19
後部座席でスッキリした表情でアズマさんが自分の首をさすっている。さっきレイさんに首輪を外してもらえたので、それがよっぽど嬉しかったのだろう。
外した瞬間に少し緊張が走ったけれど、暴れたりシーちゃんに手を掛けるようなことはしなかったので安心した。有利な条件で交渉するための嘘だったのかなあ。でも演技には見えなかったな。
反対に助手席のシーちゃんはずっと暗い顔だ。ワクチンを打っている間も、出発の準備をしている間も何も喋らなかった。
少しでもレイさんの隣にいられたら嬉しいかなと思って助手席に座るよう言ったのだけれど、余計なことだったかな。
「湯船に浸かれたら最高だったんだが」
「あなたが壊したんでしょう。給湯器」
「ハハッ、そうだった」
村の外にここまで走ってきた車があるらしい。私たちはそこまで二人を送っていくことにした。お別れの時間も近い。短い間だったし殺されかけてしまったけれど、私は全然シーちゃんのことを嫌いになれなかった。もっと仲良くなりたかったな。人たらしなんてよく言われてきたけれど、情けないなあ。称号は返還しよう。
私は上機嫌なアズマさんの横で小さく溜息を吐き、外を眺めた。すっかり日が昇っている。バタバタしていてあまり感じなかったけれど、きっと外は秋の気配を感じるカラッとした暑さなんだろう。
村の入り口から少し離れた、大きな杉の木の横に小さな車がカバーを掛けた状態でちょこんと停めてあった。落ちた葉が少し降り積もっていて、停めた日から日数が経っていることが窺える。
車から降りるとアズマさんがそのカバーをすぐに取り外し、バサバサと葉が落ちていく。
シーちゃんはノロノロと助手席から降りて、それから荷物を移し始めた。大した荷物の量では無いので、すぐに終わった。
アズマさんは車が安全に動くかどうかチェックをしている。シーちゃんはしばらく俯いていたけれど、何かを決心したように顔を上げた。祈るように胸の前に手を組んで、艶やかな黒髪のポニーテールを揺らす。
「……レイ、私、やっぱりどうしても好きだよ……!!本当に、本当に……」
「…………」
「小さな頃から、レイだけが私を値踏みしなかった。私をちゃんと見てくれた。あのピアノの発表会覚えてる?花束を持って会いに来てくれて、だから……」
プライドも何も無い、これが素のシーちゃんなんだな、と思えた。
やっぱり二人には二人しかない時間の積み重ねがあって、私は絶対そこに踏み入れられない。シーちゃんの心の中の思い出の箱に、大事に、静謐に宝物が横たわっているのだろう。
でも私には分かるよ。レイさんって、ちゃんと優しい。境遇とか環境とか、何もかも取り払って、私だけを見てくれる。その誠実さが心地良くて、だから安心出来る。
レイさんはお別れだというのに表情を変えないまま、シーちゃんをただ見つめる。
「――シージーの気持ちには応えられない。でも、幸せに暮らして。……私はシージーの、気取らない子犬のワルツが好きだった」
「…………」
サラサラと冷たい風が流れてきて、シーちゃんの髪の毛を攫って少し揺らす。彼女の潤んだ瞳がレイさんを映して、それからシャッターを切るように一度瞼を閉じた。
彼女はレイさんへ歩み寄って、レイさんもそれを受け入れて二人は抱き合った。耳元でシーちゃんが何かを囁いて、レイさんは目を細めて頷く。
そしてシーちゃんは私の方へ体を向け、険しい顔で私を睨み付ける。まだ怒ってるのかな、なんて戸惑っていると息を吸い込んでから口を開いた。
「ホノカ」
「は、はい」
「……ごめんね!」
「え?」
「ん」
「え?」
「仲直りの、ハグ」
「えー!!」
