12
「ホノカ、大丈夫?」
水の中にいるようなぼんやりとしていた意識が、シーちゃんの声で一気に水面まで引き上げられる。ハッと顔を上げると同時に帽子のツバが落ちてきて、視界を覆ってしまい何も見えない。慌てて脱ぎ捨てて、汗でぐちゃぐちゃになった前髪を手でわしゃわしゃと散らした。
「ごめん、ちょっとボーッとしてた」
「隈出来てるよ。寝れてないんじゃない?」
「んー……」
「今日暑いし、もう家の中入ったら?倒れそう」
「そうだね」
ふぅ、と息を吐いて、袋の中へ今自分が抜いていた雑草を突っ込む。敷地内の畑の雑草は粗方抜けたかな。ボーッとしてしまったけれど、やることはちゃんとやっていた自分に安心する。
今日は急に夏の暑さがぶり返してきて、立っているだけで汗をかくくらい暑い。秋の気配を感じるひんやりとした風も吹かず、雲の無いまっさらな青い空にギラついた太陽が輝いていた。
そうして立ち上がると、くらりと視界が揺れる。目を閉じて眩暈がおさまるのを待って、再び目を開けた。
シーちゃんが私へ日傘を傾けてくれる。あ、ちょっと涼しい。
「具合悪いの?」
「あ、ううん、大丈夫。急に立ち上がったから、立ちくらみ」
「こんな暑い中やる必要ないでしょ。頑張りすぎじゃない?」
「これくらいの暑さなら平気なはず……ん?シーちゃん、どうしてここにいるの?」
ガーデングローブを外し、雑草が入った袋を持ち上げながら聞く。いつもなら二人で研究所にいる時間だ。シーちゃんは手で軽くパタパタと顔を仰ぐ。少しの汗もかいておらず、透き通った白い肌はむしろ涼しげだ。少しの乱れもないポニーテールを揺らしながら、口を開く。
「今日暑いし、早めに切り上げようって」
「そっか」
シーちゃんをこの暑い中外に居させるわけにはいかない。道具の片付けもそこそこにシーちゃんと家の中へ入った。
「私、シャワー浴びちゃうね」
「そう?倒れないようにね」
そんなに体調悪そうに見えるのかな。リビングへ消えていくシーちゃんを見送ってから、シャワールームへ向かう。
レバーを捻ってシャワーから水が出てくる。この暑さのせいか、冷水を出しているはずなのにずいぶんぬるい。水で濡れた鏡で自分の顔を眺めると、確かに隈が目立っていた。最近夜眠れないもんなあ。誰かがいるかもしれないと思って、無意味に夜更かししてしまったり、寝つきも悪かったり。昨日の夜は……
あれ?昨日の夜はどうしたんだっけ?
何時に床に着いたかも記憶が曖昧だ。駄目だな、さすがに今日はちゃんと寝よう。ここ数日は何も無いし、あまり気を張っていてもしょうがないよね。
水を止めて、バスタオルで体を拭く。洗面所へ出て服を着て、ドライヤーをかけようとしてスイッチを入れる。
「……?」
付かない。カチカチと何度かスイッチのオンオフを入れてみたけれど、付かなかった。壊れてしまったのかな。まあ、髪は自然乾燥でもいいか。タオルでわしゃわしゃと自分の頭を掻き回す。後で実家からドライヤーを持って来よう。
そう思い、丁寧に髪の水分をタオルに吸わせていると、廊下からバタバタと走る音が聞こえてくる。ガラッと扉が開けられて、シーちゃんが顔を覗かせた。
「どうしたの?」
「ドライヤー使ってない……」
「うん。壊れたみたい」
「違うよ」
「え?」
「電気、付かないんだよ。ほら」
シーちゃんが入口のそばにある部屋の電気のスイッチを押す。カチリ、と音がしたが部屋は明るくならない。
「ほんとだ」
「ブレーカー落ちたのかと思って。ホノカがドライヤー使ったから」
「使う前から付かなかったよ……?」
「とりあえずレイのとこ行こ」
そう言われ腕を引かれる。私は濡れたままの髪を揺らしながら、後を着いて行った。レイさんは家の中にはおらず、外に出ていたようだ。私たちがリビングに入ったタイミングで勝手口から室内へ入って来て、肩をすくめてみせた。
「断線してる。修理しなきゃ。今日中には直らないね……」
「え、断線?!」
私が声を出すと、レイさんは頷く。
「おまけに、給湯器もやられてた。こっちは交換しないと。まあ、急ぎじゃないね。部品自体は他の家から持って来ればいいから……」
「ちょ、ちょっと待ってください。やられてた?壊れてるんですか?」
「そうだね」
サラリと答え、何でも無さそうに歩き出す。私はレイさんを追いかけた。
「え、大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫だよ。そもそも、この家は災害や戦争が起こってインフラが機能しなくなった時でも、長期的に過ごせるような設備を備えているから。どれか一つが駄目になっても大丈夫なように、それぞれ代替手段が用意されてる。例えばお湯は太陽熱温水が……」
「そういうことじゃなくて」
私は話を遮った。レイさんは振り返って、私の顔を見つめた。
まただ、またこの顔だ。子供をあやすような、この表情。眉尻が下がって、可哀想な生き物を前にしているような、少し困っているようにも見えるような、そんな顔。
「安心して。何も気にしないで大丈夫」
「そんなわけないじゃないですか!次は何を壊されるか分からないんですよ?物だけならまだしも、次は私たちが襲われるかもしれないのに!」
絶対におかしい。何でレイさんはこの間から積極的に何かをしようとしないんだろう。対処療法ばかりで、根本的にどうにかしようとする気持ちを感じられない。
強い抗議の気持ちを含めて私が放った言葉に、レイさんは更に眉を下げた。
「――ねえ、レイ、もういいんじゃない?」
ずっと黙っていたシーちゃんが、私の後ろからレイさんの横に移動する。そしていつものように腕を絡めた。それをレイさんは特に諌めない。
彼女はレイさんと同じように眉尻を下げ、憐れむような微笑みを浮かべて私を見つめた。そして、真っ赤な唇を開く。
「やったの、ホノカなんでしょ?」
「…………へ?」
あまりにも突拍子も無いことを言われ、間抜けな声が出る。
私が?何で?
