第6話 消えた人々と密談
十二月三日、午前七時三十分。
九条重光の処刑から一夜が明け、世界は新たな恐怖に包まれていた。
井出勇気がテレビをつけると、画面には九条ホールディングス本社ビルの監視映像が映っていた。突然現れた黒い人影が九条へ近づき、警備責任者が動けなくなる。そして九条が倒れた後、人影は壁を通り抜けるように姿を消した。
昨夜から繰り返し放送されている映像だった。
勇気はリモコンを手に取ったが、続いて流れたニュースに目を止めた。
『九条会長の処刑を受け、国内の富裕層や経済界にも動揺が広がっています』
画面には、都内の高級住宅街や企業の本社ビルが映し出された。
『九条氏は百名の警備員を配置していましたが、処刑を防ぐことはできませんでした。専門家からは、従来の警備方法ではDoAへの対抗が難しいとの指摘が出ています』
勇気は椅子へ腰を下ろした。
九条は国内有数の企業グループを率いる会長だった。莫大な資産を持ち、百人もの警備員を集めることができた。
それでも命を守れなかった。
金も権力も、DoAの前では役に立たなかったのだ。
『一方、各国ではメーターの減少を防ぐ方法や、残高を回復させる方法について調査が進められています』
画面には、専門家による解説が続いていた。
勇気は自分の数字を確認した。
《99》
初日に白石奈々の仕事を手伝ってから、一度も変わっていない。
そのことに安心する一方で、これから先も同じように過ごせるのかという不安が残っていた。
昨日までなら、困っている人を見つければ自然に手を貸していた。
しかし今は、誰かを助ける前に数字を確認してしまう。
そんな自分に慣れてしまうことが、何より嫌だった。
*
同じ頃、都内の高級ホテルでは、複数の企業経営者や資産家が非公開の会合を開いていた。
厚いカーテンに囲まれた会議室には、温かいコーヒーと軽食が用意されている。しかし、テーブルを囲む男たちの表情に余裕はなかった。
「九条が死んだ」
一人の男が口を開いた。
「百人も警備員を集めて、最新の設備がある本社ビルに立てこもった。それでも駄目だったんだ」
「映像が本物なら、建物を要塞にしても意味がないな」
別の男が腕を組んだ。
「問題は、我々が同じ立場になったときだ」
その言葉に、室内が静まり返った。
九条の死は、彼らにとって他人事ではなかった。
これまでは金さえあれば、たいていの問題を解決できた。優秀な医師を雇い、警備員を配置し、必要なら国外へ移住することもできる。
しかし、DoAが相手では、そうした方法が通用する保証はない。
「結局、メーターを0にしないことが重要なんだろう」
「だが、何が善行と判定されるのか、完全には分かっていない」
「悪行で増えるという報告はある」
一人がそう言うと、別の男が顔をしかめた。
「だからといって、我々が犯罪を起こすわけにはいかん。会社も立場も失う」
「では、どうする?」
誰もすぐには答えられなかった。
やがて、窓際に座っていた男が静かに口を開いた。
「我々には金がある。まずは情報を集めるべきだ。数字を増やす方法があるなら、それを知っている人間もいるかもしれん」
「金で情報を買うということか?」
「必要なら、いくらでも払う」
男はテーブルの上に置かれた九条の死亡記事を見つめた。
「死んでしまえば、財産など何の意味もないからな」
その言葉に、反論する者はいなかった。
会議室では、メーターの仕組みを調べるための情報収集や、外部の人間との接触について話し合いが始まった。
彼らが求めていたのは、善悪逆転システムの正体ではない。
自分たちだけでも生き残る方法だった。
*
午前九時。
勇気が会社に到着すると、事務所ではすでに九条の処刑について話し合われていた。
「おはようございます、井出さん」
白石奈々が声をかけてきた。
「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」
「少しだけです。ニュースが気になって、何度も起きちゃいました」
奈々は苦笑した。
