第8話 助けたいのに、助けられない
十二月四日、午後三時十五分。
「白石さん、歩けそう?」
井出勇気が尋ねると、白石奈々は小さく頷いた。
事故現場には、まだ多くの人が集まっていた。道路脇に停まった車の周囲では事情を説明する声が飛び交い、救助された子供は大人たちに付き添われている。
子供に大きな怪我はないようだった。
その姿を確認した奈々は、ようやく安心したように息を吐いた。しかし、顔色は悪く、立ち上がろうとした足元もふらついていた。
「無理しなくていいよ。もう少し休もうか」
「……大丈夫です。会社に戻りたいです」
勇気は彼女の様子を確かめながら、ゆっくり立ち上がるのを手伝った。
奈々のメーターは0。
子供を救ったことで、一度に三十ポイントを失った。
そして、二十四時間以内に回復できなければ、DoAによる処刑が待っている。
勇気は奈々を支えながら、会社へ向かった。
二人が歩き始めると、背後から声が聞こえた。
「さっきのお姉さん、本当にすごかったな」
「あと少し遅かったら、あの子は危なかったぞ」
誰かが奈々の行動を褒めていた。
勇気は隣を歩く彼女を見た。
奈々は俯いたまま、何も言わなかった。
今までなら、感謝されることを喜べたはずだ。
しかし、今の奈々にとって、その言葉は自分が失った三十ポイントを思い出させるものになっていた。
「井出さん……」
「どうしたの?」
「私、あの子を助けなければよかったんでしょうか」
勇気は足を止めた。
奈々は慌てて首を振った。
「違うんです。助かってよかったって、本当に思ってるんです。でも……」
言葉が続かなかった。
勇気は彼女が落ち着くのを待った。
「私、死ぬのが怖いんです」
その声は、かすかに震えていた。
「子供を助けたことを後悔したくないのに、助けなかったら今も三十ポイントあったんだって、考えちゃうんです」
勇気は何も言えなかった。
自分が同じ立場だったら、どう考えるだろう。
目の前の子供を助けて、命を失う危険にさらされる。
それでも、迷わず助けてよかったと言えるだろうか。
「……怖いと思うのは当然だよ」
勇気は静かに答えた。
「でも、白石さんがあの子を助けたことまで、間違いだったとは思いたくない」
奈々は涙を拭いながら頷いた。
「ありがとうございます……」
二人は再び歩き始めた。
会社までの短い道のりが、ひどく長く感じられた。
*
午後三時三十分。
事務所に戻ると、小用卓が真っ先に駆け寄ってきた。
「井出! 白石さん! 大丈夫だったのか?」
「怪我は大丈夫そう。でも……」
勇気が言いかけると、奈々が小さく口を開いた。
「私、メーターが0になりました」
卓の表情が変わった。
「……は?」
「子供を助けたら、三十ポイント減って……」
卓は奈々を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「待ってくれよ。子供を助けたんだろ?」
奈々が頷く。
「だったら、何で白石さんが犯罪者になるんだよ」
卓の声が大きくなった。
周囲の社員たちも、何事かと顔を上げた。
「卓、落ち着いて」
「落ち着けるかよ! 人を助けただけで死ぬかもしれないんだぞ!」
勇気は卓の肩に手を置いた。
「分かってる。だから、今はどうすれば助けられるか考えたいんだ」
卓は唇を噛み、奈々へ視線を戻した。
「……悪い。怒鳴るつもりじゃなかった」
「いえ……」
奈々は弱々しく首を振った。
勇気は彼女を椅子へ座らせ、卓と向かい合った。
「残された時間は、明日の午後三時までだ」
「二十四時間か……」
卓は自分のスマートフォンを取り出した。
「何か方法はないのか? メーターを増やす方法なら、ネットにいろいろ出てるだろ」