シーちゃんは一度レイさんをチラリと見てから、クスッと笑う。
「あのね、第三者が入ってきた記録なんてどこにも残ってないの。それに、全部私とレイが居ない時間帯に起こったことでしょ?」
「それは……」
「しかもホノカ、最近夜うろついてるじゃない」
「え?」
「最近毎晩部屋を出て行ってるよね。だから寝不足なんでしょ?」
「待って、そんなことしてない」
本当だ。夜に出歩いたのはカメラの映像を確認したあの日だけで、それ以外は一度寝室に入った後に外に出るようなことはしていない。
シーちゃんはレイさんに頭を預け、ゆったりと微笑む。
「じゃあ、記憶が無いんだ。無意識に夜出歩くなんて、相当なストレスなんだね」
「違う、何もしてない!それに、私にそんなことする動機なんて無いでしょ?!」
思わずそう叫んで、一歩踏み出す。シーちゃんは一度レイさんから離れ、私の側に近寄る。焦って汗をかいて冷えた私の手を、彼女の温かで滑らかな手が握る。
「かわいそう、ホノカ。レイが私にとられると思って、おかしくなっちゃったんだね。だから存在するはずのない他人を作り上げちゃってるんだ」
「は?」
「ホノカ、前もストレスで記憶を失くしてたんでしょ?こんな世界で、心が弱いと大変だね」
ピキリ、と音がして指先から全身が凍っていくような感覚がした。内臓も冷えて固まって、心臓だけがバクバクと体を温めようと必死で動いている音が、鼓膜の裏に響く。
レイさん、喋ったんだ。シーちゃんに、私が記憶喪失だったこと、精神的に不安定なこと。
あの日見た光景が脳内でフラッシュバックする。図書室の中で見た、専門書。PTSDとか、愛着障害の文字が脳内で踊る。
固まって動けない。シーちゃんがまだ何か喋っているようだけれど。何も入ってこない。
自分が恥ずかしくて、とんでもない化け物に思えてくる。
そっか、レイさんもシーちゃんも、あの可哀想な目をしていたのは、私がおかしいと思っていたからなんだ。だから最近あんな目で私を見ていたんだ。
私1人だけが第三者がいるって思い込んで暴走していたんだ。2人とも、私がやったと思ってるから。
私、本当に何もしてないのにな。でも、私も私のこと信じられない。本当に、やっていないのかな。
「――ホノカちゃん、ゆっくり息吸える?」
「…………わ、たし」
詰まった喉から震えた変な声が出る。目の前がどくどくと脈打っていて、視界がぼやける。
「なにも、してない」
「うん、分かってるよ」
「うそだ」
「信じてるよ。大丈夫だよ」
「…………」
いつの間にか、私の手を握っているのはシーちゃんじゃなくてレイさんに代わっていた。でも私の手は冷たすぎて、レイさんの温もりがよく分からない。どんな顔をしているのか怖くて、顔を上げることも出来ない。
「……ごめん。シージーをさっさと止めるべきだった。喋らせない方がよかった」
「レイさん」
「ん?」
レイさんはギュッと両手で私の手を握る。握られてるのに、全然何も伝わってこない。
「何で、私の頭がおかしいこと、言っちゃったの?」
「……そんなこと一言もシージーに言ってないよ」
「記憶喪失だったこと、言ったんじゃないの?」
「言ってない」
「でも、レイさん私のこと、頭おかしいと思ってる」
私がそう言うと、レイさんの息が詰まるような声が聞こえた気がした。
「思ってないよ」
「うそ」
「……何でそう思ったのか、聞かせてもらってもいい?」
「離れの図書室、見たよ」
私がそう言うと、ぴくり、と私の手を握るレイさんの手が動いた。
それだけでもう十分だった。
レイさんの指を、逆の手で私の手から外していく。追い縋るようにもう一度繋がれたけど、振り払った。
「恥ずかしいし、消えちゃいたい。……シーちゃんに、言わないで欲しかったな」
何も、返ってこない。
否定しないって、そういうことだ。
あの場でもレイさんは否定しなかった。私はやってないって、否定してくれなかった。腕に絡むシーちゃんを、拒まなかった。
「……ごめんなさい。一人になりたい」
「え、待って、ホノカちゃん」
腕に着けたスマートウォッチを外す。ゴトッと音がして、床に落ちた。私がどこにいるか把握して、安心なんてしてほしくなかった。
リビングの扉から出ようとすると、勢い良くシーちゃんが入ってくる。
「レイ、救急バッグってこれ?」
「待って!」
「ついて来ないで」
「ちょっと、何?」
腕を掴むレイさんの手を思い切り払う。私はシーちゃんの横を抜けて、扉をバタンと閉めた。
「ホノカ、一人になりたいんでしょ?そっとしておきなよ」
「ダメだって、GPSも無いのに……」
そんなやりとりが背後から聞こえてきたけれど、どうでも良かった。
私の頭がおかしいから、そうやって監視をして安心していただけなのかな。今はそんな風に捉えてしまって、冷静じゃ無いんだろうなとどこかでぼんやりそう思う。だから頭がおかしいと思われるのもしょうがない、なんて自分でも自分のことをもう信じられなくなって、思い切り玄関の戸を開けた。




