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善人が裁かれる日 ~人を救えば死刑、悪人ほど生き残る世界~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第7話 少女を救った代償

十二月四日、午後二時二十分


「井出さん、これで最後です」


白石奈々は机に積まれていた書類を一つにまとめると、ようやく肩の力を抜いた。


井出勇気が顔を上げると、彼女は疲れた様子ながらも、どこか満足そうに笑っていた。


「やっと終わったんだ。お疲れさま」


「ありがとうございます。昨日まで、どうなることかと思ってました」


窓の外には、冬の澄んだ青空が広がっていた。午後の日差しが向かいのビルに反射し、事務所の床に細長い光を落としている。


善悪逆転システムが現れてから四日目。


会社では少しずつ仕事が再開されていたが、以前と同じ日常が戻ってきたわけではなかった。


社員たちは必要以上に他人の仕事へ関わろうとせず、困っている人がいても、まず自分のメーターを気にするようになっていた。


奈々も例外ではない。


初日に勇気へ仕事を手伝ってもらって以来、できる限り自分一人で作業を進めていた。


「少し休んだら? ずっと座りっぱなしだったでしょ」


勇気が声をかけると、奈々は小さく頷いた。


「そうします。飲み物でも買ってこようかな」


「いいね。気分転換にもなるし」


「井出さんは何かいります?」


「大丈夫。ありがとう」


奈々は上着を手に取ったところで、ふと動きを止めた。


「……あの、井出さん」


「どうしたの?」


「私、最近ずっと考えてることがあるんです」


奈々は少し迷ってから、自分の視界へ目を向けた。


「人に親切にしたら数字が減るって分かってから、何をするにも怖くなっちゃって」


勇気は黙って話を聞いた。


「前なら、困っている人を見かけたら普通に声をかけてたんです。でも今は、助けようと思う前に数字のことを考えちゃうんですよね」


「……僕もだよ」


「井出さんも?」


「うん。駅で荷物を持って困ってる人を見かけたんだけど、結局何もできなかった」


奈々は少し驚いたようだったが、すぐに寂しそうな表情になった。


「そうなんですね……」


「だから、白石さんだけじゃないよ」


勇気がそう言うと、奈々は小さく笑った。


「ありがとうございます。でも、何だか嫌ですね。人を助けたいって思うことまで、怖くなるなんて」


その言葉に、勇気は返事ができなかった。


奈々は気を取り直したように上着を羽織った。


「じゃあ、ちょっと行ってきます」


「気をつけてね」


奈々は軽く手を振り、事務所を出ていった。


勇気は彼女の背中を見送ると、再びパソコンへ向き直った。


そのとき、近くの席から小用卓が声をかけてきた。


「井出、白石さんは?」


「飲み物を買いに行ったよ」


「そっか。最近、ずっと忙しそうだったもんな」


卓は奈々の机を見てから、自分の椅子へ腰を下ろした。


「なあ、井出。お前、最近ちゃんと寝てるか?」


「何だよ、急に」


「いや、顔色悪いからさ。ニュースばっかり見てんじゃねえの?」


勇気は苦笑した。


「卓だって見てるだろ?」


「そりゃ見るけどさ。あんまり考えすぎても仕方ないだろ」


卓はそう言って笑った。


勇気にとって、卓は会社で唯一の同期だった。


年齢は二十二歳。思ったことをすぐ口にするところはあるが、困っている人間を放っておけない性格で、勇気も何度となく助けられてきた。


善悪逆転システムが現れてからも、卓のそうした部分は変わっていないように見えた。


「まあ、何かあったら言えよ」


「ありがとう」


勇気が答えると、卓は片手を上げて仕事へ戻った。


勇気も画面に視線を戻したが、奈々が最後に言った言葉が頭から離れなかった。


人を助けたいと思うことまで、怖くなる。


自分たちは、いつまでそんな生活を続けるのだろう。


*


午後二時五十八分。


