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善人が裁かれる日 ~人を救えば死刑、悪人ほど生き残る世界~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第11話 追い詰められた親子

十二月五日、午後六時二十分。


井出勇気は、白石奈々の席を見つめていた。


机の上には、きれいに重ねられた書類と、使いかけの筆記用具が残されている。パソコンの横には小さな卓上カレンダーが置かれ、年末の予定らしい書き込みがいくつか見えた。


ほんの数時間前まで、奈々はここで働いていた。


朝になれば「おはようございます」と声をかけ、仕事が終わらなければ困ったように笑う。そんな何でもない日常が、明日からは二度と戻ってこない。


勇気は椅子に腰を下ろしたまま、動けずにいた。


「……井出」


背後から声がした。


振り返ると、小用卓が立っていた。


「まだいたのか」


「うん。ちょっと……」


勇気は言葉を探したが、うまく見つからなかった。


卓は奈々の机へ視線を向けると、何も言わずに隣へ立った。


しばらく、二人の間に沈黙が流れた。


「……明日になったら、ここに白石さんがいないんだよな」


卓が呟いた。


勇気は頷いた。


「分かってるつもりなんだけど、まだ実感がないんだ」


「俺もだよ」


卓は机の上の書類を見つめた。


「さっきまで、普通に仕事してた気がするんだよな。また何か聞きに来るんじゃないかって……」


その言葉を聞いた瞬間、勇気の胸が締めつけられた。


奈々が仕事の相談をしてくる姿が、あまりにも簡単に思い浮かんだからだ。


「井出さん、ちょっといいですか?」


そう言って、いつものように笑う。


きっと明日も、無意識に彼女の席を見てしまうだろう。


そして、そこに誰もいないことを思い知らされる。


「……卓」


「何だ?」


「僕、最後まで何もできなかった」


勇気は俯いた。


「白石さんの目の前に立ったんだ。DoAを止めようとして、何度も手を伸ばした。でも、全部すり抜けて……」


卓は黙って聞いていた。


「白石さん、ずっと助けを求めてたんだよ。それなのに、僕は……」


声が震えた。


勇気は両手を握り締めた。


DoAの姿が、頭から離れなかった。


奈々へ向かって歩いてくる黒い人影。


必死に逃げようとする彼女。


そして、何の抵抗もなく自分の身体をすり抜けていく執行者。


何度思い返しても、結果は変わらない。


「井出、お前は最後までそばにいたじゃねえか」


卓が静かに言った。


「俺なんか、途中で逃げたんだぞ」


「でも、助けられなかった」


「……そうだな」


卓は否定しなかった。


そのことが、勇気にはありがたかった。


無理に慰められても、今は受け止められなかっただろう。


「俺、白石さんに謝りたかった」


卓は小さく息を吐いた。


「昨日、もう協力できないって言ったこと。怖くなって逃げたこと。ちゃんと謝りたかったんだ」


勇気は卓を見た。


「でも、もう謝れねえんだよな」


卓の声がかすれた。


二人はそれ以上、何も話さなかった。


窓の外では、夜の街に明かりが灯り始めていた。


*


会社を出た勇気は、駅へ向かって歩いていた。


冷たい風が頬を撫でる。歩道には仕事帰りの人々が行き交い、飲食店の前からは温かそうな料理の匂いが漂っていた。


普段なら、夕食を何にするか考えながら歩く道だった。


しかし、今夜は何も食べたいと思えなかった。


スマートフォンを取り出すと、奈々とのやり取りが残っていた。


仕事の相談。


何でもない挨拶。


ニュースについての短い会話。


勇気は画面をゆっくりとスクロールした。


たった数日前のメッセージなのに、ずいぶん昔の出来事のように感じられた。


『井出さん、ありがとうございます』


その一文で指が止まった。


奈々は何度も礼を言っていた。


最初に仕事を手伝ったときも、メーターが0になってからも、最後まで。


勇気はスマートフォンを閉じた。


「……お礼なんか、いらなかったのに」


