94
訓練場にある人間の胴体を模した的も「トルソー」と呼ぶのだと初めて知った。
「素人がトルソーに斬りつけると必ず手首を痛める。良かったな。事前にどんな実験をしたいのか話したお陰で、お前さんは怪我をせずに済むんだ」
ギルマスがニコニコして宣うた。
「実のところ、アークスパイダーの糸で織った布の防刃実験は以前もした事があるんで、俺自身は今更必要ないと思うんだが…。
お前さんの目の前で斬りつけて布の様子を見せないと納得しないだろうからな。ちょっくら斬りつけて見せてやるよ」
ギルマスがそう言って、布を切り裂くような角度でシャツを着せたトルソーを斬りつけた。
「ホラ、見てみろ」
と言われて、切り口を見るべくシャツに近づいた私は
「…切れてない。…防刃効果は本物なんですね」
と興奮した。
刺繍無しのシャツも刺繍有りのシャツも無事だ。
普段使いで着用しておけば不意打ちも怖くない。
「そう。アークスパイダーの布の防刃効果は本物だ。魔物を対峙する訳ではない日常生活内でのちょっとした刃傷沙汰では人命を救う事も多い。
現に俺自身、浮気がバレて嫁に刺された時も傷一つ負わずに済んだ」
「そういう場合は大人しく殺されておくのが良い夫だと俺的には思うんだが」
ギード・ブレイクが的確なツッコミを入れた。
「…そもそも奥さんに刺されるような事をしなければ良いのでは?」
「そうとも言う」
「そうとしか言わない」
「しかし…。防刃効果があっても打撃までは防がない。今度はシャツを斬るんじゃなく、トルソーを斬るつもりで斬りつけるぞ」
そう言ってギルマスが剣をふるうと…
バキボキッ
バキボキッ
とすごい音がした…。
「一刀両断になる筈の所が、強固な防刃効果で切断はされなかったものの…。衝撃自体は伝わって、やはりトルソーは破壊される…。
この事からも判るように、戦闘訓練を受けていない一般人の刃物からは充分守ってくれるが、魔力で身体強化した戦闘員や魔物の攻撃から身を守るのには不充分だ。
なのでアース・スパイダーのシャツは戦闘用ではなく、普段着用だな。
しかしそれなりの値段なので普通の平民は買えない。小金持ち以上の階級の人間の普段着用、という事になる」
私はギルマスの言葉に頷いた。
トルソーの材料であるトレントの木材が壊れる音を確かに耳にしたからだ。
しかしーー
刺繍した方のシャツを魔眼で見ると…
「…すごい勢いで魔力が精製されて使われている…」
のが判る…。
「もしかして… 老朽化防止の魔法陣図形と思ったものって、実はもっとすごいものだったのかしら…」
自分で刺繍しておいて自分で少し怖くなった…。
刺繍無しのシャツを着せたトルソーはそのままだが…
刺繍有りのシャツを着せたトルソーはピキピキ音を立てて復元されていく…。
ギルマスもブレイクも事務員さんも無言だ。
「「「………」」」
「復元機能付きだと?しかも、対象がシャツだけでなくシャツを着てたトルソーもだと?有り得んだろ、おい…」
ギルマスが呆然と事実を口にした。
「アンナ。お前さんは『老朽化防止の魔法陣を刺繍して、刺繍した魔法陣を見えなくする魔法陣も刺繍した』と言ってたな?…全然『老朽化防止』どころの騒ぎじゃないと思うんだが?!」
「そう、みたいですね。…私、この後、洗濯してみて、どのくらい消耗するかも見ようと思ってたんですけど」
「…復元機能付きなら、そもそも汚れないんじゃないのか?」
「ですよね」
「…『魔法陣の図形を教えろ』とは言わん。というか、そんなヤバイ魔法陣は門外不出にしろ。お前らも、絶対、誰にも言うな。分かったな」
「分かった」
「分かりました」
(「ヤバイ魔法陣」なのか…)
「そもそも何処でそんな魔法陣の図形を仕入れた?アザール王国って実はランドル王国以上の魔道大国だった過去があったとか?なのか?」
「アザール王国の魔法の歴史は、多分、精霊との契約にあると思いますよ…」
「精霊との契約?…」
「隠し部屋の入り口に隠蔽効果の魔法陣が施されてたりとかは精霊の協力で行われていて、アザール王国の石工や大工が近隣国と一線を画すような高度な技術を持ってたとかではないらしいです」
「人間が技術を持ってるんじゃないのか?」
「魔眼持ちなら隠蔽されてる魔法陣も見えて、それを書き写して使用すれば、『人間側の技術』という事にできたのだと思います」
「それって、今まさにお前さんがやった事だよな?」
「そうみたいですね?」
「…ともかく常軌を逸した技術というのは、悪党をどれだけ強力にしてしまうか予想も付かない。何処でどう漏れるか分からん。
流石に国王には報告しなきゃ不味いだろうから、密使を送っておく事にするが…。今後、お前さんの自由は著しく制限される可能性が高いな。
今すぐにでも侯爵家以上の家に嫁いで護衛騎士に常時護衛してもらう必要があるレベルで、今のままでは危険が大きい」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものか。本来なら王城に監禁かれて国王の為だけに服を仕立てる針子として囲われるべき案件なんだぞ。
それを緘口令を敷く事で護衛騎士の押し付けだけで済まそうと言うんだ。有り難く思え」
「護衛騎士の押し付け…」
「ともかく、お前さんはさっさと家に帰って義父に事情を伝えろ。1時間後くらいには王城から迎えが行くと思う」
「あ、やっぱり監禁コースなんですか?…」
「ギード。お前んとこで有能な奴を手配して、王城からの迎えが無事にこの子を王城まで連れて行くまで見守るようにしてやってくれ。金は俺が建て替えておくが、キッチリ国王から回収する」
「ウチの有能な奴って、結局、一番有能なのは俺なんだが?」
「んじゃ、お前が付いとけ」
「この子が王城に入った後はちゃんと護衛騎士が護ってやるんだろうな?」
「その辺は徹底するように頼んでおく」
「分かった」
…ヤバイ魔法陣は、本当にヤバイ代物だったようだ…。
******************
アランは事情を説明すると
「そうか…」
と苦笑しただけで特に文句を言う事はなかった。
ただ
「アニーは『伯爵令嬢』の枠にはどうしても収まりきれないのだろうね…」
と神妙な表情で言われた。
それが良い事なのか悪い事なのか私には判らない。
(無難に生きる、というだけの事が私には難しいのね)
という事だけ判った…。




