7
シーちゃんがお菓子を作り上げて研究所へ向かうのを見送って、私は朝のルーティンをこなす。いつもより遅いスタートだったので、慌てて外に出て作業をした。洗濯物は夜でもいいかなあ。ランドリールームで洗濯物を干すの、本当は電力の無駄使いな気がして嫌なんだけど今日くらいは使ってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら家に戻りリビングに入ると、暗い部屋で電気も付けず、レイさんがソファに俯いて座っていた。そのあまりにも暗い雰囲気に、思わずうわっと声を出してしまう。私が声を出してもレイさんは少しも動かない。電気を付けて側へ近寄った。
「どうしたんですか?シーちゃんは?」
「………少し散歩してから帰るって……」
「何かありました?」
「…………」
レイさんは、顔を上げない。俯いたまま、自分の隣の座面を手で叩いて、私にそこへ座るように促す。荷物を床に置いてそこへ座ると、手を握られ指を絡められた。俗に言う恋人繋ぎというやつだ。いつもならすぐに握り返してしまうのだけれど、シーちゃんに協力すると言った手前、これは彼女への裏切りになってしまうのでは無いかと頭に過ぎる。私とレイさんの間には恋愛感情は無くて、お互いを大事だという気持ちだけなんだけれど、それは外から見たら分からないだろうし。
昨日、シーちゃんはレイさんが私を大事に思っていることが許せないと言っていた。そう思うと何だか身動きが取れないような気持ちになってしまって、自分から握り返すことが出来なかった。
そんな私の様子を不審に思ったのか、レイさんが少し顔を上げる。垂れた前髪の隙間から瞳が覗いて目が合った。
「……嫌だった?」
「嫌、じゃないんですけど……」
「シージーか……」
はあ、と溜息を吐いて、レイさんがそのまま私の肩に寄りかかる。握った手の親指で、手の甲を撫でられた。体が硬直して、反応を返せない。
「シージーが私を好きって言うから、こうやってくっついてるの悪いかなって思ってるんでしょ」
「う……分かります?」
「分かるよ、それくらい……」
スリ、と肩に頬擦りをされる。こんなにレイさんが私にくっつくなんて、珍しい。シーちゃんのことで疲れてしまったのかな。
「私の気持ちなんてどうでもいいんだね」
「え?」
「シージーの気持ちは考えるのに、私がホノカちゃんに触りたい気持ちは考えてくれないんだ」
「そ……」
そんなことは無い。けど、レイさんからしたらそう感じるよね。どうしたらいいんだろう。だって真っ直ぐな彼女を応援したい気持ちもあるし、そしたらレイさんとこうやって手を繋いだり抱きしめてもらったりするのは何だか裏切り行為のような気もするし、でもレイさんは他意なく私にくっつきたいだけなのにそれを否定するのは可哀想だし……
思考がぐるぐる回って、答えが出ない。でもこの手を振り払ってない時点で全部中途半端なのかもしれない。結局手を繋いでしまっているし、それなのに握り返せもしなくて、シーちゃんのこともレイさんのことも傷付けてしまっている。
「……冗談だよ」
レイさんはそう言って手を離して、顔を上げて背もたれにもたれかかった。少しホッとしてしまう自分がいて、でもそれもレイさんを傷つけてしまうかもしれないと思って、息を吐くのを我慢した。
「シージーがお菓子を作ってきてくれたんだけど、食べなかった。それで大喧嘩して帰ってきた」
「食べなかったんですか?」
「食べない。何が入ってるか分からないから」
レイさんはそう言って溜息を吐いた。
シーちゃんが一生懸命お菓子を作る姿を思い出す。材料を見せたらクッキーが作れるって言って、手際良く、楽しそうに作っていた。
レイさんのことを大好きなシージーちゃんが、害するような何かを入れるとは思えないんだけどな。どうしてそんなに警戒しているんだろう。
