10
ここ数日、何だかおかしい気がする。何が、とは具体的には言いにくいんだけれど。黒板に爪を立てられた時みたいな、ゾワゾワッとした不快な感覚がする。
「あーれー……」
私はキッチン横のパントリーで首を傾げる。缶詰が減っているような。でも自信が無い。私以外にもシーちゃんやレイさんだってこういった備蓄は食べるわけだし。それにしても減りが早い気が。
最近、そんなことばかりだ。残ったご飯を片付けようと、炊飯器を開けたら思ったよりご飯の量が少なかったりとか、干して畳んだはずの洗濯物が行方不明になってどこかに行ってしまったりとか。
さっきだって、床に落ちてた小物を踏んづけて思いっきりレイさんの前で滑って転んでしまった。転ぶことなんて普段無いのに。それに床に落ちていた小物だって、実家に置いていてこちらに持ってきた記憶のない物だ。小さな髪飾りで、それなりに気に入っていた物だったのに、踏んづけたことで飾りの部分が粉々に壊れてしまった。レイさんもレイさんで、転んだ私を見て大慌てで車椅子を持ってきて、精密検査なんて言い始めて大袈裟でびっくりしてしまった。怪我も無いし必要ないですよ、と伝えれば、体中隅々まで確かめられて、それでやっと納得してもらえた。
レイさんは私が惚れ薬を飲んでしまった日から、何だかより一層過保護になってしまった。自分の行動が悪いのだけれど、私が何かを口にするとこちらを見て逐一確認しているのが分かるし、自分がいない間に私が何を食べたかも聞いてくる。具合はどうか、夜は寝れたか、気分はどうか、熱は?と毎日聞かれてちょっとうんざりしてきた。元気です、と投げやりの定型文で答えてしまっている。
そんなに過保護なくせに、レイさんはあの日以降一緒に寝ようとは言わなかった。少しホッとした。シーちゃんに嘘を吐き続けるのは辛かったから。
でも、何だかレイさんの行動にしてはチグハグな気がする。けれど私から質問するのもおかしな気がした。だって、何で一緒に寝ないんですか?なんて、まるで私が一緒に寝たいみたいじゃないか!
だから私は日々の違和感を確認することもなく、何となくズルズルと過ごしていた。
「んー……補充するかあ」
私はそう1人で呟いて、地下へ向かう。地下は備蓄保管庫のようになっていて、食料品のストックなどもたくさんある。ここに来るとまだ私たちは餓死することは無いんだろうな、とホッとする。まあ、期限があるからそのうち切れるものも出てくるんだろうけれど。
とりあえず棚の空いたところが埋まるくらいの缶を両手に抱える。キッチンへ戻る途中の廊下で、シーちゃんとレイさんが玄関側から歩いてきたところにちょうど出会した。相変わらずシーちゃんはレイさんの腕に巻き付いている。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま」
「それ何?ホノカ、そんなに食べるの?」
「え、ああ、違うよ。棚に無かったから、補充しようと思って」
そう答えると、ふーん、とシーちゃんは興味無さそうに返事をする。聞いてきたの、シーちゃんなのになあ。2人は手を洗いに行き、私はキッチンへ戻る。パントリーへ缶詰を置いて、リビングへ戻る。
「ん……?」
リビングのテーブルの上に、見覚えのある小さな透明な袋が連なって無造作に置いてある。
これ、シーちゃんが持ってた惚れ薬だ。何でこんなところに置いてあるんだろう。やばい、これレイさんが見たらどう思うんだろう?どう見ても薬包だ。レイさんが食いつかないわけが無い。
私は咄嗟に自分のポケットにそれらを突っ込んだ。シーちゃんの部屋に置いておこう。そう思い、小走りで扉へ向かうと、丁度部屋に入ってきたレイさんと鉢合わせる。
「あ、ごめん」
「いえ……」
「……?どこ行くの?」
「ちょ……っと、部屋行ってきます」
「そう」
