↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
善人が裁かれる日 ~人を救えば死刑、悪人ほど生き残る世界~  作者: ☆☆アダム☆☆


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/20

第12話 ポイント譲渡

十二月六日、午前七時二十分。


「お母さん、今日も学校に行っちゃ駄目なの?」


朝食のテーブルで、少女が尋ねた。


母親は返事をする前に、娘の顔を見つめた。まだ寝癖の残る髪に、少し大きめのパジャマ。いつもなら朝食を急いで食べ、ランドセルを背負って玄関へ走っていく時間だった。


「……今日は、お休みしようね」


「でも、先生が昨日のプリントを持ってきてって言ってたよ」


「学校にはお母さんから連絡しておくから。今日は家でゆっくりしよう」


少女は少し不満そうに唇を尖らせた。


「またお休み? みんなに置いていかれちゃうよ」


母親は無理に笑顔を作った。


「大丈夫。勉強は一緒にできるから」


「お母さん、算数苦手じゃん」


「……そうだったね」


思わず笑ってしまった。


娘は得意そうに胸を張った。


「この前だって、私の方が先に答え分かったもん」


「そうね。お母さんより先生に向いてるかもしれないね」


「じゃあ、大きくなったら先生になろうかな」


少女は楽しそうに笑った。


母親は、その笑顔を見つめた。


大きくなったら。


その言葉が、胸に突き刺さった。


娘には、まだ何年もの未来があるはずだった。


友達と遊び、勉強して、好きなことを見つけていく。失敗することも、誰かと喧嘩することもあるだろう。


それでも、そんな当たり前の日々を過ごしてほしかった。


しかし、娘の視界には今、《0》という数字が浮かんでいる。


昨日、誰かを助けたことでメーターが0になった。


そして、二十四時間以内に回復できなければ処刑される。


母親は時計を見た。


残された時間は、もう長くなかった。


「お母さん?」


少女の声で、母親は我に返った。


「どうしたの? また泣いてる」


「……ううん。ちょっと眠くて」


「昨日も眠れなかったの?」


母親は返事に詰まった。


昨夜はほとんど眠っていない。


娘が寝息を立てるたびに、その呼吸を確かめていた。夜中に何度も目を覚まし、隣で眠る小さな身体に手を伸ばした。


まだ生きている。


そう確認しなければ、怖くて目を閉じられなかった。


「大丈夫よ。お母さんは元気だから」


少女はじっと母親を見つめた。


「……嘘つき」


母親は驚いた。


「え?」


「元気なときは、そんな顔しないもん」


少女はスープを一口飲んでから、小さく続けた。


「私、何か悪いことした?」


母親の手が止まった。


「どうして?」


「だって、学校にも行けないし、お母さんもずっと泣いてるし……」


少女は俯いた。


「数字が0になったから?」


母親は椅子から立ち上がり、娘の隣へ移動した。


「違うよ」


小さな身体を抱き締める。


「あなたは何も悪くない。絶対に悪くないから」


「でも、0になったら犯罪者なんでしょ?」


少女の声が震えた。


「テレビで言ってたよ。犯罪者は悪い人だって」


母親は唇を噛んだ。


「……そうね。普通は、悪いことをした人が犯罪者って呼ばれるの」


「じゃあ、私も悪い子なの?」


「違う!」


思わず強い声が出た。


少女がびくりと身体を震わせる。


母親は慌てて首を振った。


「ごめんね。怒ったんじゃないの」


娘の頬に触れ、ゆっくりと言い聞かせた。


「あなたは優しい子よ。困っている人を助けたんでしょう? それは間違ったことじゃない」


少女は母親の服を握り締めた。


「……本当?」


「本当よ」


母親は何度も頷いた。


しかし、その言葉を口にするたび、胸の奥が苦しくなった。


娘の優しさを誇りに思っている。


それなのに、その優しさが娘の命を奪おうとしている。


母親は小さな背中を撫でながら、涙がこぼれないように必死で堪えた。


*


午前九時十分。


母親はスマートフォンを握り締め、何度目かの電話をかけていた。


「お願いします。娘を助ける方法を知りたいんです」


電話の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。


『現在、確実な回復方法は確認できておりません』


「でも、まだ子供なんです。何も悪いことをしていないんですよ!」


『お気持ちは分かりますが……』


「分かるなら、助けてください!」


思わず声が大きくなった。


隣の部屋から物音がして、母親は慌てて口を閉じた。


娘に聞かれたかもしれない。


そう思うと、胸が締めつけられた。


「……すみません」


母親は声を落とした。


「何か分かったら、教えてください。お願いします」


電話を切ると、テーブルへスマートフォンを置いた。


朝から何度も問い合わせている。


政府の相談窓口。


病院。


善悪逆転システムについて調査している機関。


しかし、どこからも確実な答えは得られなかった。


母親は両手で顔を覆った。


娘に悪いことをさせれば、数字が増えるかもしれない。


そんな情報は、すでに知っている。


しかし、何をすれば何ポイント増えるのか分からないうえ、娘に誰かを傷つけることを教えるなど、どうしてもできなかった。


「……どうすればいいの」


そのとき、隣の部屋から娘が顔を出した。


「お母さん?」


母親は慌てて顔を上げた。


「なあに?」


「お仕事の電話?」


「……ううん。ちょっと聞きたいことがあっただけ」


