第7話 少女を救った代償
十二月四日、午後二時二十分
「井出さん、これで最後です」
白石奈々は机に積まれていた書類を一つにまとめると、ようやく肩の力を抜いた。
井出勇気が顔を上げると、彼女は疲れた様子ながらも、どこか満足そうに笑っていた。
「やっと終わったんだ。お疲れさま」
「ありがとうございます。昨日まで、どうなることかと思ってました」
窓の外には、冬の澄んだ青空が広がっていた。午後の日差しが向かいのビルに反射し、事務所の床に細長い光を落としている。
善悪逆転システムが現れてから四日目。
会社では少しずつ仕事が再開されていたが、以前と同じ日常が戻ってきたわけではなかった。
社員たちは必要以上に他人の仕事へ関わろうとせず、困っている人がいても、まず自分のメーターを気にするようになっていた。
奈々も例外ではない。
初日に勇気へ仕事を手伝ってもらって以来、できる限り自分一人で作業を進めていた。
「少し休んだら? ずっと座りっぱなしだったでしょ」
勇気が声をかけると、奈々は小さく頷いた。
「そうします。飲み物でも買ってこようかな」
「いいね。気分転換にもなるし」
「井出さんは何かいります?」
「大丈夫。ありがとう」
奈々は上着を手に取ったところで、ふと動きを止めた。
「……あの、井出さん」
「どうしたの?」
「私、最近ずっと考えてることがあるんです」
奈々は少し迷ってから、自分の視界へ目を向けた。
「人に親切にしたら数字が減るって分かってから、何をするにも怖くなっちゃって」
勇気は黙って話を聞いた。
「前なら、困っている人を見かけたら普通に声をかけてたんです。でも今は、助けようと思う前に数字のことを考えちゃうんですよね」
「……僕もだよ」
「井出さんも?」
「うん。駅で荷物を持って困ってる人を見かけたんだけど、結局何もできなかった」
奈々は少し驚いたようだったが、すぐに寂しそうな表情になった。
「そうなんですね……」
「だから、白石さんだけじゃないよ」
勇気がそう言うと、奈々は小さく笑った。
「ありがとうございます。でも、何だか嫌ですね。人を助けたいって思うことまで、怖くなるなんて」
その言葉に、勇気は返事ができなかった。
奈々は気を取り直したように上着を羽織った。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「気をつけてね」
奈々は軽く手を振り、事務所を出ていった。
勇気は彼女の背中を見送ると、再びパソコンへ向き直った。
そのとき、近くの席から小用卓が声をかけてきた。
「井出、白石さんは?」
「飲み物を買いに行ったよ」
「そっか。最近、ずっと忙しそうだったもんな」
卓は奈々の机を見てから、自分の椅子へ腰を下ろした。
「なあ、井出。お前、最近ちゃんと寝てるか?」
「何だよ、急に」
「いや、顔色悪いからさ。ニュースばっかり見てんじゃねえの?」
勇気は苦笑した。
「卓だって見てるだろ?」
「そりゃ見るけどさ。あんまり考えすぎても仕方ないだろ」
卓はそう言って笑った。
勇気にとって、卓は会社で唯一の同期だった。
年齢は二十二歳。思ったことをすぐ口にするところはあるが、困っている人間を放っておけない性格で、勇気も何度となく助けられてきた。
善悪逆転システムが現れてからも、卓のそうした部分は変わっていないように見えた。
「まあ、何かあったら言えよ」
「ありがとう」
勇気が答えると、卓は片手を上げて仕事へ戻った。
勇気も画面に視線を戻したが、奈々が最後に言った言葉が頭から離れなかった。
人を助けたいと思うことまで、怖くなる。
自分たちは、いつまでそんな生活を続けるのだろう。
*
午後二時五十八分。
奈々は会社近くの店で飲み物を買い、歩道を歩いていた。
冬の風は冷たかったが、日差しは暖かい。店先にはクリスマスの飾りが並び、街路樹には小さな電飾が巻きつけられている。
普段なら、年末が近づいてきたことを感じる景色だった。
しかし、通りを歩く人々の表情は明るくなかった。
すれ違う人たちはスマートフォンを確認し、ときおり視線を宙へ向けている。
奈々も無意識に、自分のメーターを見た。
《30》
数字は変わっていない。
奈々は小さく息を吐いた。
善悪逆転システムが始まってから、自分の数字が減るたびに不安が大きくなっていた。
残り三十ポイント。
まだゼロではない。
それでも、安心できる数字ではなかった。
九条重光の処刑を知っているからだ。
病院を支援したことで犯罪者となり、百人もの警備員に守られながら命を落とした男。
あの映像を思い出すだけで、背筋が冷たくなる。
奈々は視線を落とし、歩く速度を少し速めた。
会社へ戻れば、残っている仕事を片づけて帰るだけだ。
今日はもう、余計なことを考えたくなかった。
そのときだった。
「危ない!」
突然、誰かの叫び声が響いた。
奈々が顔を上げると、交差点の近くで小さな子供が車道へ飛び出していた。
車が近づいている。
運転手が気づいたのか、激しいブレーキ音が響いた。
しかし、間に合わない。
子供は道路の途中で立ち止まり、迫ってくる車を見つめていた。
奈々の頭から、メーターのことが消えた。
「危ない!」
叫ぶと同時に、身体が動いていた。
奈々は歩道から飛び出し、子供の腕をつかんだ。
小さな身体を引き寄せ、車の進路から離れるように抱きかかえる。
次の瞬間、耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。
奈々は子供を抱いたまま地面に倒れ込んだ。
すぐ近くで車が停止する。
周囲から悲鳴が上がった。
「大丈夫か!」
「救急車を呼んで!」
奈々は荒い息を繰り返しながら、腕の中の子供を見た。