特に怪しむ素振りも無く、レイさんはリビングへ入った。ホッとしてそのまま扉から出て、早歩きで2階へ向かう。シーちゃんの部屋の前へ着き、扉を開けようとして一瞬躊躇する。勝手に部屋に入るのって、良くないかな。でも私に毎日シーツを変えるようにだなんて言っていたくらいだし、抵抗が無いのかもしれない。ポイっと机の上にでも置いて、すぐ出てくればいいか。
ドアノブに手を掛けて、力を入れた。私の緊張をよそに扉はあっけなく開く。一歩中へ踏み入れると、ふわっとシーちゃんの香りがした。可愛い女の子の匂い。綺麗な子は部屋まで素敵な香りがするんだな。
何だか、良く無いことをしている気分だ。シーちゃんが来てからずっと抱えている罪悪感が、ここでも頭をもたげる。人の部屋に入って感想を持ってしまうことすら、いけないことに感じた。
なるべく何も見ないようにし、机の側まで歩いてサッとポケットから薬を出した。それを投げるように机の上に置いて、扉の方へ振り返る。
「わっ」
「わああ?!」
突然声をかけられ、私は飛び上がって叫んでしまう。自分のよく通る声が部屋に響いて、鼓膜を貫いた。
「うるさっ」
「しししし、シーちゃん」
目の前に立つ彼女は、耳を両手で押さえて顔を顰めた。私は飛び出そうな心臓をギュッと押さえて、息を吐く。
「びっくりした、どうしたの……」
「こっちのセリフだよ、ホノカ。人の部屋で何してんの?」
「えっ。あ……」
私は机の方を振り向く。シーちゃんも私の肩越しに机を覗き込んで、納得したような声を出す。
「ああ、何?惚れ薬、欲しかったの?」
「ええ?!違うよ、リビングに置いてあったから、レイさんに見つかったらまずいと思って……」
「え?リビングになんて持っていってないけど」
シーちゃんは笑いながら顔を傾ける。私は耳を疑った。
「テーブルの上に投げ出してあったよ?裸のままで……」
「裸?そのままってこと?いつから?」
「いつ、って……」
記憶を辿る。私が外で農作業を終えて帰って来て、その時はどうだったっけ。でもそういえば、シーちゃんが家から出ていった時にはテーブルの上には無かったような……。
あれ?だとすると、家の中にいないシーちゃんがどうやって薬を置くんだ?
私が考えていると、シーちゃんはフン、と鼻を鳴らして薬をポーチの中へしまう。
「誤魔化さなくていいよ。ホノカもやっぱりレイに使いたかったんだ?それとも、私に?なんて」
「え、え?!違うよ!本当に置いてあったんだよ!」
まただ。また何かがおかしい。私が認識していることと、現実が食い違っている。どうして?
必死になってそう主張すると、シーちゃんは机に寄りかかり、腕を組んで私を見る。
「あのねえ、無理でしょ?私、レイと一緒に外にいたのに、置ける訳ないでしょ?」
「そ、そうだけど、でも、惚れ薬なんて私欲しくないし……」
「じゃあ、この間渡したやつ返してよ」
シーちゃんは私に向かって手のひらを差し出す。ウッと言葉が詰まって出て来ない。あれは私が飲んでしまったので、もう無い。
彼女は鼻で笑ってから手を引っ込める。
「ほら、渡せないんでしょ?」
「……自分で、飲んじゃった」
「何、その苦しい言い訳。信用ならないんだけど」
「本当だよ!どんな効果になるのか知りたくて、その……」
「嘘吐くなら、もっと考えたほうがいいよ」
そう言われ、私は服の裾をギュッと握る。確かに全てが嘘っぽい。私だって第三者として聞いていたら、怪しいなと思ってしまうだろう。口の中が乾いていって、唇が張り付いて上手く言葉が出てこない。そもそも上手い言葉なんて思い付かなくて、全て表面をなぞったような本質的では無い、嘘っぽいことしか出て来そうに無いのだけれど。
「…………」
「ま、とにかくいいよ別に。レイが夜姿消してるんじゃ、惚れ薬使ったところで意味ないからね。このプランは無し」
良くない、私の誤解は解けていない。でも自分の無実を証明するようなことも出来ないし、自分の言葉をグッと飲み込んだ。
「お腹空いちゃった。ご飯食べようよ」
「うん……」