目の下には薄い隈ができている。
「井出さんは?」
「僕も似たようなものかな」
勇気が答えると、背後から声がした。
「お前ら、朝から暗い顔してんな」
振り返ると、小用卓が立っていた。
二十二歳。勇気にとって、会社で唯一の同期だった。
「卓、おはよう」
「おう。二人とも九条のニュース見すぎなんじゃないか?」
「卓は平気なの?」
勇気が尋ねると、卓は少し考えてから首を振った。
「平気なわけないだろ。あんな映像見せられたら、誰だって怖くなるって」
卓は自分の席へ鞄を置いた。
「でも、怖がってるだけじゃ何も変わらないしな。仕事は仕事でやるしかないだろ」
その言葉に、奈々が小さく笑った。
「小用さんは、あまり変わらないですね」
「そうか? 俺だって結構びびってるぞ」
卓は冗談めかして答えたが、すぐに表情を引き締めた。
「たださ、昨日から変なこと言うやつが増えてるだろ。悪いことをした方が得だとか、人助けなんかするなとか」
「うん」
「俺、ああいうの嫌いなんだよな」
卓は椅子へ座りながら続けた。
「自分が助かりたいからって、ほかの人間に何してもいいわけじゃないだろ」
勇気は頷いた。
卓は昔から、理不尽なことを見過ごせない性格だった。
困っている人間がいれば声をかけ、誰かが不当に責められていれば間に入ろうとする。
だからこそ、勇気も彼を信頼していた。
「……変わらないな、卓は」
「何が?」
「いや、何でもない」
勇気が笑うと、卓は不思議そうな顔をした。
*
その頃、都内の別の場所でも、人知れず動き始めた者たちがいた。
一ノ瀬雅臣と久世隆臣。
二人が関わる犯罪ネットワークは、善悪逆転システムが現れる以前から存在していた。
違法な融資、資金洗浄、生活に困窮した人々からの搾取。
表向きの社会からは見えない場所で、彼らは長年、金と人間を利用してきた。
「九条の処刑で、金持ち連中が慌て始めた」
一ノ瀬は集められた情報を確認しながら言った。
「自分たちも安全じゃないと、ようやく理解したらしい」
久世は黙って話を聞いていた。
「今までなら、金を払えば警備員を増やせた。医者も雇えた。だが、今回はそれでは解決できない」
「それで、こちらに何を求めている?」
久世が尋ねた。
「情報だ。数字を増やす方法や、危険を避ける方法を知りたがっている」
一ノ瀬は資料を置いた。
「まだ分からないことは多い。だが、困っている人間が増えれば、そこに商売が生まれる」
久世はしばらく考えてから口を開いた。
「生活に困っている連中の動きも調べておくか」
「そうだな。今までのつながりを使えば、情報は集められる」
二人は、以前から把握していた人々の情報を確認し始めた。
多重債務者。
住む場所を失った人々。
金銭的に追い詰められ、選択肢を失っている人々。
彼らにとって、そうした人間は以前から利益を生む対象だった。
「表向きは支援を必要としている人間も多い」
一ノ瀬が言った。
「この混乱なら、助けを求める人間はさらに増えるだろう」
久世は資料を見つめた。
「だが、何に利用できるかも分からないうちに、大きく動くのは危険だ」
「分かっている。まずは人を集め、状況を見極める」
一ノ瀬は落ち着いた声で答えた。
彼らはまだ、善悪逆転システムの仕組みを理解していなかった。
それでも、一つだけ確信していた。
社会が混乱すれば、弱い立場の人間から追い詰められていく。
そして、追い詰められた人間ほど、目の前に差し出された救いを断りにくい。
*
昼休み。
勇気は奈々とともに、休憩スペースのテレビを見ていた。
画面には、路上生活者への取材映像が映っている。
『善悪逆転システムの出現以降、生活に困窮する人々への支援を名乗る団体が増えていることが分かりました』
記者の説明に、奈々が顔を上げた。
「支援団体が増えてるんですね」
「困ってる人も多いだろうからね」
勇気が答えると、画面が切り替わった。
『一方、支援を受けるために集まった人々と連絡が取れなくなったという相談も、一部で寄せられています』
「……え?」