私の表情を見て察したのか、レイさんは口の端を上げて皮肉げに笑う。
「入れるわけないって?何で分かるの?一から十まで作るところ見てた?叔父さんの家でのこと、忘れたの?」
「見てないですけど、でも……」
「嫌がってるのに部屋に入ってきて一緒に潜り込んで寝てくるような子だよ?何するか分からない」
「……シーちゃん、本当にレイさんのこと大好きで、その……」
レイさんは苛ついたように私を見る。その視線を受け止める自信が無くて、目を逸らした。
「……あの、一口くらい食べてあげてもいいんじゃないかなって、思っただけで……」
「何で?」
「だって、レイさんを傷付けるようなものを入れるわけないし……」
「どうしてそう思うの?」
「え?だって、好きな相手を傷付けるようなこと……」
「私だったらそうだね。きっとホノカちゃんもそう。でも、シージーは違う」
そうきっぱりと言われ、ドキッとした。心当たりがある。彼女は目的を果たすためならレイさんの意思は尊重しないと言っていた。手段は問わないということなのかも。それこそ薬で朦朧としたレイさんに無理やりキスするくらいのことはやるかもしれない。分からないけど。
「ホノカちゃんはシージーのこと、どう思ってるの?」
「どうって……その、一生懸命で一途だなって……」
「私は疑ってるよ。どうやってここに来たのかも、何のためにここに来たのかも、私を好きって気持ちも、全部」
「…………」
「でも、ワクチンを作ることに協力してくれたことは事実だから、その分の恩は返したいってだけ」
「……何かでも、シージーちゃんの話とは大分温度差が……」
私がそう言うと、レイさんは一旦深呼吸をした。一度姿勢を変えて、それから改めて喋り出した。
「そうだね。その辺りの話はあまりしてなかったね。……シージーは私に好意的だけれど、あの一族は昔から私を信用していないんだよ。理由はいろいろあるけれど、とにかく表面上取り繕っていただけで裏ではギスギスしていた。だから、まさかワクチンを作るのに協力してもらえるなんて思ってもみなかったけど、結局は私の方の本家への義理だろうね。完成させるなんて夢にも思っていなかったんだよ」
驚いた。聞いていた話と全然違う。そんな仲なのに、レイさんは恩があるからというだけでシーちゃんにワクチンの製法を伝授しようとしているんだ。どれだけ真面目で義理堅いんだ、レイさんは。
私は困惑して、確認のためにレイさんに問いかける。
「じゃあレイさんはそこまでシーちゃんの家族とは仲良く無いってこと?」
「そうだね。そもそも私が就職してからはシージーとも連絡すら取ってないよ。止められてたんじゃないかな。少なくとも、家族ぐるみの付き合いでとても懇意だというのはシージーの意見だね」
「…………」
「身元を明かさずに私を探していたでしょう?自分たちの名前を出したら、私は警戒して出て来ないだろうって思ったのも理由の1つだと思うよ。シージーは知らないかもしれないけど」
だからか。レイさんの反応が腑に落ちた。
思ったよりも、レイさんのシーちゃんと、それからご家族に対する思いはドライだった。とても親しい仲だと思っていたのに、2人の気持ちには大きな乖離があるようだ。私は無邪気に彼女の気持ちを応援しても良かったのだろうか。
でも、あの目は嘘を吐いているようには見えなかった。そこを疑ってしまうのは何だか、とても可哀想な気がした。確かに私たちの思っている好きとは違うかもしれないけれど、それでも彼女がレイさんを好きだと思う気持ちを疑うのは気が引けた。
「事情は分かりました。でも、レイさんが、その、言うことも分かるんですけど……あまりにも冷たくないかなって……」
「…………」