奈々は会社近くの店で飲み物を買い、歩道を歩いていた。


冬の風は冷たかったが、日差しは暖かい。店先にはクリスマスの飾りが並び、街路樹には小さな電飾が巻きつけられている。


普段なら、年末が近づいてきたことを感じる景色だった。


しかし、通りを歩く人々の表情は明るくなかった。


すれ違う人たちはスマートフォンを確認し、ときおり視線を宙へ向けている。


奈々も無意識に、自分のメーターを見た。


《30》


数字は変わっていない。


奈々は小さく息を吐いた。


善悪逆転システムが始まってから、自分の数字が減るたびに不安が大きくなっていた。


残り三十ポイント。


まだゼロではない。


それでも、安心できる数字ではなかった。


九条重光の処刑を知っているからだ。


病院を支援したことで犯罪者となり、百人もの警備員に守られながら命を落とした男。


あの映像を思い出すだけで、背筋が冷たくなる。


奈々は視線を落とし、歩く速度を少し速めた。


会社へ戻れば、残っている仕事を片づけて帰るだけだ。


今日はもう、余計なことを考えたくなかった。


そのときだった。


「危ない!」


突然、誰かの叫び声が響いた。


奈々が顔を上げると、交差点の近くで小さな子供が車道へ飛び出していた。


車が近づいている。


運転手が気づいたのか、激しいブレーキ音が響いた。


しかし、間に合わない。


子供は道路の途中で立ち止まり、迫ってくる車を見つめていた。


奈々の頭から、メーターのことが消えた。


「危ない!」


叫ぶと同時に、身体が動いていた。


奈々は歩道から飛び出し、子供の腕をつかんだ。


小さな身体を引き寄せ、車の進路から離れるように抱きかかえる。


次の瞬間、耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。


奈々は子供を抱いたまま地面に倒れ込んだ。


すぐ近くで車が停止する。


周囲から悲鳴が上がった。


「大丈夫か!」


「救急車を呼んで!」


奈々は荒い息を繰り返しながら、腕の中の子供を見た。


「大丈夫? 痛いところはない?」


子供は驚いたように目を見開いていたが、やがて大きな声で泣き始めた。


その泣き声を聞いて、奈々はようやく息を吐いた。


「……よかった」


子供は生きている。


その事実だけで、胸がいっぱいになった。


周囲の人々が駆け寄り、子供の様子を確認している。


奈々も立ち上がろうとした。


しかし、その瞬間。


視界の右上で、数字が変化した。


《30》


見慣れた数字が、一瞬だけ強く光った。


続いて、新しい表示が現れる。


《善行判定 -30》


奈々は息を止めた。


「……え?」


数字がゆっくりと変わっていく。


《0》


奈々の身体から、力が抜けた。


その下に、さらに文字が浮かび上がった。


《犯罪者認定》


「……嘘」


声が震えた。


「そんな……」


子供を助けた。


ただ、それだけだった。


目の前で車にひかれそうになっている子供を見つけ、身体が勝手に動いた。


助けるかどうか迷う時間すらなかった。


それなのに。


《0》


奈々は何度も目をこすった。


数字は消えなかった。


周囲では、子供が無事だったことに安堵する声が聞こえている。


「本当によかった」


「危ないところだったな」


「お姉さんが助けてくれたんだよ」


感謝の言葉が聞こえてくる。


しかし、奈々にはもう、その言葉を受け止める余裕がなかった。


子供を救ったことが、犯罪として判定された。


そして、自分は今、メーター0になっている。


奈々は震える手でスマートフォンを取り出した。


画面に表示された時刻は、午後三時。


十二月四日、午後三時。


自分に残された時間が、何を意味するのか。


奈々は知っていた。


*


同じ頃、勇気は事務所で仕事を続けていた。


窓の外から、突然大きなブレーキ音が聞こえた。


続いて、人々の叫び声。


「何だ?」


勇気が顔を上げると、近くにいた社員たちも窓へ集まり始めた。