小さく呟いた声は、街の雑踏に消えていった。


駅前の大型モニターでは、善悪逆転システムに関するニュースが流れていた。


九条重光の処刑以来、メーター0となった人々の動向が大きく報じられている。


その画面を見上げながら、勇気は考えた。


奈々だけではない。


今この瞬間にも、誰かを助けたことでメーターが減り、死の恐怖に怯えている人間がいる。


その人たちも、奈々と同じように助けを求めているのだろうか。


そして、自分と同じように、何もできずにいる人間がいるのだろうか。


勇気は足を止めた。


もし、奈々を救う方法が存在していたとしたら。


あの二十四時間の間に、その方法を知ることができていたら。


何度考えても、同じ疑問に行き着いてしまう。


「……知らなかっただけなのかもしれない」


勇気は呟いた。


だが、それは希望というより、後悔に近かった。


知らなかったから助けられなかった。


そんな理由で、奈々の死を受け入れられるはずがなかった。


*


同じ夜。


ある親子もまた、善悪逆転システムによって追い詰められていた。


親は、子供の顔を見つめていた。


まだ幼いその子は、目の前の大人が何を恐れているのか、十分には理解できていない。


「……大丈夫?」


子供が尋ねた。


親はすぐには答えられなかった。


大丈夫だと言って安心させたかった。


しかし、その言葉を口にするには、あまりにも状況が厳しかった。


善悪逆転システムが現れてから、人々の生活は急速に変わっていた。


誰かを助ければ、数字が減る。


そして、その数字が0になれば、命を失うかもしれない。


大人でさえ理解しきれない仕組みを、幼い子供が受け止められるはずもなかった。


親は子供の手を握った。


「怖い?」


子供は少し考えてから頷いた。


「……うん」


「そうだよね」


親は子供を抱き寄せた。


小さな身体の温もりが、腕の中に伝わってくる。


その温もりを失うことなど、考えたくもなかった。


「ずっと一緒にいられる?」


子供が尋ねた。


親は唇を噛んだ。


約束したかった。


明日も、その次の日も、ずっと一緒にいられると。


しかし、善悪逆転システムは、そんな当たり前の約束さえ難しいものに変えてしまっていた。


「……一緒にいたいよ」


親は子供を強く抱き締めた。


それだけは、嘘ではなかった。


*


十二月五日、午後九時。


勇気は自宅のテーブルに座り、奈々のことを考えていた。


テレビはつけていない。


部屋には時計の音だけが響いている。


夕食を用意する気にもなれず、買ってきた食べ物も袋に入ったままだった。


勇気は自分の手を見つめた。


奈々が最後に握り締めた手。


あのとき、彼女は本当に怖がっていた。


助けてほしいと訴えていた。


自分は何度も頷き、最後まで諦めないと言った。


それなのに、彼女は死んだ。


勇気は両手で顔を覆った。


「……どうすればよかったんだよ」


誰も答えてくれなかった。


しばらくして、スマートフォンが震えた。


卓からのメッセージだった。


『井出、今日はちゃんと休めよ』


勇気は画面を見つめた。


短い文章だった。


いつもの卓らしい、少しぶっきらぼうな気遣いだった。


勇気は返信しようとしたが、指が止まった。


奈々にも、こんなふうにメッセージを送れたら。


「今日はゆっくり休んで」


そう伝えられたら。


けれど、もう送る相手はいない。


勇気はスマートフォンを伏せた。


窓の外では、冷たい風が街路樹を揺らしていた。


世界は何事もなかったかのように、次の日へ向かっている。


奈々が死んでも、時計は止まらない。


仕事は残り、人々は生活を続けていく。


その当たり前のことが、勇気にはひどく残酷だった。


そして、同じ夜。


子供を抱き締めていた親もまた、ある決断を迫られようとしていた。


自分の命と、子供の命。


その二つを天秤にかけなければならない瞬間が、近づいていた。

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