黒板に爪を立てた時のような、魚の骨が喉に引っ掛かって取れない時のような。不快な感覚がずっと付き纏っている。惚れ薬、やっぱり飲むんじゃ無かった。あれのせいかもしれない。あんなもの、レイさんに飲ませなくて良かった。
私はシーちゃんの後ろをただ黙って付いて行った。
******
まだまだ外で作業すると汗をかく暑さだ。朝方や夜は涼しくなってくることも増えたんだけれど。パタパタと手で顔を仰ぎながら、洗濯物を干していく。
暑いし陽の光で乾くだろうけど、急に天気が悪くなって雨になったらまた洗い直しだ。夏はそんな日もあるからちょっと怖い。室内で干せば良いのかもしれないけれど、おひさまの光を吸い込んだ洗濯物が好きなんだよね。だから晴れてる日はなるべく外に干したい。
洗濯カゴの中からシーツを取り出して、伸ばしてから竿に掛ける。大きなサイズなので、毎回結構大変なんだよね。レイさんは背が高いから、平気な顔で干しているけれど。
そういえば、最近2人で家事したりって、ないな。いつもシーちゃんがひっついていて、レイさんを振り回しているから。夜に時間がある時に洗濯物を畳んだり掃除したりしてくれているけれど、晴れた日に一緒に寝具を干して、終わったらウッドデッキで寝転がったりするなんて過ごし方、してない。
洗濯物を干しながら私が鼻歌を歌っていると、それを目を細めながら眺めるレイさんの顔がふっと浮かぶ。ああ、私そういう何ともない日常が、幸せで本当に大好きなんだ。
じわ、と心の中に水のようなものが湧いてくる。まだ足の裏を濡らす程度だけれど、これがどんどん増えていったら肺を水が満たして息が出来なくなってしまう。寂しさって、溺れるのと似てる。冷たい感覚、焦り、苦しさ。そう、今ちょっとだけ寂しいんだ。
レイさんはずっと私と一緒にいてくれるって、何度も言ってくれている。それを信じているけれど、信じたいと思っているけれど、もし本当にシーちゃんと一緒にいなくなってしまったら、あんな日々ももう訪れないのか。
もっとちゃんと、レイさんはキッパリとシージーちゃんを断ればいいのに。いや、でも、私がレイさんに優しくするように言ったんだった。何だか、私やってることチグハグだな。
シーちゃんの恋する気持ちは応援したい、でもレイさんにはちゃんと断ってほしい。私と一緒に暮らせなくなっちゃうから。そんなの、すごく、自分勝手だ。
私は、シーちゃんにもうこれ以上寄り添えないかもしれない。レイさんを連れて行かないで、なんてやっぱり言えはしないけれど、今の自分の立場でも意思表明は出来ると思う。自分の気持ちを守るために。
小さく息を吐いて、残りの洗濯物を干そうとカゴを持ち上げて移動する。ふと、地面にキラッと光るものが目に入る。
「ん……?」
カゴを置いて、近付く。人工芝の上に散らばる、キラキラ光るそれをしゃがんで眺める。
……ガラスの破片だ。何でこんなものが?視線を上へ向ける。
「え!うそ!」
2階の窓が割れている。何で?いつ?どうやって?
暑さのせい?それか、鳥でもぶつかったのだろうか。だったら中を確認しないと。あ、ガラスも危ないから掃除しなくちゃ。でも洗濯物、どうしよう。
とりあえず状況確認が最優先だ。洗濯物は一旦放置して、中を確認しよう。そう考え、私は勝手口へ向かった。
2階へ駆け上がる。たくさんのドアが並んでいて、あれ、そういえばどの部屋の窓が割れたんだろう、と疑問に思う。えーっと端から何番目の部屋だ?この家、広いからどこの部屋だったのか分からなくなる。とりあえず思い当たる部屋を片っ端から開けて行き、三つ目で当たった。
「うわ……」
荷物も何も置いていない、殺風景な部屋。レースのカーテンが風でさらさらと揺れ、その向こうに見え隠れする窓は歪な形の穴が空き、蜘蛛の巣状にヒビが入っていた。フローリングに破片が落ちているけれど、それ以外の特徴的な痕跡は見当たらない。
暑さのせいでこんな風に割れてしまったのだろうか。一体、いつから?
レイさんに言わなければ。スマホを取り出して、連絡しようとする。そこで、ふと指が止まる。
――第三者が、いる?