「疑ってるのも分かりますけど、結局大喧嘩してるわけですよね……?やり方がもうちょっとあるかなって」
「自分のことを好きだって言ってる相手に、優しくしろってこと?気持ちも無いのに?」
「んん……だから、えっとなんていうか、その、うまく言えないんですけど、信じてないことを態度を出しちゃうのは、どうなのかなって……その、疑ってるにしても、探り方があるというか……」
「…………」
レイさんは眉間に皺を寄せ、私を見つめる。
私は何を言ってるんだろう。シーちゃんを庇いたいばっかりに、これじゃ彼女から情報を得たいなら気持ちが無くても優しくするべきでは無いか?と提案していることになる。何だか訳が分からなくなってきた。
何をしたいんだろう、自分は。
私から視線を一度逸らし、ゆっくり首を振ってからレイさんは口を開いた。
「……まあ、一理あるか……」
「ごめんなさい。私、余計なこと言ってるかも」
「いや……私も頑な過ぎた……」
少しの間、沈黙が流れる。カチコチ時計の針が動く音だけが聞こえてきて、この間にも私は何かを間違ってしまったんじゃないかという不安が大きくなっていく。
「ホノカちゃんはさ……」
「はい」
「私がシージーに優しくしてもいいの?」
「え?」
想像もしてないことを聞かれて、間抜けな声が出る。……人に優しくするって、いいことでは?駄目なことって、あるのかな。質問の意図が分からず、困惑が表情に出てしまう。そんな私を見てレイさんは自嘲するように口元を歪め、それから立ち上がった。
「そっか……そうだよね」
「あの……?」
「何でもない」
そのまま私の顔を見ずに扉の方へ向かう。
「シージー迎えに行ってくるよ。ホノカちゃんは家にいて」
「はい……」
扉がゆっくり閉まって、私はその後ろ姿を見送った。
どんなに考えてみても、レイさんが何でそんなことを言ったのか分からない。分からないことだらけで、頭の中は霧掛かって晴れそうにない。
そう、私はもうずっとレイさんが分からない。アズマさんと比較しないでって怒ったり、そんなに親しく感じていないシーちゃんに腕を組むことを許容したり。私には、怒ったのに。
ぐるぐる回る思考でいっぱいになって、しばらく動けなかった。それでも日常は回る。お腹が空いた。私は立ち上がって、夕食を準備するためにキッチンへ向かった。
******
「レイがね、迎えに来てくれて謝ってくれたの。それでね、前に食べ物に何か入れられそうになったから、作ってるところを見てないものは怖いって言ってた!まあそれは分かるよね。だから今度は一緒に作ろうねって!」
「そうなんだ、よかったね」
レイさんがお風呂に入っている間、シーちゃんはノートに今日学んだことを復習しながら私に話しかける。私はキッチンを掃除したりゴミをまとめたり、家事をしながら相槌を打っていた。
嬉しいことを話す時の彼女は、子供っぽく目を輝かせていてとても可愛らしい。レイさん、ちゃんと態度改めたんだ。よかった。ホッと胸を撫で下ろす。余計なことを言ってしまったかもと思ったけれど、杞憂だったようだ。
「あ、じゃあお菓子結局食べてないんだよね?一緒に食べる?」
「ううん。捨てる」
「え?せっかく作ったのに?」
「うん、ホノカが食べても意味無いから」
サラリとそう言われ、ちょっと傷付く。まあ、そうか。好きな人のために作ったのに、それ以外の人間が食べてもね。でも捨てるのは勿体無いな。食べちゃ駄目なのかな。
私はお皿を棚にしまいながら、シーちゃんへ視線を向ける。
「でも捨てるのは勿体無いし、私が食べるよ」
「いや、食べないで。惚れ薬入ってるし」
「え?惚れ薬?」
「そう、先祖代々伝わってる、惚れ薬。好きな人に使いなさいって、ママが」
「……入れたの?!それに?!」
惚れ薬って、何?!そんな得体の知れないものを、お菓子に入れたの?!
