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善人が裁かれる日 ~人を救えば死刑、悪人ほど生き残る世界~  作者: ☆☆アダム☆☆


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10/20

第10話 最後まで、手を離さなかった

十二月五日、午後二時五十九分。


白石奈々は、井出勇気の手を握り締めていた。


会社の休憩スペースには、壁時計の秒針が進む音だけが響いている。窓から差し込む冬の日差しは弱く、向かいのビルが落とす影が、ゆっくりと床を覆い始めていた。


「井出さん……」


奈々の声が震えた。


「私、本当に死んじゃうんでしょうか」


勇気は答えられなかった。


昨日の午後三時、奈々は車にひかれそうになった子供を救い、メーターが0になった。あれから、まもなく二十四時間が経過する。


勇気たちは必死に回復方法を探した。しかし、確実な方法は見つからなかった。


小用卓は自分の命を失う恐怖から協力を断念し、阿部智昭も有効な情報を得られなかった。


それでも勇気は、最後まで奈々のそばに残ることを選んだ。


「……まだ、何も起きてないよ」


勇気は彼女の手を握り返した。


「だから、最後まで諦めないで」


奈々は小さく頷いた。しかし、その目には涙が浮かんでいた。


「私、昨日の朝まで普通に仕事してたんですよね」


「うん」


「年末までに仕事を片づけて、お正月はゆっくり休もうって思ってました。来年は旅行にも行きたかったし、欲しいものもあったし……本当に、普通のことばっかりなんですけど」


奈々は窓の外を見つめた。


「そんな普通のことが、もうできなくなるかもしれないなんて……」


勇気は唇を噛んだ。


何か言わなければと思った。しかし、どんな言葉も薄っぺらく感じられた。


大丈夫。きっと助かる。


そんな約束をすることはできなかった。


九条重光は、百人もの警備員に守られながら処刑された。自分には、彼女を守るための特別な力などない。


それでも、手を離すことだけはしたくなかった。


「白石さん。昨日、あの子を助けたこと……僕は間違ってなかったと思う」


奈々は顔を上げた。


「でも、そのせいで……」


「うん。分かってる。それでも、白石さんがいなかったら、あの子は助からなかったかもしれない」


奈々は涙を拭った。


「……ありがとうございます」


その言葉を聞いた瞬間、勇気の胸が苦しくなった。


感謝されるべきなのは奈々の方だった。それなのに、彼女は自分の命が危険にさらされている中で、勇気に礼を言っている。


時計の秒針が進み、午後三時が近づいていた。


奈々の手に、さらに強い力がこもる。


「井出さん……怖いです」


「うん」


「死にたくない……」


勇気は彼女の手を握り返した。


「僕も、白石さんに死んでほしくない」


奈々は俯いたまま、何度も頷いた。


やがて、彼女の視界に表示されていた残り時間が、最後の十秒を示した。


「……あと十秒です」


勇気は壁時計へ目を向けた。


秒針が進むたびに、奈々の呼吸が浅くなっていく。残り五秒を切ったところで、彼女は勇気の手を痛いほど強く握り締めた。


「井出さん……!」


勇気は返事をしようとしたが、言葉が出なかった。


三秒、二秒、そして一秒。


《残り時間 0》


午後三時。


その瞬間、勇気は奇妙な違和感を覚えた。


物音がしたわけでも、扉が開いたわけでもない。ただ、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、黒い人影が立っていた。


