第5話 DoAの執行者
十二月二日、午後六時四十二分。
九条ホールディングス本社ビルの周囲には、数え切れないほどの報道陣が集まっていた。
地上四十八階の高層ビルを見上げるカメラの列。その向こうには警察車両が停まり、歩道には中継を見守る人々が集まっている。冬の空はすでに暗く、ガラス張りの建物には周囲の街明かりが映り込んでいた。
誰もが一つのことを気にしていた。
メーター0となった九条重光は、本当に処刑されるのか。
そして、百人の警備員は彼を守ることができるのか。
「現在、九条会長は本社最上階に待機しているとみられます」
テレビ局の記者が、カメラに向かって説明を続けていた。
「建物内には百名の警備員が配置され、外部からの侵入を厳重に警戒しています。しかし、執行者DoAの正体は依然として不明です」
記者の背後では、警備員たちが出入口を監視していた。
九条ホールディングスは、国内でも有数の巨大企業グループだった。最新の警備設備を備えた本社ビルに百人の警備員を配置するという対応は、企業として可能な限りの対策だった。
それでも、安心できる人間はほとんどいなかった。
相手が何なのか、誰も知らないからだ。
本社ビル最上階。
九条重光は、執務室の中央に置かれた椅子へ腰を下ろしていた。
六十八歳になる九条の顔には、疲労の色が浮かんでいる。机の上には病院への支援記録が残され、窓の向こうには東京の夜景が広がっていた。
「会長、各配置から異常なしとの報告です」
警備責任者が告げた。
「そうか」
九条は短く答え、自分の視界を確認した。
《0》
その下には、残された時間が表示されている。
数字は容赦なく減り続けていた。
「……本当に来るのかね」
九条が呟くと、警備責任者は表情を引き締めた。
「どのような事態にも対応できるよう、警備員全員が待機しています」
「君たちの仕事ぶりを疑っているわけではない」
九条はゆっくりと首を振った。
「ただ、相手が何なのかも分からんというのは、どうにも気分が悪い」
警備責任者は返事をしなかった。
彼も同じことを考えていた。
通常の侵入者なら、出入口を封鎖し、監視カメラで動きを追えばいい。武器を持った人間が相手なら、それに応じた警備体制を整えることもできる。
しかし、DoAには姿も特徴もない。
どこから来るのか。
どのように処刑するのか。
そもそも、実体を持つ存在なのか。
分かっているのは、システムがその名前を告げたという事実だけだった。
「残り時間は?」
九条が尋ねた。
「まもなく期限を迎えます」
「そうか」
九条は椅子の背もたれに身体を預けた。
昨日まで、彼は自分が処刑されるなど想像もしていなかった。
病院を支援した。
医療従事者が働き続けられるように資金を提供した。
それが犯罪者認定の理由だという。
九条は窓の外を見つめた。
「私は、間違ったことをしたのかね」
警備責任者が顔を上げた。
「会長?」
「病院を助けたことだ。あれは間違いだったのか」
「……いいえ」
警備責任者は迷わず答えた。
「会長の支援によって、助かった人たちがいます」
九条はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうか。それなら、よかった」
その言葉を最後に、執務室には沈黙が戻った。
警備責任者の無線から、各階の状況が次々と報告される。
『正面玄関、異常なし』
『地下駐車場、異常なし』
『屋上、異常なし』
『最上階通路、異常なし』
九条は腕時計を確認した。
秒針が、静かに進んでいる。
やがて、視界に表示されていた残り時間が、最後の一分を示した。
「……あと一分か」
九条の声は、驚くほど落ち着いていた。
警備責任者は無線を握り締めた。
「全員、警戒を強化しろ。少しでも異常があれば直ちに報告するんだ」
『了解!』
緊張した声が返ってくる。
九条は椅子に座ったまま、静かに時間を見つめていた。
残り三十秒。
二十秒。
十秒。
警備責任者の額に汗が滲んだ。
しかし、何も起こらない。
窓は閉まっている。
扉の外には警備員がいる。
監視カメラにも異常はない。
五秒。
四秒。
三秒。
九条は小さく息を吐いた。
二秒。
一秒。
《残り時間 0》
その瞬間だった。
執務室の空気が、変わった。
九条は最初、何が起きたのか分からなかった。
窓が割れたわけではない。扉が開いたわけでもない。警報が鳴ったわけでもなかった。
ただ、目の前に誰かが立っていた。
「……誰だ?」
九条の声が震えた。
黒い人影だった。
顔ははっきりと見えず、身体の輪郭もどこか曖昧だった。しかし、そこに何者かが存在していることだけは分かった。
警備責任者が反射的に身構えた。
「何者だ! どうやって入った!」
返事はなかった。
人影は九条だけを見つめているようだった。
「会長から離れろ!」
警備責任者が叫ぶ。
しかし、次の瞬間、彼の身体は動かなくなった。
「……なっ?」
足を踏み出そうとしても動かない。
腕を伸ばそうとしても、指一本動かせない。
意識ははっきりしている。それなのに、身体だけが命令を聞かなかった。
黒い人影は、ゆっくりと九条へ近づいた。
九条は椅子から立ち上がろうとした。
