第9話 善人を救う者はいない
十二月五日、午前八時十分
「井出さん、私、もう帰った方がいいんでしょうか」
白石奈々は窓の外を見つめたまま、力のない声で尋ねた。
井出勇気は返事に詰まった。
十二月四日、午後三時。奈々は車にひかれそうになった子供を救い、メーターが30から0になった。
あれから十七時間以上が経過している。
残された時間は、七時間を切っていた。
会社の休憩スペースには、昨日から調べ続けた情報が散らばっている。机の上には飲みかけのコーヒーが置かれ、窓から差し込む冬の朝日が、床に長い影を落としていた。
勇気はほとんど眠っていなかった。
「帰るって、家に?」
「はい。ここにいても、皆さんに迷惑をかけるだけですから」
「迷惑なんかじゃないよ」
「でも、昨日からずっと付き合わせてしまって……」
奈々は申し訳なさそうに笑った。
勇気はその笑顔を見るのがつらかった。
彼女は昨日、子供の命を救った。
本来なら、感謝されて終わるはずの出来事だった。それなのに今は、自分が死ぬかもしれない状況で、周囲に迷惑をかけていることを気にしている。
「白石さん、まだ時間はあるよ」
勇気が言うと、奈々は小さく頷いた。
しかし、その目にはもう、昨日のような期待は残っていなかった。
*
午前八時三十分。
「井出、ちょっと来てくれ」
小用卓に呼ばれ、勇気は休憩スペースの外へ出た。
廊下には朝の冷たい空気が残っていた。事務所では出勤してきた社員たちが仕事を始めていたが、奈々のいる休憩スペースへ近づこうとする者は少なかった。
卓は壁にもたれ、疲れた表情で腕を組んでいた。
「昨日からいろいろ調べたけど、駄目だった」
「……うん」
「ネットに書いてある方法も、ほとんど信用できねえ。実際に増えたってやつもいるけど、同じことをして増えなかったって報告もある」
勇気は頷いた。
二人は昨夜から、メーターを回復させる方法を探していた。
しかし、確実な情報は見つからなかった。
「阿部さんにも相談してみようと思う」
勇気が言うと、卓は顔を上げた。
「阿部智昭さんか?」
「うん。何か知ってるかもしれないし」
「……そうだな」
卓はそう答えたものの、表情は晴れなかった。
「なあ、井出。お前、本当に最後まで付き合うつもりか?」
勇気は卓を見た。
「どういう意味?」
「白石さんを助けたいのは分かる。でも、俺たちが何かしても、その行動が善行と判定されたらメーターが減るんだぞ」
「分かってるよ」
「本当に分かってんのか?」
卓の声が少し大きくなった。
「九条会長の映像、見ただろ。あんな死に方するんだぞ。俺だって白石さんを助けたい。でも、自分までああなるのは……」
卓はそこで口を閉じた。
勇気は何も言わなかった。
卓の気持ちは理解できた。
昨日まで、卓は積極的に奈々のために情報を集めてくれていた。理不尽な仕組みに怒り、周囲の社員たちにも協力を呼びかけていた。
その卓でさえ、恐怖に耐えられなくなっている。
「……悪い、井出」
卓が俯いた。
「俺、これ以上は無理だ」
勇気は一瞬、言葉を失った。
「卓……」
「白石さんには申し訳ないと思ってる。でも、俺だって死にたくない」
卓は自分の視界に浮かぶ数字を確認した。
「今はまだ大丈夫でも、善行を続ければ減っていく。どこまで減るかも分からねえんだ」
勇気は唇を噛んだ。
責めたい気持ちはなかった。
しかし、昨日まで一緒に考えていた仲間が離れていくことに、どうしようもない寂しさを覚えた。
「……分かった」
勇気が答えると、卓は驚いたように顔を上げた。
「いいのか?」
「無理に付き合わせることはできないよ」
「井出……」
「昨日まで手伝ってくれてありがとう」
卓はしばらく勇気を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……悪いな」
そのまま背を向け、事務所へ戻っていく。
勇気は一人、廊下に立ち尽くした。
卓は優しい人間だった。
困っている人を見過ごせず、理不尽なことがあれば真っ先に怒る。
そんな卓が、奈々を助けることを諦めた。
勇気は初めて、このシステムが奪っているものの大きさを実感した。
命だけではない。
人を助けようとする気持ちまで、少しずつ奪っているのだ。
*
午前九時十五分。
「白石さんのことは聞いています」
阿部智昭は、勇気の話を最後まで聞くと、険しい表情で答えた。
「子供を助けて、三十ポイントも減ったんですよね」
「はい。昨日の午後三時です」
勇気はこれまでの経緯を説明した。
奈々がメーター0になったこと。
二十四時間の猶予が与えられたこと。
回復する方法を探しているものの、確実な情報が見つからないこと。
阿部は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「悪行で回復すること自体は、間違いなさそうです。ただ、何をすればどれだけ増えるのかが分からない」
「そうなんです」
「それに、白石さんが人を傷つけることを受け入れられるかどうかも問題ですね」
勇気は頷いた。
昨日、卓から同じことを聞かれた奈々は、泣きながら答えていた。
死ぬのも怖い。
でも、誰かを傷つけるのも怖い。
その言葉が、今も勇気の頭から離れなかった。
「阿部さん、何か方法はありませんか」
勇気が尋ねると、阿部はすぐには答えなかった。
「……今のところ、確実な方法は知りません」
その返事に、勇気の肩が落ちた。
「ただ、情報を確認することはできます。残り時間が少ない以上、根拠のない噂に頼るのは危険です」
「お願いします」
勇気は深く頭を下げた。
