ひと月後
――一か月の時が過ぎた。
だが、リネアとアシュリーの距離はあまり縮まっているように見えない。
そしてその間、大型犬のシャーリーの姿を見ることは一回もなかった。
この家が大きな秘密を抱えていることは確かだが、リネアは踏み込む気はなかったので考えることをやめた。
アシュリーがもう少し大きくなれば子守などいらなくなる。
短い期間の職場なのだから、家の秘密に触れないのが一番だ。
だが、その一か月のあいだに、リネアはクラウスからの信頼を多少は勝ち得たようだ。
ある日の午後、彼の執務室に呼ばれた際、いくつか重要な情報を開示してもらうことができた。
「アシュリーはもともと、元気な明るい子だったんだ」
クラウスは静かに語り出した。
アシュリーは八歳にして、両親を同時に事故で亡くしていた。
そのショックから、一時的に全く喋らなくなってしまったという。
親族の不幸に伴い、実弟のクラウスがヴァルハイト公爵家の家長代理を務め アシュリーの後見人となった――それを嫌がった彼の婚約者に逃げられてしまったという。
「アシュリーは、俺の婚約破棄がすべて自分のせいだと思い込んでいる」
クラウスは自嘲気味に息を吐いた。
「俺は次男で、彼女の家の入り婿になる予定だったんだ。アシュリーが大人になるまで待てないと言われた」
この国の貴族女性には適齢期といものがある。待てないという理由も自分勝手とはいいがたい。
「当時の婚約者ヴェロニカは君と同じ金髪で、アシュリーを見ていったんだ。『あなたさえいなければ、私は幸せな結婚が出来たのに』とね」
何も親を失ったばかりの子供に向けて言うことはないのにとは思うが、ヴェロニカはきっと幸せな結婚生活を思い描いていたのだろう。
いろいろと心の痛む話だ。
「クラウス様、私の代わりに年配の女性を子守として雇った方がいいのではないですか? 私の方でしたら、子守以外の別の雇用形態に切り替えていただければ、それで十分ですから」
実家に帰るのだけは絶対に嫌だった。だから、ここでは働きたい。メイドでも雑用でも何でもやるつもりだ。
実は、元夫であるウォルターの介護で、じょじょに食が細くなった彼の『介護食』はすべてリネアが手作りしていたのだ。
飲み込みやすさを工夫してとろみをつけ具材を細かく切り調整していた。
厨房に回してもらえるなら、料理人ほどではないにしても下ごしらえぐらいはできるし、体力にも自信がある。
「いや、いつまでも若い女性を怖がっている状態のままにしておくのも、アシュリーの将来のためにはならない。あの子には、偏見のない広い目で世界を見てほしいんだ。……だが、一番の理由は、そもそも募集を出してもあまり人が来ないし、来たとしても、すぐにやめてしまう」
フェンリルを大型犬だと言い張っているのが原因だと思われるが、リネアは別のことを口にした。
「ここはとてもよい待遇だと思います」
「そうかな……。王都の隣とはいえ、魔物が多い不便な土地だ。わざわざ進んで来たがる者などいないだろう。かといって、地元の村人たちには、貴族の子供に施すに足る読み書きの教養を持った者はいない」
クラウスの話はまだ続く。
「この領地の財政は、鉱物資源の採掘と農業によって支えられている。経済的には豊かだが、王都の人間が好むような宝飾店もなければ、カフェの一軒もない」
だが、リネアにとってここの待遇はオルセン伯爵家より素晴らしいので、そのことに対してはまったく不便は感じない。
それにウォルターの妻だった時も社交や遊びとは無縁だった。
ただ教育を与えてくれたのは本当にありがたいと思っている。
「……いろいろと、大変なんですね」
「これから先、俺はこの館を留守にすることもあるだろう。その時はアシュリーを頼む」
少なくともクラウスがアシュリーを大切に思っているのが伝わってきた。
リネアは、アシュリーが健やかに育つことを祈ることしかできない。
それにアシュリーはリネアに懐いてはいないが、とても可愛いと思う。
彼はただ恐れているだけで、とても素直な子供なのだ。
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