私が驚きの声をあげても、シーちゃんは何でも無い顔をしてノートに書き込みながら答える。
「惚れ薬って言っても、大したことないよ。ちょっと心臓がドキドキして、変な気分になって、人肌恋しくなったりする程度だよ」
「いや、でも、どうなの、それ……」
レイさんが危惧していたことが、大当たりだった。食べなくて正解だったのか。私はシーちゃんの熱量を見誤っていたのかもしれない。レイさんとくっつくためなら、本当に手段を選ばないんだ。
「だから捨てて。食べてもどうしようもないでしょ」
「……そ、うだね」
「で、はい、ホノカ」
シーちゃんは立ち上がって、私の目の前に袋を置く。白い粉末が入った透明な袋だ。子供の頃、こんな感じの粉薬を風邪を引いた時に飲ませられた気がする。
「これは……?」
「惚れ薬」
ギョッとして一歩後ずさる。目の前に差し出されたそれを、少し離れた場所からまじまじと見つめる。
これが惚れ薬。風邪の時に飲む薬と大して変わらないように見えた。こんな少ない量の白い粉、小麦粉に混ぜてクッキーにしちゃったら分からないはずだ。
「私は警戒されちゃってるから、レイの飲み物にでも入れておいてよ。お風呂上がりに飲むでしょ?レイ」
「ええ?!」
私は驚いて声を上げる。思ってもみないことを言われ、頭が追い付かない。
「協力してくれるんでしょ?よろしくね」
「えっ待って、そんなの、出来ないよ」
ノートを閉じて部屋に向かおうとするシーちゃんを呼び止める。くるりと振り返った彼女は、眉を吊り上げて私を睨む。
「……何?」
「あの、さすがにそういうことは出来ないよ。いくらなんでも、私の料理を食べてくれるからって、その中に何か入れるなんて……」
「へえ、自分はレイに信頼されてますアピール?特別な人間だって?」
「そういう意味じゃないよ」
「信用されてるからチャンスなんじゃん。疑われてないんでしょ」
さも当然のようにそう言われ、私は困惑する。
「その信用を裏切るようなこと出来ないよ。レイさんと一緒に暮らせなくなっちゃう」
「だって、レイとホノカはもう一緒に暮らさないでしょ?いらないじゃん、信用」
「え?」
シーちゃんは鼻で笑って私を頭のてっぺんから爪先まで眺める。そんなことも分かってないの?と言うように。
「レイは私と一緒に帰るんだから。そうでしょ?既成事実さえ出来ちゃえば、レイだって諦めて一緒来てくれるはず。真面目だから」
「…………」
「ホノカはここで1人でも暮らせるでしょ?何でも出来るもんね」
声が出ない。何かを言おうとして何も出て来なくて、餌を待つ魚のように口をパクパク動かすだけになってしまった。そんな私を哀れっぽく見つめ、彼女はクスクス笑った。綺麗な黒髪が、揺れる。
「まさか、ここで3人で暮らすとでも?それってホノカ邪魔じゃん」
「あ……」
「でも応援してくれるんでしょ?私、魅力的で可愛いもんね」
「…………」
「あっちに一緒に来てもいいけど、多分ここで1人で暮らしてた方が楽だよ。パパもママも、能力の無い人間には厳しいから」
そう言い捨て、シーちゃんは扉へ向かって歩く。出て行く直前で、私にひらひら手を振った。
「じゃあ、よろしくね」
パタン、と扉が閉じた。私は呆然と彼女を見送ることしか出来なかった。手元に置かれた、白い粉を見つめる。
こんなの、どうしろって言うんだろう。私がレイさんに危害を加えるようなこと、出来るわけないのに。アズマさんにレイさんを刺せって言われた時だって、そんなことは絶対に出来なかった。私は私の手で誰かを傷付けてしまうのがすごく怖い。
それに、シーちゃんが晴れてレイさんと付き合ったとして、行き着く先が私がひとりぼっちになることなら、そんなのすごく寂しい。こんな世界で1人で生きていくなんて、とてもじゃないけど耐えられない。
初日にうっすら浮かんだ疑問が、今ここで実際に考えなきゃいけない、現実的な問題として叩きつけられている気がする。
“もし私とレイさん、どちらかに恋人ができたとしても、これまでのように一緒に生活を送っていけるんだろうか?"
シーちゃんが置いて行ったクッキーを手で掴んで、高いところから離してゴミ箱の中へ落とす。パキッと割れる音がして、何だかそれが私とレイさんの生活みたいだなって思った。薄いクッキーみたいに、簡単に割れちゃうような。誰かが力を入れたら、ぱきんって。
袋を手に持って振ってみた。細かい粉で、お湯に入れたらサラサラ溶けそう。
ふと思い浮かぶ。だったら、これをレイさんに使って、私に恋をしてもらえばいいのかな。そしたら私たちは、ずっと一緒にいられるのかな。
人魚姫のお伽話が脳裏に思い浮かんで、ちょっと似てるかもしれない、なんて分不相応なことを考えてしまう。
どこまでも子供っぽい自分に嫌気が差しながら、ケトルに水を汲んでお湯を沸かすスイッチを入れた。




