第10話 最後まで、手を離さなかった
十二月五日、午後二時五十九分。
白石奈々は、井出勇気の手を握り締めていた。
会社の休憩スペースには、壁時計の秒針が進む音だけが響いている。窓から差し込む冬の日差しは弱く、向かいのビルが落とす影が、ゆっくりと床を覆い始めていた。
「井出さん……」
奈々の声が震えた。
「私、本当に死んじゃうんでしょうか」
勇気は答えられなかった。
昨日の午後三時、奈々は車にひかれそうになった子供を救い、メーターが0になった。あれから、まもなく二十四時間が経過する。
勇気たちは必死に回復方法を探した。しかし、確実な方法は見つからなかった。
小用卓は自分の命を失う恐怖から協力を断念し、阿部智昭も有効な情報を得られなかった。
それでも勇気は、最後まで奈々のそばに残ることを選んだ。
「……まだ、何も起きてないよ」
勇気は彼女の手を握り返した。
「だから、最後まで諦めないで」
奈々は小さく頷いた。しかし、その目には涙が浮かんでいた。
「私、昨日の朝まで普通に仕事してたんですよね」
「うん」
「年末までに仕事を片づけて、お正月はゆっくり休もうって思ってました。来年は旅行にも行きたかったし、欲しいものもあったし……本当に、普通のことばっかりなんですけど」
奈々は窓の外を見つめた。
「そんな普通のことが、もうできなくなるかもしれないなんて……」
勇気は唇を噛んだ。
何か言わなければと思った。しかし、どんな言葉も薄っぺらく感じられた。
大丈夫。きっと助かる。
そんな約束をすることはできなかった。
九条重光は、百人もの警備員に守られながら処刑された。自分には、彼女を守るための特別な力などない。
それでも、手を離すことだけはしたくなかった。
「白石さん。昨日、あの子を助けたこと……僕は間違ってなかったと思う」
奈々は顔を上げた。
「でも、そのせいで……」
「うん。分かってる。それでも、白石さんがいなかったら、あの子は助からなかったかもしれない」
奈々は涙を拭った。
「……ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、勇気の胸が苦しくなった。
感謝されるべきなのは奈々の方だった。それなのに、彼女は自分の命が危険にさらされている中で、勇気に礼を言っている。
時計の秒針が進み、午後三時が近づいていた。
奈々の手に、さらに強い力がこもる。
「井出さん……怖いです」
「うん」
「死にたくない……」
勇気は彼女の手を握り返した。
「僕も、白石さんに死んでほしくない」
奈々は俯いたまま、何度も頷いた。
やがて、彼女の視界に表示されていた残り時間が、最後の十秒を示した。
「……あと十秒です」
勇気は壁時計へ目を向けた。
秒針が進むたびに、奈々の呼吸が浅くなっていく。残り五秒を切ったところで、彼女は勇気の手を痛いほど強く握り締めた。
「井出さん……!」
勇気は返事をしようとしたが、言葉が出なかった。
三秒、二秒、そして一秒。
《残り時間 0》
午後三時。
その瞬間、勇気は奇妙な違和感を覚えた。
物音がしたわけでも、扉が開いたわけでもない。ただ、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、黒い人影が立っていた。
「……え?」
勇気は息を呑んだ。
黒い人影。
顔ははっきりと見えず、身体の輪郭も曖昧だった。しかし、その姿には見覚えがあった。
九条重光の監視カメラ映像。
あの執務室に突然現れ、九条を処刑した存在。
「……DoA」
勇気の口から、かすれた声が漏れた。
奈々も人影に気づいた。
「いや……」
彼女の身体が震え始めた。
「来ないで……!」
DoAは何も答えなかった。ゆっくりと、奈々へ向かって歩き始める。
勇気は反射的に立ち上がった。
「待て!」
人影は止まらない。
「白石さんは何も悪いことをしてない! 子供を助けただけなんだ! それが、どうして処刑される理由になる!」
DoAは一切反応しなかった。
まるで勇気の声など聞こえていないかのように、奈々だけを目指して歩いてくる。
勇気は人影の前へ踏み出した。