シーちゃんは眉根を寄せたまま手を広げ、私は喜んでそこへ飛び込んだ。ギュッと力一杯しがみついて、シーちゃんと和解できた喜びで胸がいっぱいになる。
「ホノカ、怒ってる?」
「怒ってない!シーちゃんからハグしてくれるなんて、嬉しい!」
「レイへの気持ち、ずっと信じてくれてありがとう」
「ううん、お礼言われるようなことじゃないよ!」
「ホノカは、私のこと好き?」
「うん、大好き!へへ、ずっと仲良くなりたかった!」
「ふーん、本当にお人好しだよね。なんか、誰かさんを思い出すよ」
シーちゃんは至近距離で私の顔を見つめて微笑む。フルスクリーンで顔面国宝を拝んで、私は一瞬思考が停止した。そして彼女は優しい手付きで頭を撫で始めてくれる。私は飼い主に愛でられる犬のように、喜んでそれを受け入れた。彼女の手が私の後頭部に伸び、私の頭を固定する。
不思議に思った次の瞬間、シーちゃんは私の唇に自分の唇を押し付けた。
――柔らかい。
シーちゃんの真っ赤で果実のような唇が、角度を変えて何度も私の唇を啄む。
物語の中でキスをする人間を見てもいまいち想像出来なかった。ただ唇をくっつけるだけでうっとりしてしまったり、何でそんな反応をするんだろう、本当かなって。
……人の唇って、こんなに柔らかくて、温かくて、そして、気持ち良いんだ。
あ、でもこれ、息ってどうやって吸えば良いんだろう。吸っても吸っても鼻で上手く吸えている感じがしない。
鼻で息を吸うとシーちゃんの匂いで頭の中がいっぱいになって、何も考えられなくなる。甘くて瑞々しくて、女の子って感じの。
「んんっ」
「ハァ?!ちょ…シージー!!」
「アハハ!レイがモタモタしてるから先越されたね!」
酸欠で少しクラッとしそうになる瞬間、シーちゃんは唇を私から離した。そしてもう一度私を抱きしめてから、レイさんの方に向かって言う。背中越しなので、二人の表情は私には分からなかった。
「ホノカってちょろくて可愛い。モテそうだね、レイ」
「し、シージー……」
レイさんはそう絞り出すように名前を呟き、それ以上は何も言わなかった。
彼女はまだ戸惑って体を強張らせてる私の体をあっさり離して、解放する。
「バイバイ、レイ、ホノカ」
「げ、元気でね……!」
シーちゃんはとびきりの笑顔を見せてくれ、それから車に乗り込んだ。
「ホノカ、私にもお別れのキスを……」
「絶対やだ!さよならアズマさん!」
「一回したら、二回も三回も同じなのにね?」
「あなたとしたのはレイさんじゃないですか!さよなら!」
「だって?レイ」
「道中お気を付けて」
ハアーとわざとらしい溜息を吐いて、アズマさんは運転席に乗り込んだ。車のエンジン音が鳴り響き、砂利を払う音が聞こえて動き出す。
私たちは車が見えなくなるまでそこに立ち、二人のことを見送った。
******
「無防備過ぎると思うんですけど」
「だから、お別れのハグだったし、別に良いじゃないですか」
「殺されかけたんだよ?!何で許して、ファーストキスまで奪われてるの?!」
「そんなの分かんないもん……私シーちゃん嫌いじゃないし……」
「だから、それがよく分からない!あそこまでされて、何で嫌いにならないの?」
「もーいいじゃないですか。奪われちゃったものはしょうがないでしょう?」
「よくない。絶対、よくない!」
風が吹いて、地面に落ちた私の髪の毛がどこかへ飛んでいく。
レイさんは私の髪へハサミを入れながら、ネチネチ小言を言い続けた。怒りのあまり、モヒカンとか全く似合わない髪型にされてしまったらどうしようと思ったけれど、さすがにきちんと切ってくれているようだ。