だが、足が震え、思うように動けなかった。
「待て……」
声が漏れた。
「私は、何も悪いことをしていない」
人影は止まらなかった。
「病院を助けただけだ。人を救おうとしただけなんだ!」
九条の声が大きくなる。
「それが、なぜ罪になる!」
返事はなかった。
黒い人影は、九条の目の前まで来ていた。
九条は必死に椅子から立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かない。
「頼む……待ってくれ……!」
その瞬間、人影が九条へ手を伸ばした。
九条の身体が大きく震えた。
そして、椅子から崩れ落ちた。
警備責任者は目を見開いた。
「会長!」
叫んだつもりだった。
しかし、声が出ていなかった。
黒い人影は、倒れた九条を見下ろしていた。
やがて何事もなかったかのように背を向け、ゆっくりと歩き始めた。
その姿が壁へ近づく。
次の瞬間、人影は壁の向こうへ消えていった。
まるで、そこに壁など存在していなかったかのように。
数秒後。
警備責任者の身体が、突然動くようになった。
「会長!」
彼は九条へ駆け寄った。
「会長! しっかりしてください!」
肩を揺さぶっても反応はない。
警備責任者は無線を握り締めた。
「救急隊を呼べ! 今すぐだ!」
その声が、執務室に響き渡った。
しかし、九条重光が再び目を開くことはなかった。
同じ頃。
井出勇気は、自宅のテレビで九条ホールディングスの中継を見ていた。
画面には本社ビルの外観が映し出され、現地の記者が警備状況を説明している。
『まもなく、九条会長の犯罪者認定から二十四時間が経過するとみられます』
勇気はテレビの前で腕を組んだ。
百人の警備員。
厳重な警備体制。
それでも、本当に処刑されるのだろうか。
そのとき、テレビの画面が切り替わった。
『速報です!』
ニュースキャスターの声が裏返った。
『九条ホールディングス本社ビル最上階で、九条重光会長が倒れているのが発見されました!』
勇気は思わず身を乗り出した。
「……え?」
『現在、救急隊が対応していますが、詳しい状況は分かっていません』
画面には、騒然とする本社ビルの玄関が映っていた。
警備員たちが慌ただしく動き、救急車が建物の前へ到着する。
勇気はスマートフォンを手に取った。
SNSには、九条の身に何が起きたのかを尋ねる投稿が殺到していた。
《九条会長、どうなった?》
《百人も警備員がいたんだろ?》
《DoAが来たのか?》
《中継してくれ!》
勇気はテレビへ視線を戻した。
しばらくして、ニュースキャスターが新しい情報を読み上げた。
『九条重光会長について、死亡が確認されたとの情報が入りました』
勇気は息を呑んだ。
『九条会長は、犯罪者認定から二十四時間が経過した直後に倒れたとみられています』
奈々からメッセージが届いた。
『井出さん、ニュース見てますか?』
勇気は震える指で返信した。
『見てる』
すぐに返事が来た。
『本当に処刑されたんでしょうか』
勇気は答えられなかった。
そのとき、テレビに新しい映像が映し出された。
『九条ホールディングス本社ビル内部の監視カメラ映像とみられる動画が、インターネット上に流出しています』
画面には、九条の執務室が映っていた。
椅子に座る九条。
その近くに立つ警備責任者。
そして、突然現れる黒い人影。
勇気は息を止めた。
人影が九条へ近づく。
警備責任者は動けない様子だった。
九条が何かを叫んでいる。
しかし、音声はない。
やがて人影が手を伸ばし、九条が崩れ落ちた。
「……嘘だろ」
勇気の口から声が漏れた。
映像の中で、人影はゆっくりと歩き始めた。
そして、壁をすり抜けるように消えた。
勇気はテレビから目を離せなかった。
百人の警備員がいた。
厳重な警備設備もあった。
それなのに、何一つ役に立たなかった。
ニュースキャスターが震える声で告げた。
『現在、この映像の真偽について確認が進められています。ただし、九条会長の死亡が確認されたことは事実です』
勇気は自分のメーターを見た。
《99》
たった一点減っただけ。
しかし、その数字が0になれば、九条と同じ運命を迎えるかもしれない。
勇気はスマートフォンを握り締めた。
画面には、九条の死亡を伝える速報が次々と届いている。
人々はもう、善悪逆転システムを単なる異常現象として片づけることはできなかった。
人を助ければ数字が減る。
数字が0になれば犯罪者になる。
そして、二十四時間以内に回復できなければ処刑される。
その事実が、世界中へ突きつけられた。
勇気はテレビに映る九条の顔写真を見つめた。
病院を支援した男。
多くの人間を助けようとした男。
その男は、犯罪者として処刑された。
勇気の頭に、一つの考えが浮かんだ。
もし、善いことをして死ぬのなら。
もし、悪いことをすれば生き延びられるのなら。
これから人間は、どちらを選ぶのだろう。
窓の外では、いつもと変わらない街の明かりが輝いていた。
しかし勇気には、その景色が昨日までとはまったく違って見えた。
この世界では、善人であることが死刑宣告になる。
そして今、その事実を世界中の人間が知ってしまった。