「情報はある。でも、どれが本当なのか分からない」
「じゃあ、調べようぜ」
卓は即座に答えた。
「三人で考えるより、ほかのやつにも聞いた方がいいだろ。何か知ってるかもしれないし」
勇気は頷いた。
しかし、周囲の社員たちへ事情を説明すると、反応は予想以上に厳しかった。
「気持ちは分かるけど、俺たちに何ができるんだ?」
「メーター0なんだろ? 九条会長だって助からなかったじゃないか」
「下手に関わって、自分まで減点されたら困るよ」
誰も奈々を責めてはいなかった。
それでも、積極的に協力しようとする人間は少なかった。
勇気は、少し前まで同じ職場で働いていた仲間たちの顔を見渡した。
奈々が困っていれば、以前なら誰かが手を貸していたはずだ。
しかし今は、助けること自体が危険になっている。
「……分かりました」
奈々が静かに言った。
「皆さんに迷惑はかけられませんから」
その言葉に、卓が顔を上げた。
「白石さん、何言ってんだよ」
「でも……」
「困ってる人間を助けるのが、そんなに悪いことなのか?」
卓は周囲を見回した。
「俺たち、同じ会社の仲間だろ?」
誰も答えなかった。
勇気は卓の横顔を見た。
彼は本気で怒っていた。
誰かが困っているのに、何もできないことが悔しいのだろう。
その気持ちは勇気にも分かった。
ただ、ほかの社員たちの恐怖も理解できてしまう。
九条重光の処刑を見た後では、簡単に協力を求めることもできなかった。
「卓、ありがとう。でも、無理に頼むのはやめよう」
勇気が言うと、卓は不満そうに顔をしかめた。
「井出、お前までそんなこと言うのか?」
「違うよ。みんな怖いんだ。僕だって怖い」
卓は何か言い返そうとしたが、勇気の表情を見て口を閉じた。
「……分かったよ」
卓は椅子を引き寄せた。
「だったら、俺たちで考えようぜ」
*
午後四時十分。
三人は休憩スペースで、メーターを回復する方法について調べていた。
スマートフォンには、善悪逆転システムに関する投稿が次々と表示されている。
《悪口を言ったら加点された》
《人を殴ったら数字が増えた》
《他人に嫌がらせしたら回復した》
卓は画面を見つめながら、眉をひそめた。
「……ろくな方法がねえな」
「うん」
勇気も頷いた。
悪行によってメーターが増えることは、すでに多くの人が報告している。
しかし、どんな行為で何ポイント増えるのかは一定ではなく、同じような行動でも結果が違うという投稿があった。
「軽い悪口で三十ポイント増えたりしないのかな……」
奈々が小さく呟いた。
卓は首を振った。
「そんな都合よくいかないだろ。そもそも、本当のこと書いてるかも分からねえし」
奈々はスマートフォンを握り締めた。
「じゃあ、私……どうすればいいんでしょう」
勇気は返事に詰まった。
残り三十ポイントなら、まだ何とかなると思えたかもしれない。
しかし、奈々はすでに0になっている。
一度でも悪行と判定されれば回復できる可能性はある。だが、何をすればいいのか、どれだけ加点されるのか、確実な方法が分からない。
「白石さん」
勇気は彼女を見た。
「今すぐ答えを出さなくてもいい。まだ時間はあるから」
奈々は頷いたものの、その表情は暗かった。
卓が腕を組んだ。
「なあ、井出」
「何?」
「俺、ずっと考えてたんだけどさ」
卓は少し言いにくそうに続けた。
「九条会長のときもそうだったけど、何で助けた人間がこんな目に遭うんだろうな」
勇気は黙って聞いていた。
「白石さんが子供を助けなかったら、あの子は車にひかれてたかもしれないんだろ? だったら、白石さんは間違ってないじゃん」
「……うん」
「なのに、助けた方が死ぬかもしれないって、おかしいだろ」
卓は机を見つめた。