阿部は慌てて首を振った。
「頭を上げてください。まだ何もできていませんから」
勇気は顔を上げた。
阿部が協力してくれる。
それだけで、少しだけ希望が戻ってきた。
しかし、時計を見ると午前九時半を過ぎていた。
残り五時間半。
時間は、待ってくれなかった。
*
午前十一時。
奈々は休憩スペースの椅子に座り、スマートフォンを握り締めていた。
勇気が戻ると、彼女は顔を上げた。
「井出さん、何か分かりましたか?」
「阿部さんも調べてくれてる。でも、まだ確実な方法は……」
「そうですか」
奈々は静かに頷いた。
勇気は彼女の向かいへ座った。
「白石さん、少し聞いてもいい?」
「はい」
「もし、悪いことをすれば助かるって分かったら……」
奈々の表情が曇った。
勇気は言葉を選びながら続けた。
「何かを試してみようとは思わない?」
奈々はしばらく黙っていた。
やがて、膝の上で両手を握り締めた。
「昨日から、ずっと考えてました」
「うん」
「誰かにひどいことを言ったら増えるのかなとか、物を壊したらどうなんだろうとか……」
奈々の声が震えた。
「そんなこと、今まで考えたこともなかったのに」
勇気は黙って聞いていた。
「でも、もし誰かを傷つけて数字が増えたら、私はきっと安心するんです。自分が助かったって、喜んじゃうと思うんです」
奈々は顔を上げた。
「それが怖いんです」
勇気は何も言えなかった。
彼女は自分が死ぬことだけを恐れているわけではない。
生き延びるために、今まで大切にしてきたものを捨ててしまうことも恐れているのだ。
「白石さん……」
「私、昨日あの子を助けたとき、本当に嬉しかったんです」
奈々は涙を拭った。
「車が止まって、あの子が泣き始めたとき、助かってよかったって思いました。でも、その後で自分の数字を見て……」
言葉が途切れた。
勇気は彼女が続きを話すのを待った。
「私、あの子を助けなければよかったって、一瞬思っちゃったんです」
奈々は俯いた。
「そんな自分が、嫌で……」
勇気はゆっくり首を振った。
「怖かったんだから、そう思っても仕方ないよ」
「でも……」
「白石さんがあの子を助けたことは、なくならないから」
奈々は顔を上げた。
「数字がどうなっても、あの子が助かったのは白石さんのおかげだよ」
奈々の目から、再び涙がこぼれた。
勇気はそれ以上、何も言わなかった。
励ます言葉を重ねても、彼女の数字が回復するわけではない。
それが、何より悔しかった。
*
午後一時二十分。
残された時間は、一時間四十分。
勇気はスマートフォンを見つめていた。
阿部から届いた連絡には、確実な回復方法を確認できていないことが書かれていた。
何度読み返しても、内容は変わらなかった。
窓の外では、昼休みを終えた人々が会社へ戻っていく。道路には車が流れ、街は普段と変わらない午後を迎えていた。
その光景が、勇気には信じられなかった。
あと一時間半ほどで、奈々の命が奪われるかもしれない。
それなのに、世界は何事もないように動いている。
「井出さん」
奈々が声をかけた。
「もう、無理しなくていいですよ」
勇気は顔を上げた。
「何言ってるの?」
「昨日からずっと、私のために頑張ってくれたじゃないですか」
奈々は静かに笑った。
「本当に、ありがとうございます」
「白石さん、まだ終わってないよ」
「……はい」
そう答えたものの、奈々の声には力がなかった。
勇気は立ち上がった。
「もう一度、調べてくる」
「井出さん」
「何?」
奈々は少し迷ってから口を開いた。
「もし、私が助からなくても……」
「そんなこと言わないで」
思わず、強い声が出た。
奈々は驚いたように目を見開いた。
勇気はすぐに表情を緩めた。
「……ごめん。でも、まだ諦めたくないんだ」
奈々はしばらく勇気を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
*
午後二時四十五分。
勇気は休憩スペースへ戻った。
結局、新しい情報は何も見つからなかった。
奈々は窓際の椅子に座り、静かに外を眺めていた。
「白石さん……」
声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。
「井出さん」
その顔には、涙の跡が残っていた。
勇気は彼女の隣へ座った。
何を言えばいいのか分からなかった。
助かると約束することもできない。
大丈夫だと安心させる根拠もない。
ただ、ここにいることしかできなかった。
「……怖いです」
奈々が呟いた。
勇気は頷いた。
「うん」
「本当に、怖いです」
奈々は両手を握り締めた。
「でも、一人じゃなくてよかった」
勇気は彼女を見た。
奈々は涙を浮かべながら、かすかに笑っていた。
「井出さんがいてくれて、よかったです」
勇気は何も答えられなかった。
窓の外では、冬の薄い日差しがビルの間に差し込んでいた。
午後二時五十分。
残り十分。
奈々は自分のメーターを確認した。
《0》
数字は変わらなかった。
勇気は彼女の隣に座ったまま、時計を見つめた。
秒針が進んでいく。
一秒。
また一秒。
残された時間が、確実に減っていく。
「井出さん……」
奈々が震える声で呼びかけた。
「私、まだ死にたくない……」
勇気は彼女の手を握った。
「……うん」
それ以上の言葉が出てこなかった。
十二月五日、午後二時五十九分。
白石奈々に残された時間は、あと一分。
そして勇気は、まだ知らなかった。
九条重光を処刑したあの黒い執行者が、今度は自分の目の前に現れようとしていることを。




