼馴染同士で、途中で別れはあったもののずっと愛し合っている二人を眩しく感じる。
マチルドは焦る必要などないと思うが、こんな時、リネアはマチルドにどのような言葉をかけていいのか分からなかった。
わずかな沈黙が生まれ、やがてマチルドが再び口を開いた。
「それに、アシュリーのことなのだけれど」
「はい、何でしょう?」
「どうやってアシュリーをあんな風に懐かせたの?」
「…………」
そもそもマチルドはこの館の地下の秘密を知らないし、リネアが魔法を使えることも知らない。
そのことはクラウスたちに秘匿してもらっているからだ。
だから、アシュリーに信頼されるようになった真の経緯など、説明できるはずもなかった。
「最初はとても警戒されていましたよ。それに、私を見て怯えていました。でも、本の読み聞かせをしたり、散歩をしたりしているうちに、少しずつ心を開いてくださったんです」
「でも、あんたがいるせいで、私にはその機会がなかった! 勉強を教えるのも散歩をするのもいつもあんた! アシュリーはあんたとしか行きたがらない。たまに私がアシュリーを誘っても、いつも『リネアも一緒に』って言われてきたのよ! そんな私の気持ち、想像したことある!?」
突然、マチルドが声を張り上げたので、リネアは思わず目を見開いた。
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