「行かせない……!」
両腕を広げ、奈々との間に立ちはだかる。
DoAは歩く速度を変えなかった。
勇気は衝突に備えて身体に力を込めた。しかし、次の瞬間、目の前の人影が自分の身体を通り抜けていった。
「……なっ?」
衝撃はなかった。
肩が触れる感覚も、押しのけられる感覚もない。冷たい空気が流れたわけですらなかった。
勇気は慌てて振り返った。
DoAはすでに奈々の前に立っていた。
「白石さん、逃げて!」
奈々は椅子から立ち上がろうとしたが、恐怖で足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
「いや……お願い……」
奈々は必死に後ずさった。
「私、死にたくない……! まだ、生きたいんです……!」
勇気はDoAへ駆け寄った。
その腕をつかもうとしたが、指先は何の抵抗もなく人影をすり抜けた。
「やめろ!」
もう一度、両手を伸ばす。
しかし、結果は同じだった。
そこに確かに存在しているように見えるのに、触れることができない。
勇気は奈々の前へ回り込み、彼女をかばうように立った。
「白石さんには触らせない!」
それでもDoAは止まらなかった。
勇気の身体を再び通り抜け、奈々へ手を伸ばした。
「いやあああっ!」
奈々の悲鳴が響いた。
次の瞬間、DoAの手が彼女に触れた。
奈々の身体が大きく震え、そのまま力を失ったように床へ倒れ込んだ。
「…………」
勇気は目を見開いた。
何が起きたのか、理解できなかった。
ほんの数秒前まで、奈々は泣きながら助けを求めていた。それなのに今は、床に倒れたまま動かない。
DoAは奈々を見下ろしていた。
やがて、何事もなかったかのように背を向けた。
ゆっくりと歩き始め、そのまま壁の中へ消えていく。
まるで、そこに壁など存在していなかったかのように。
勇気は人影が消えた壁を見つめていた。
しかし、すぐに我に返った。
「白石さん!」
奈々へ駆け寄り、床に膝をついた。
「白石さん! しっかりして!」
肩を抱き起こしても反応はない。
勇気は彼女の呼吸を確認した。
息をしていなかった。
「……嘘だろ」
声が震えた。
「白石さん……?」
何度呼びかけても、返事はなかった。
勇気は震える手で救急車を呼び、指示を受けながら救命処置を始めた。
胸骨圧迫を繰り返す。
何度も、何度も。
「頼む……! お願いだから……!」
勇気の額から汗が流れ落ちた。
やがて、廊下から足音が聞こえてきた。
騒ぎに気づいた社員たちが、休憩スペースへ駆け込んでくる。
「井出さん! 何があったんですか!」
勇気は振り返る余裕もなかった。
「救急車を呼んだ! 誰か、AEDを持ってきて!」
社員の一人が慌てて走り出した。
勇気は救命処置を続けた。
しかし、奈々が目を開くことはなかった。
*
午後三時二十五分。
白石奈々の死亡が確認された。
勇気は休憩スペースの椅子に座り、床を見つめていた。
つい先ほどまで、奈々が座っていた場所だった。
そこにはもう、誰もいない。
机の上には、彼女が飲みかけていたペットボトルが残されていた。昨日から何度も手に取っていたもので、ラベルの端が少し剥がれている。
勇気はそれを見つめた。
奈々はもう、この飲み物を口にすることもない。
そんな当たり前のことが、どうしても信じられなかった。
ほんの数十分前まで、彼女はここにいた。
笑っていた。
泣いていた。
怖いと言いながら、勇気の手を握っていた。
その手の温もりが、まだ指先に残っている気がした。
勇気は無意識に自分の手を見た。
奈々が最後に握り締めた場所だった。
もう一度、あの手を握ることはできない。
「……白石さん」
名前を呼んだ。
返事はなかった。
いつもなら、少し離れた席から「はい」と明るい声が返ってきた。
仕事で分からないことがあれば、申し訳なさそうに笑いながら質問してきた。
朝には必ず挨拶を交わし、昼休みには何でもない話をした。
そんな日常が、突然終わってしまった。
勇気は、奈々が最後に言った言葉を思い出した。
『私、死にたくない……』
あのとき、自分は何と答えただろう。
死んでほしくない。
確かに、そう言った。