「……え?」


勇気は息を呑んだ。


黒い人影。


顔ははっきりと見えず、身体の輪郭も曖昧だった。しかし、その姿には見覚えがあった。


九条重光の監視カメラ映像。


あの執務室に突然現れ、九条を処刑した存在。


「……DoA」


勇気の口から、かすれた声が漏れた。


奈々も人影に気づいた。


「いや……」


彼女の身体が震え始めた。


「来ないで……!」


DoAは何も答えなかった。ゆっくりと、奈々へ向かって歩き始める。


勇気は反射的に立ち上がった。


「待て!」


人影は止まらない。


「白石さんは何も悪いことをしてない! 子供を助けただけなんだ! それが、どうして処刑される理由になる!」


DoAは一切反応しなかった。


まるで勇気の声など聞こえていないかのように、奈々だけを目指して歩いてくる。


勇気は人影の前へ踏み出した。


「行かせない……!」


両腕を広げ、奈々との間に立ちはだかる。


DoAは歩く速度を変えなかった。


勇気は衝突に備えて身体に力を込めた。しかし、次の瞬間、目の前の人影が自分の身体を通り抜けていった。


「……なっ?」


衝撃はなかった。


肩が触れる感覚も、押しのけられる感覚もない。冷たい空気が流れたわけですらなかった。


勇気は慌てて振り返った。


DoAはすでに奈々の前に立っていた。


「白石さん、逃げて!」


奈々は椅子から立ち上がろうとしたが、恐怖で足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。


「いや……お願い……」


奈々は必死に後ずさった。


「私、死にたくない……! まだ、生きたいんです……!」


勇気はDoAへ駆け寄った。


その腕をつかもうとしたが、指先は何の抵抗もなく人影をすり抜けた。


「やめろ!」


もう一度、両手を伸ばす。


しかし、結果は同じだった。


そこに確かに存在しているように見えるのに、触れることができない。


勇気は奈々の前へ回り込み、彼女をかばうように立った。


「白石さんには触らせない!」


それでもDoAは止まらなかった。


勇気の身体を再び通り抜け、奈々へ手を伸ばした。


「いやあああっ!」


奈々の悲鳴が響いた。


次の瞬間、DoAの手が彼女に触れた。


奈々の身体が大きく震え、そのまま力を失ったように床へ倒れ込んだ。


「…………」


勇気は目を見開いた。


何が起きたのか、理解できなかった。


ほんの数秒前まで、奈々は泣きながら助けを求めていた。それなのに今は、床に倒れたまま動かない。


DoAは奈々を見下ろしていた。


やがて、何事もなかったかのように背を向けた。


ゆっくりと歩き始め、そのまま壁の中へ消えていく。


まるで、そこに壁など存在していなかったかのように。


勇気は人影が消えた壁を見つめていた。


しかし、すぐに我に返った。


「白石さん!」


奈々へ駆け寄り、床に膝をついた。


「白石さん! しっかりして!」


肩を抱き起こしても反応はない。


勇気は彼女の呼吸を確認した。


息をしていなかった。


「……嘘だろ」


声が震えた。


「白石さん……?」


何度呼びかけても、返事はなかった。


勇気は震える手で救急車を呼び、指示を受けながら救命処置を始めた。


胸骨圧迫を繰り返す。


何度も、何度も。


「頼む……! お願いだから……!」


勇気の額から汗が流れ落ちた。


やがて、廊下から足音が聞こえてきた。


騒ぎに気づいた社員たちが、休憩スペースへ駆け込んでくる。


「井出さん! 何があったんですか!」


勇気は振り返る余裕もなかった。


「救急車を呼んだ! 誰か、AEDを持ってきて!」


社員の一人が慌てて走り出した。


勇気は救命処置を続けた。


しかし、奈々が目を開くことはなかった。


*


午後三時二十五分。


白石奈々の死亡が確認された。


勇気は休憩スペースの椅子に座り、床を見つめていた。


つい先ほどまで、奈々が座っていた場所だった。


そこにはもう、誰もいない。


机の上には、彼女が飲みかけていたペットボトルが残されていた。昨日から何度も手に取っていたもので、ラベルの端が少し剥がれている。


勇気はそれを見つめた。


奈々はもう、この飲み物を口にすることもない。


そんな当たり前のことが、どうしても信じられなかった。


ほんの数十分前まで、彼女はここにいた。


笑っていた。


泣いていた。


怖いと言いながら、勇気の手を握っていた。


その手の温もりが、まだ指先に残っている気がした。


勇気は無意識に自分の手を見た。


奈々が最後に握り締めた場所だった。


もう一度、あの手を握ることはできない。


「……白石さん」


名前を呼んだ。


返事はなかった。


いつもなら、少し離れた席から「はい」と明るい声が返ってきた。