「事故みたいだぞ」


「誰か倒れてる!」


勇気は立ち上がり、窓の外を見下ろした。


道路の近くに人だかりができている。


その中心に、地面へ座り込んでいる女性が見えた。


見覚えのある上着だった。


「……白石さん?」


勇気は急いで事務所を飛び出した。


階段を下り、建物の外へ出ると、冷たい空気と人々のざわめきが一度に押し寄せてきた。


「白石さん!」


人混みをかき分けて進むと、奈々が歩道の端に座り込んでいた。


「井出さん……」


奈々が顔を上げた。


その顔は青ざめていた。


「大丈夫? 怪我は?」


勇気が尋ねると、奈々は小さく首を横に振った。


「私は……大丈夫です」


「何があったの?」


「子供が、車にひかれそうになって……」


奈々は震える声で説明した。


道路へ飛び出した子供を助けたこと。


車がすぐ近くまで迫っていたこと。


子供は無事だったこと。


勇気はほっと息を吐いた。


「よかった。白石さんも無事で……」


しかし、奈々は笑わなかった。


むしろ、その言葉を聞いた瞬間、目に涙が浮かんだ。


「井出さん……」


「どうしたの?」


奈々は勇気を見つめた。


何かを言おうとしているのに、なかなか声が出ないようだった。


勇気の胸に、嫌な予感が広がった。


「白石さん、まさか……」


奈々はゆっくりと頷いた。


「私のメーター……」


震える唇から、かすれた声が漏れた。


「ゼロになっちゃいました」


勇気は言葉を失った。


「さっきまで三十あったんです。でも、あの子を助けたら、一度に三十も減って……」


奈々は両手で顔を覆った。


「どうして……? 私、悪いことなんてしてないのに……」


勇気はその場に膝をついた。


奈々の肩へ手を伸ばしかけ、わずかにためらった。


助けることは善行になる。


自分のメーターも減るかもしれない。


そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


勇気は唇を噛んだ。


そして、奈々の肩にそっと手を置いた。


「白石さん」


奈々が顔を上げる。


「とにかく、今は落ち着こう」


「でも、私……」


「まだ時間はある。何か方法があるかもしれない」


勇気はそう言った。


しかし、具体的な方法など何も思いつかなかった。


九条重光は、百人の警備員を集めても助からなかった。


DoAから逃げる方法も、処刑を止める方法も分かっていない。


そして今、奈々も同じ立場になってしまった。


勇気は彼女の手を握った。


「一緒に考えよう。まだ諦めるには早いよ」


奈々は涙を拭いながら、小さく頷いた。


そのとき、彼女の視界に新しい文字が現れた。


《残高回復猶予 24時間》


奈々は息を呑んだ。


勇気にはその表示が見えなかった。


しかし、奈々の表情が変わったことで、何が起きたのかを察した。


「……出たの?」


奈々はゆっくりと頷いた。


「はい」


彼女は震える声で続けた。


「二十四時間って……」


勇気は腕時計を見た。


午後三時を少し過ぎていた。


明日の午後三時。


それまでに奈々のメーターを回復させなければならない。


勇気は彼女の手を握ったまま、何も言えなくなった。


つい先ほどまで、奈々は普通に仕事をしていた。


飲み物を買いに行き、会社へ戻ってくるはずだった。


それが、たった一人の子供を助けたことで、命を懸けた二十四時間に変わってしまった。


奈々は勇気を見つめた。


「井出さん……」


「うん」


「私、死にたくないです」


その言葉を聞いた瞬間、勇気の胸が締めつけられた。


助けた子供は無事だった。


それなのに、助けた奈々は死を恐れて泣いている。


十二月四日、午後三時。


白石奈々のメーターは、30から0になった。


そして、彼女に残された二十四時間が始まった。

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