「大丈夫? 痛いところはない?」
子供は驚いたように目を見開いていたが、やがて大きな声で泣き始めた。
その泣き声を聞いて、奈々はようやく息を吐いた。
「……よかった」
子供は生きている。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
周囲の人々が駆け寄り、子供の様子を確認している。
奈々も立ち上がろうとした。
しかし、その瞬間。
視界の右上で、数字が変化した。
《30》
見慣れた数字が、一瞬だけ強く光った。
続いて、新しい表示が現れる。
《善行判定 -30》
奈々は息を止めた。
「……え?」
数字がゆっくりと変わっていく。
《0》
奈々の身体から、力が抜けた。
その下に、さらに文字が浮かび上がった。
《犯罪者認定》
「……嘘」
声が震えた。
「そんな……」
子供を助けた。
ただ、それだけだった。
目の前で車にひかれそうになっている子供を見つけ、身体が勝手に動いた。
助けるかどうか迷う時間すらなかった。
それなのに。
《0》
奈々は何度も目をこすった。
数字は消えなかった。
周囲では、子供が無事だったことに安堵する声が聞こえている。
「本当によかった」
「危ないところだったな」
「お姉さんが助けてくれたんだよ」
感謝の言葉が聞こえてくる。
しかし、奈々にはもう、その言葉を受け止める余裕がなかった。
子供を救ったことが、犯罪として判定された。
そして、自分は今、メーター0になっている。
奈々は震える手でスマートフォンを取り出した。
画面に表示された時刻は、午後三時。
十二月四日、午後三時。
自分に残された時間が、何を意味するのか。
奈々は知っていた。
*
同じ頃、勇気は事務所で仕事を続けていた。
窓の外から、突然大きなブレーキ音が聞こえた。
続いて、人々の叫び声。
「何だ?」
勇気が顔を上げると、近くにいた社員たちも窓へ集まり始めた。
「事故みたいだぞ」
「誰か倒れてる!」
勇気は立ち上がり、窓の外を見下ろした。
道路の近くに人だかりができている。
その中心に、地面へ座り込んでいる女性が見えた。
見覚えのある上着だった。
「……白石さん?」
勇気は急いで事務所を飛び出した。
階段を下り、建物の外へ出ると、冷たい空気と人々のざわめきが一度に押し寄せてきた。
「白石さん!」
人混みをかき分けて進むと、奈々が歩道の端に座り込んでいた。
「井出さん……」
奈々が顔を上げた。
その顔は青ざめていた。
「大丈夫? 怪我は?」
勇気が尋ねると、奈々は小さく首を横に振った。
「私は……大丈夫です」
「何があったの?」
「子供が、車にひかれそうになって……」
奈々は震える声で説明した。
道路へ飛び出した子供を助けたこと。
車がすぐ近くまで迫っていたこと。
子供は無事だったこと。
勇気はほっと息を吐いた。
「よかった。白石さんも無事で……」
しかし、奈々は笑わなかった。
むしろ、その言葉を聞いた瞬間、目に涙が浮かんだ。
「井出さん……」
「どうしたの?」
奈々は勇気を見つめた。
何かを言おうとしているのに、なかなか声が出ないようだった。
勇気の胸に、嫌な予感が広がった。
「白石さん、まさか……」
奈々はゆっくりと頷いた。
「私のメーター……」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
「ゼロになっちゃいました」
勇気は言葉を失った。
「さっきまで三十あったんです。でも、あの子を助けたら、一度に三十も減って……」
奈々は両手で顔を覆った。
「どうして……? 私、悪いことなんてしてないのに……」
勇気はその場に膝をついた。
奈々の肩へ手を伸ばしかけ、わずかにためらった。
助けることは善行になる。
自分のメーターも減るかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
勇気は唇を噛んだ。
そして、奈々の肩にそっと手を置いた。
「白石さん」
奈々が顔を上げる。
「とにかく、今は落ち着こう」
「でも、私……」
「まだ時間はある。何か方法があるかもしれない」
勇気はそう言った。
しかし、具体的な方法など何も思いつかなかった。
九条重光は、百人の警備員を集めても助からなかった。
DoAから逃げる方法も、処刑を止める方法も分かっていない。
そして今、奈々も同じ立場になってしまった。
勇気は彼女の手を握った。
「一緒に考えよう。まだ諦めるには早いよ」
奈々は涙を拭いながら、小さく頷いた。
そのとき、彼女の視界に新しい文字が現れた。
《残高回復猶予 24時間》
奈々は息を呑んだ。
勇気にはその表示が見えなかった。
しかし、奈々の表情が変わったことで、何が起きたのかを察した。
「……出たの?」
奈々はゆっくりと頷いた。
「はい」
彼女は震える声で続けた。
「二十四時間って……」
勇気は腕時計を見た。
午後三時を少し過ぎていた。
明日の午後三時。
それまでに奈々のメーターを回復させなければならない。
勇気は彼女の手を握ったまま、何も言えなくなった。
つい先ほどまで、奈々は普通に仕事をしていた。
飲み物を買いに行き、会社へ戻ってくるはずだった。
それが、たった一人の子供を助けたことで、命を懸けた二十四時間に変わってしまった。
奈々は勇気を見つめた。
「井出さん……」
「うん」
「私、死にたくないです」
その言葉を聞いた瞬間、勇気の胸が締めつけられた。
助けた子供は無事だった。
それなのに、助けた奈々は死を恐れて泣いている。
十二月四日、午後三時。
白石奈々のメーターは、30から0になった。
そして、彼女に残された二十四時間が始まった。