しかし、結局何もできなかった。
彼女の手を握っていた。
最後までそばにいた。
それだけだった。
「……ごめん」
勇気は小さく呟いた。
「ごめん、白石さん……」
涙が頬を伝った。
一度こぼれると、止まらなかった。
奈々が死んだという事実を、頭では理解している。
それでも、どこかでまだ信じられずにいた。
今にも扉が開いて、彼女が戻ってくるのではないか。
「井出さん、どうしたんですか?」
そう言って、いつものように笑ってくれるのではないか。
しかし、扉は開かなかった。
休憩スペースには、壁時計の音だけが響いていた。
*
「……井出」
声がした。
顔を上げると、小用卓が立っていた。
卓は何かを言おうとしたが、勇気の表情を見て口を閉じた。
「……白石さん、本当に……」
勇気は小さく頷いた。
卓は唇を噛んだ。
「くそっ……!」
拳を握り締め、壁へ視線を向ける。
「何でだよ……。何で、あんな人が死ななきゃいけねえんだよ……!」
勇気は何も答えられなかった。
卓はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「……俺、逃げたんだよな」
勇気は顔を上げた。
「白石さんを助けたいって言いながら、自分の数字が減るのが怖くなって……」
卓は俯いた。
「結局、何もしなかった」
「卓……」
「俺、何やってんだろうな……」
勇気は何も言えなかった。
卓の気持ちは痛いほど分かった。
自分だって、何もできなかったのだから。
最後まで奈々のそばにいた。それでも、彼女を救うことはできなかった。
勇気は自分の視界に浮かぶ数字を見た。
《99》
初日から変わっていない。
奈々を助けようとして、何度も行動した。
それなのに、数字は減らなかった。
勇気は、そのことに気づいて愕然とした。
システムは、何を善行と判断しているのだろう。
誰かを助けようとする気持ちだけでは、減点されないのか。
実際に救えなければ、善行とは認められないのか。
答えは分からなかった。
ただ、奈々が死んだという事実だけが残っていた。
*
午後四時十分。
勇気は会社を出た。
冬の空は薄い雲に覆われ、街には冷たい風が吹いていた。
歩道には多くの人々が行き交っている。
買い物袋を持つ女性、スマートフォンを見ながら歩く学生、仕事を終えて駅へ向かう会社員。
誰もが、いつもと変わらない日常を過ごしているように見えた。
勇気は足を止めた。
ほんの一時間ほど前、奈々は死んだ。
しかし、街は何も変わらない。
信号は青になり、車は走り、人々は目的地へ向かって歩いている。
その光景が、ひどく残酷に感じられた。
勇気はスマートフォンを取り出した。
奈々とのメッセージが残っていた。
『井出さん、ニュース見てますか?』
『私、怖いです』
『ありがとうございます』
何度も読み返した言葉。
もう、新しいメッセージが届くことはない。
勇気はスマートフォンを握り締めた。
「……白石さん」
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
昨日まで、彼女は普通に生きていた。
仕事をして、笑って、将来のことを考えていた。
それが、たった一人の子供を助けたことで奪われた。
勇気は涙を拭った。
そして、視界の右上に浮かぶ数字を見つめた。
《99》
自分はまだ生きている。
しかし、これからも善いことを続ければ、いつか同じ運命を迎えるかもしれない。
それでも、誰かを助けたいと思う気持ちを捨てることはできなかった。
勇気はゆっくりと歩き始めた。
そのとき、ふと考えた。
もし、奈々を救う方法が存在していたとしたら。
自分たちが知らなかっただけで、何か別の方法があったとしたら。
その可能性を、どうしても否定できなかった。
勇気は立ち止まり、振り返った。
会社のビルが、夕暮れの空を背景にそびえている。
あの中で、奈々は命を落とした。
そして、自分は何もできなかった。
勇気は拳を握り締めた。
もし、善人が死ななければならない世界なら。
この世界で善人を救う方法を、必ず見つけてみせる。
その決意が、井出勇気の中に初めて生まれた。