シーちゃんに切られてしまって変になってしまった髪を、レイさんが整えてくれると申し出てくれたのは二人を見送ってすぐのことだった。普段お互いの髪を切りあっているので、その延長でお願いしたのだけれど、逃げ場のない場所でこうやって私を問い詰めるためだったのか、と安易に頼んだことを少し後悔した。
「ホノカちゃんは、シージーが恋愛対象なわけ?好きだったの?」
「え、え〜?うーん……でもキスは嫌じゃなかったかな……」
「…………」
レイさんの顔が鏡越しに歪むのが分かった。何でそんな顔をするんだろう。
何だかそうやってレイさんが傷付いた顔をしたり、私を責めたりするのが納得行かなくてモヤモヤした気持ちになってしまった。
いつもだったら飲み込んでしまうはずの言葉が、口から漏れる。
「そもそも、レイさんはどうなんですか」
「え?私?」
「そう、だってレイさん、アズマさんにキスしたり、私の頬にキスしたり、シーちゃんにベタベタされてもなーんにも気にしてないじゃないですか!レイさんの方がよっぽど人と距離近いじゃん!」
「それは……」
レイさんが反論しようとするのを制して、私は自分の話を続ける。
「だって、シーちゃんのこと家族みたいに思ってるわけでもなかったんですよね?おかしいじゃないですか!私は膝に乗ったり抱きついたりするのはパーソナルスペースがあるからって拒否してたのに!シーちゃんは最初っからレイさんの腕に絡んでて!差別!差別だ!」
「なっ……違うって、シージーは何度言っても聞かなかったからで……」
「私だって聞かなかったのに!シーちゃんはレイさんを好きだからですか?!やっぱり満更でもなかったんじゃ無いですか!」
「そうじゃないよ、ホノカちゃんは私だけじゃなくて、他の人にも……」
「シーちゃんだってそうじゃないですか!私にキスまでしてるのに!」
「た、確かに……?」
何だか思い出したら段々腹が立ってきた。レイさんは私にはいろいろ言うのに、自分はやりたい放題じゃない?シーちゃんと自分は良くて、私はダメだなんて!
イライラして体がじっとしてられなくなってきた。チラリと確認すると、レイさんの手は止まっている。
「終わりました?」
「え、あ、うん……」
「どうも、ありがとうございます!」
私はフンッと鼻を鳴らして鏡の中の自分を確認する。肩にかかるくらいのボブになり、前より随分軽やかになった。自分でもとっても可愛いと思う。
でもここまで何でも出来てしまって、器用なレイさんにも何だかイラつく。理不尽だと思っていても怒りを止められなくて、思い切り立ち上がってケープを脱いで髪の毛をバサバサと払った。
「え、待って、その首の傷なに?」
「え?あっ」
ケープを乱暴に引っ張ったせいで、首に貼っていた絆創膏が剥がれかけてしまっている。しまった、と思いながら首を隠そうとすると、レイさんは私の手を制して絆創膏を剥がした。
「うわ、何これ、咬み傷じゃん!結構深い……」
「消毒したから大丈夫です」
「ダメだよ。人間の口腔内って菌だらけなんだから、抗菌薬も塗らないと」
え?そうなんだ。私はアズマさんの顔をしたバイキンを想像し、ゾワっとする。そんなのが私の体の中で増殖するなんて、絶対無理!嫌だ!
「……ねえ、これアズマにやられたんでしょ。あいつ、本当に……」
イラついたようにレイさんがそう言って、そして次はまた無防備だった私に怒りが向けられるのだと察して、レイさんの手を振り払った。さすがにアレは回避出来なかったと思うし、もう怒られたくない!
「抗菌薬、薬箱の中にありますよね?」
「え?あ、うん、そうだけど、消毒も私がやるから……」
「いいです!1人で出来ます!」
そう言って、私は椅子や鏡を両手に抱え、ドスドスと怪獣のように足音を鳴らしながらレイさんの顔も見ずに家の中に入った。
次で2.5章最終回です。