奈々が小さく声を漏らした。
テレビには、路上生活者への聞き取りを行う記者の姿が映っていた。
『数日前までこの場所で生活していた人が、突然姿を見せなくなったという証言もあります。ただし、現時点では事件との関連は確認されていません』
勇気は画面を見つめた。
「支援を受けて、別の場所へ移っただけかもしれないよね」
「そうだといいんですけど……」
奈々は不安そうに呟いた。
ニュースはすぐに別の話題へ移った。
しかし、勇気の頭には、先ほどの映像が残っていた。
住む場所のない人々。
支援を名乗る団体。
そして、突然連絡が取れなくなった人間たち。
今の段階では、何かが起きていると断定できるわけではない。
それでも、九条の処刑を境に、社会の見えない場所で何かが動き始めているように感じられた。
「井出さん」
奈々が静かに尋ねた。
「善いことをする人が減っていったら、困っている人たちはどうなるんでしょう」
勇気はすぐに答えられなかった。
今朝のニュースでは、医療機関や福祉施設でも職員の不安が広がっていると報じられていた。
誰かを助けることが危険になれば、助けを必要としている人々はどうなるのか。
その答えを考えると、胸の奥が重くなった。
「……分からない。でも、本当に困っている人を利用するようなことだけは、あってほしくないね」
奈々は小さく頷いた。
*
午後。
勇気が仕事を終えて席を立つと、卓が声をかけてきた。
「井出、ちょっといいか」
「どうした?」
「さっきのニュース、見たか?」
「支援団体の話?」
「そう。それなんだけど、何か引っかからないか?」
勇気は卓を見た。
「まだ事件かどうかも分からないんだろ?」
「それはそうだけどさ。困ってる人間を集めて、その後どうなったか分からないって、気持ち悪いだろ」
卓の声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。
「本当に助けてるならいいんだ。でも、もし違ったら……」
「卓」
勇気は静かに言った。
「まだ何も分かってないんだから、決めつけるのはよくないよ」
卓は一瞬黙った後、頷いた。
「……そうだな。悪い」
それでも、納得していない様子だった。
勇気はそんな卓を見ながら、少しだけ安心した。
少なくとも卓は、困っている人間がどうなるのかを気にかけている。
善悪逆転システムが現れてから、人々は自分の数字を守ることばかり考えるようになった。
そんな中でも、他人のことを心配できる人間がいる。
それは、勇気にとって小さな救いだった。
*
同じ日の夜。
都内の路上生活者が集まる場所では、いつもより人の数が少なくなっていた。
寒さを避けるために並べられた段ボールや毛布が、いくつか残されている。
その近くで、一人の男性が周囲を見渡していた。
「……あいつ、今日もいないのか」
昨日まで隣で寝ていた男の姿がない。
別の場所へ移ったのかもしれない。
誰かに保護されたのかもしれない。
男性には分からなかった。
ただ、数日前まで顔を合わせていた人間が、最近になって何人も姿を見せなくなっている。
「どこ行ったんだよ……」
男性は小さく呟いた。
冷たい風が吹き抜け、誰も使っていない段ボールが音を立てた。
その頃、一ノ瀬と久世のもとには、新しい報告が届いていた。
一ノ瀬は内容を確認すると、静かに資料を閉じた。
「人は集まり始めているようだな」
久世が顔を上げる。
「予定どおりか?」
「ああ。ただし、まだ始まったばかりだ」
一ノ瀬は窓の外へ目を向けた。
街には無数の明かりが灯り、人々はいつもと変わらない夜を過ごしているように見えた。
しかし、その裏側では、すでに新しい動きが始まっていた。
九条重光の処刑によって、富裕層は自分の命を守る方法を探し始めた。
裏社会の人間たちは、その混乱を利用しようとしている。
そして、社会の片隅では、誰にも気づかれないまま姿を消していく人々がいた。
彼らがどこへ連れていかれ、何のために集められているのか。
その答えを、まだ誰も知らなかった。