仕事で分からないことがあれば、申し訳なさそうに笑いながら質問してきた。


朝には必ず挨拶を交わし、昼休みには何でもない話をした。


そんな日常が、突然終わってしまった。


勇気は、奈々が最後に言った言葉を思い出した。


『私、死にたくない……』


あのとき、自分は何と答えただろう。


死んでほしくない。


確かに、そう言った。


しかし、結局何もできなかった。


彼女の手を握っていた。


最後までそばにいた。


それだけだった。


「……ごめん」


勇気は小さく呟いた。


「ごめん、白石さん……」


涙が頬を伝った。


一度こぼれると、止まらなかった。


奈々が死んだという事実を、頭では理解している。


それでも、どこかでまだ信じられずにいた。


今にも扉が開いて、彼女が戻ってくるのではないか。


「井出さん、どうしたんですか?」


そう言って、いつものように笑ってくれるのではないか。


しかし、扉は開かなかった。


休憩スペースには、壁時計の音だけが響いていた。


*


「……井出」


声がした。


顔を上げると、小用卓が立っていた。


卓は何かを言おうとしたが、勇気の表情を見て口を閉じた。


「……白石さん、本当に……」


勇気は小さく頷いた。


卓は唇を噛んだ。


「くそっ……!」


拳を握り締め、壁へ視線を向ける。


「何でだよ……。何で、あんな人が死ななきゃいけねえんだよ……!」


勇気は何も答えられなかった。


卓はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。


「……俺、逃げたんだよな」


勇気は顔を上げた。


「白石さんを助けたいって言いながら、自分の数字が減るのが怖くなって……」


卓は俯いた。


「結局、何もしなかった」


「卓……」


「俺、何やってんだろうな……」


勇気は何も言えなかった。


卓の気持ちは痛いほど分かった。


自分だって、何もできなかったのだから。


最後まで奈々のそばにいた。それでも、彼女を救うことはできなかった。


勇気は自分の視界に浮かぶ数字を見た。


《99》


初日から変わっていない。


奈々を助けようとして、何度も行動した。


それなのに、数字は減らなかった。


勇気は、そのことに気づいて愕然とした。


システムは、何を善行と判断しているのだろう。


誰かを助けようとする気持ちだけでは、減点されないのか。


実際に救えなければ、善行とは認められないのか。


答えは分からなかった。


ただ、奈々が死んだという事実だけが残っていた。


*


午後四時十分。


勇気は会社を出た。


冬の空は薄い雲に覆われ、街には冷たい風が吹いていた。


歩道には多くの人々が行き交っている。


買い物袋を持つ女性、スマートフォンを見ながら歩く学生、仕事を終えて駅へ向かう会社員。


誰もが、いつもと変わらない日常を過ごしているように見えた。


勇気は足を止めた。


ほんの一時間ほど前、奈々は死んだ。


しかし、街は何も変わらない。


信号は青になり、車は走り、人々は目的地へ向かって歩いている。


その光景が、ひどく残酷に感じられた。


勇気はスマートフォンを取り出した。


奈々とのメッセージが残っていた。


『井出さん、ニュース見てますか?』


『私、怖いです』


『ありがとうございます』


何度も読み返した言葉。


もう、新しいメッセージが届くことはない。


勇気はスマートフォンを握り締めた。


「……白石さん」


声に出した瞬間、涙がこぼれた。


昨日まで、彼女は普通に生きていた。


仕事をして、笑って、将来のことを考えていた。


それが、たった一人の子供を助けたことで奪われた。


勇気は涙を拭った。


そして、視界の右上に浮かぶ数字を見つめた。


《99》


自分はまだ生きている。


しかし、これからも善いことを続ければ、いつか同じ運命を迎えるかもしれない。


それでも、誰かを助けたいと思う気持ちを捨てることはできなかった。


勇気はゆっくりと歩き始めた。


そのとき、ふと考えた。


もし、奈々を救う方法が存在していたとしたら。


自分たちが知らなかっただけで、何か別の方法があったとしたら。


その可能性を、どうしても否定できなかった。


勇気は立ち止まり、振り返った。


会社のビルが、夕暮れの空を背景にそびえている。


あの中で、奈々は命を落とした。


そして、自分は何もできなかった。


勇気は拳を握り締めた。


もし、善人が死ななければならない世界なら。


この世界で善人を救う方法を、必ず見つけてみせる。


その決意が、井出勇気の中に初めて生まれた。

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