最近の、違和感。車がおかしかったのも、食料が無くなってるのも、あの薬も、誰かがやったんじゃないのか?だって、いつからこの窓は穴が空いてるの?ここから誰かが入って来たんじゃないの?今、家の中にいるのかもしれない。
ゾクッと背中に寒気が走って、手が震える。どうしよう、レイさんに言うべきなのかな。でも、この状況信じてもらえる?私が窓を割ったって思われてもおかしくない。昨日、シーちゃんに言われたみたいに。
生温い空気が頬を撫ぜる。白がゆらゆら踊って、部屋の中に風を運んだ、
「――ホノカちゃん?どうしたの?」
「ひゃああ!」
後ろから声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚く。咄嗟に振り向くと、レイさんが驚いた顔をして立っていた。
「ご、ごめん。驚かせちゃった?」
「あ、え、いや……」
デジャヴだ。シーちゃんとも同じやり取りをしたばかりだ。私は跳ねる心臓を落ち着ける。レイさんは私から部屋の中へ視線を移す。ハッと息を呑んだ。どうしよう。視線が泳いでしまって、それも怪しまれるかもしれない、と思うと自分がどんな風に息をしていいのかも分からなくなってしまう。
「窓割れたの?大丈夫?怪我は?」
「無いです……」
「破片踏んでない?ガラスには触った?指先は?」
レイさんは焦ったように私の手を掴んで怪我をしてないか確認をする。その様子を見て、私は何だか力が抜けた。
「あ、その、私も今割れたのを見つけたので……」
「そっか。怪我がなくて良かった」
ホッとしたようにレイさんの顔が緩む。私の手を離して、再び背後に視線を移した。
「これ……」
「あの、レイさん、シーちゃんは?」
「リビングで寝てる。気分悪いって言うから、帰ってきた」
「え?大丈夫なんですか?」
「大丈夫。それより、これ今気付いたんだよね?」
「はい……」
私が頷くと、レイさんは目を細める。私を背後に庇うようにして窓の側に近寄った。その背中に問いかける。
「誰かが、入って来たんでしょうか……」
「…………うーん」
「だって、鳥がぶつかったわけでも無いし、暑さで割れたわけでも無いですよね……?」
「この割れ方だとね。暑さが原因なら、端から線が入ったように割れるから。衝撃を受けないとこういう割れ方はしない」
そうなんだ、知らなかった。レイさんはいつものように、分かることははっきり答え、分からないこと、喋りたくないことは曖昧に返事をする。
だからこそ、誰かが入って来たのか、という私の言葉に対して返事を濁されて、釈然としない。
「この家の中に、今も誰かいるんじゃないですか?」
「それは無いと思うよ」
「どうしてですか?」
「監視カメラ付けてるけど、誰も映ってないから」
「監視カメラ?!」
私は思わず声を上げた。そんなもの、この家に付いていたのか。今まで知らずに過ごしていた。え、私のあの情けない寝顔とか、だらしなくお腹を出して寝てる姿とか、諸々の人に見られたく無い姿が映ってるってこと?!
衝撃を受けて固まっていると、何かを察したレイさんがブンブンと顔を振る。
「いや、もちろんプライベートな空間は撮ってないよ。外だよ、外」
「あ、そっか……」
ホッと胸を撫で下ろす。そうだよね、さすがにレイさんもそんなことしないよね。
「それにこの家の中に侵入したとして、どこも荒らされた形跡無い。地下の食糧庫も一応カメラはあるけど、映って無いと思うよ。人感式だし、反応があればすぐ分かる」
「いや、でも……」
私はシーちゃんの薬のことを話そうとして、口をつぐむ。レイさんに薬の件は話してはいけないんだった。車の件だって、結局何も無かったんだ。証拠が何も無い。ご飯だって、缶詰だって、何ひとつ他者がいることの証明にはなっていないから、話したところでどうしようもない。
レイさんは私を疑っているわけではないけれど、証拠の無いことは断定しないから、気がするとか、そんな感じがした、とか言ったところで困った顔をされておしまいだろう。
でも、他の人間がいるとしか考えられない。私はそう言いたい気持ちをグッと堪えて、きゅっと口を引き結んだ。
「……不安?」
「え?」
「窓が割れてて、その理由も分からなかったら不安だよね。家の中調べてみる?」
「…………」
一体何時間かかるんだろう。この家はとてつもなく広い。隠れるところもたくさんあるだろうし、探している間に移動されたらどうしようもない。
私は首を静かに横に振った。レイさんは私の頭にポンと手を置いて、心配無いよ、大丈夫、と呟いた。いつもはその言葉に安心するはずなのに、今は不安を拭えなくてただ頷くことしか出来なかった。