「俺、こういうの納得できねえよ」
勇気も同じ気持ちだった。
しかし、納得できないからといって、システムが判定を取り消してくれるわけではない。
奈々の視界にある数字は、今も0のままだ。
*
午後五時。
奈々は窓際の椅子に座り、夕暮れの街を見つめていた。
冬の日は短い。ビルの間には長い影が伸び、道路を走る車のライトが目立ち始めている。
「井出さん」
「どうしたの?」
「私、明日の今頃には……どうなってるんでしょうね」
勇気は彼女の隣に立った。
「まだ決まったわけじゃないよ」
「でも、九条会長は……」
奈々はそこで言葉を止めた。
勇気は何も言えなかった。
九条は百人もの警備員に守られながら処刑された。
それに対して、自分たちは普通の会社員だ。
警備員を集めることも、特別な設備を用意することもできない。
たとえできたとしても、九条の例を見る限り、処刑を防げる保証はない。
「……私、死にたくないです」
奈々が呟いた。
勇気は彼女を見た。
「まだやりたいこと、いっぱいあるんです。仕事だって、こんな中途半端なまま終わりたくないし……」
奈々は涙を拭った。
「来年のことも考えてたんですよ。旅行に行こうとか、少し貯金しようとか、本当に普通のことばっかりですけど」
勇気は静かに頷いた。
「うん」
「それが、明日で全部終わるかもしれないなんて……」
奈々の声が震えた。
勇気は彼女の肩に手を置いた。
「白石さん、僕も一緒に考えるから」
「……井出さん」
「簡単に諦めないでほしい」
奈々は何度も頷いた。
しかし、勇気自身にも分かっていた。
励ます言葉だけでは、メーターは回復しない。
時間だけが確実に過ぎていく。
*
午後六時。
卓が二人のもとへ戻ってきた。
「井出、ちょっといいか」
「何か見つかった?」
卓は首を横に振った。
「いや、確実な方法はまだ分からない。でも、調べてて思ったことがある」
「何?」
卓は奈々を見た。
「白石さん、無理に答えなくていいんだけどさ」
「はい……」
「もし、誰かを傷つければ確実に助かるって分かったら……どうする?」
奈々は息を呑んだ。
勇気も卓を見た。
「卓、それは……」
「分かってる。俺だって、そんなこと勧めたいわけじゃない」
卓は苦しそうに顔を歪めた。
「でも、明日の午後三時になったら、白石さんは死ぬかもしれないんだぞ」
誰も答えなかった。
卓は続けた。
「だったら、考えなきゃいけないだろ。きれいごとだけじゃ助からないかもしれないんだから」
奈々は俯いた。
勇気は彼女の表情を見つめた。
卓の言葉は残酷だった。
しかし、間違っているとも言い切れなかった。
誰かを傷つけてでも生き延びるのか。
それとも、自分の信じてきたものを守り続けるのか。
奈々は、まだ何も答えられなかった。
しばらくして、彼女が小さく口を開いた。
「……私、怖いです」
卓は黙っていた。
「死ぬのも怖いです。でも、誰かを傷つけるのも怖いんです」
奈々の目から涙がこぼれた。
「どうして、そんなことを選ばなきゃいけないんですか……?」
勇気は拳を握り締めた。
答えられる人間など、どこにもいなかった。
窓の外では、街の明かりが次々と灯り始めていた。
昨日までなら、仕事を終えて帰宅するだけの時間だった。
しかし、今の奈々には違う。
十二月四日、午後六時。
犯罪者認定から三時間が経過した。
残された時間は、あと二十一時間。
勇気は奈々の横顔を見つめた。
誰かを助けたことで死ななければならない世界。
その理不尽さを知りながら、今の自分には何もできない。
そして、勇気は初めて考えた。
もし、奈々を助けるために自分が悪人にならなければならないとしたら。
そのとき、自分は何を選ぶのだろうか。