少女は母親の隣へやってきた。


「私の数字のこと?」


母親は返事ができなかった。


少女は小さく息を吐いた。


「もう、いいよ」


「え?」


「お母さん、ずっと大変そうだから」


母親は娘を見つめた。


少女は無理に笑っていた。


「私、悪い子にならないようにするから。だから、もう泣かないで」


その言葉を聞いた瞬間、母親の目から涙がこぼれた。


「……違うの」


娘を抱き寄せる。


「あなたは悪い子じゃない。何度でも言うよ。何も悪くないんだから」


少女は母親の背中へ手を回した。


「じゃあ、どうしてお母さんが泣くの?」


母親は答えられなかった。


本当のことを話せば、娘はもっと怖がるかもしれない。


しかし、何も知らないまま時間が過ぎていくことも、残酷に思えた。


「……あなたが大切だからよ」


ようやく、それだけを口にした。


少女は少し考えてから、母親を強く抱き締めた。


「私も、お母さんが大好き」


母親は目を閉じた。


その小さな温もりを、絶対に失いたくなかった。


*


午前十時四十分。


井出勇気は、白石奈々の机の前に立っていた。


昨日と同じように、書類と筆記用具が置かれている。卓上カレンダーには、年末の予定が書き込まれていた。


何も変わっていない。


ただ、奈々だけがいなかった。


「……井出」


背後から小用卓が声をかけてきた。


「大丈夫か?」


「……うん」


「全然大丈夫そうに見えねえけど」


卓は奈々の机へ視線を向けた。


「俺も、まだ信じられねえよ」


勇気は頷いた。


二人の間に沈黙が流れた。


やがて卓が口を開いた。


「なあ、井出。昨日、俺たちがもっと何かできてたら、白石さんは助かったのかな」


勇気はすぐに答えられなかった。


自分も同じことを考えていたからだ。


「……分からない」


勇気は静かに答えた。


「でも、何か方法があったんじゃないかって、ずっと考えてる」


卓は俯いた。


「そうだよな……」


勇気は奈々の机を見つめた。


もう二度と、彼女がここへ戻ってくることはない。


その事実を受け入れようとするたび、胸が苦しくなった。


「……卓」


「何だ?」


「僕、もっと調べようと思う」


卓は顔を上げた。


「何を?」


「このシステムのこと。何が善行と判定されるのか、どうすれば数字が変わるのか」


勇気は奈々の机へ視線を戻した。


「もう、白石さんみたいな人を見たくないんだ」


卓はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「……そうだな」


その声には、以前のような明るさはなかった。


*


午後一時。


母親は娘の隣に座り、スマートフォンの画面を見つめていた。


朝から調べ続けても、確実な回復方法は見つからない。


娘は隣で絵を描いていた。


色鉛筆を握り、白い紙に二人の人間を描いている。


「お母さん、見て!」


少女が紙を差し出した。


そこには、二人が手をつないでいる絵が描かれていた。


「これが私で、こっちがお母さん!」


母親は笑顔を作った。


「上手だね」


「でしょ!」


少女は嬉しそうに笑った。


「ここ、見て。お母さんの手、ちゃんと私とつないでるんだよ」


母親は絵を見つめた。


二人の手は、少し大きく描かれていた。


「どうして手を大きくしたの?」


母親が尋ねると、少女は得意そうに答えた。


「だって、離れないように!」


母親は息を呑んだ。


「……そう」


「お母さん、いつも手をつないでくれるでしょ。だから、絵でもずっと一緒なの」


少女は色鉛筆を持ち直した。


「大きくなったら、今度は私がお母さんの手を引いてあげるね」


母親は返事ができなかった。


大きくなったら。


また、その言葉だった。


娘には、まだ未来があるはずなのだ。


学校へ行き、友達と遊び、好きな仕事を見つける。


恋をするかもしれない。


家族を持つかもしれない。


いつか、自分の知らない世界へ歩いていくのかもしれない。


その未来を、たった一つの数字が奪おうとしている。


母親は娘の手を握った。


「……ねえ」


「なあに?」


「もし、お母さんがあなたを助けられるとしたら……」


少女が顔を上げた。


「助ける?」


「うん。あなたが怖い思いをしなくて済む方法があるなら、お母さんは何でもしたい」


少女は少し考えた。


そして、笑顔で答えた。


「じゃあ、ずっと一緒にいて!」


母親は息を呑んだ。


「……うん」


「約束だよ?」


少女は小指を差し出した。


母親は震える手で、その小指に自分の指を絡めた。


「……約束」


その瞬間、母親の目から涙がこぼれた。


少女は不思議そうに首を傾げた。


「お母さん、どうして泣いてるの?」


母親は首を横に振った。


「……嬉しいからだよ」


そう答えながら、娘を強く抱き締めた。


そのときだった。


母親の視界に、見慣れない表示が現れた。


《ポイント譲渡》


母親は息を止めた。


「……え?」


表示の下に、新しい文章が浮かび上がる。


《自身のメーター残高を、他者へ譲渡できます》


母親は目を見開いた。


何度も文章を読み返す。


他者へ譲渡できる。


自分のポイントを、娘へ渡せるということだろうか。


母親は震える手で、自分のメーターを確認した。


そして、娘の顔を見た。


「……助けられる」


声が漏れた。


「助けられるかもしれない……!」


少女は驚いたように母親を見つめた。


「お母さん?」


母親は娘の手を握った。


「大丈夫。お母さんが、あなたを助けるから」


しかし、次の瞬間。


母親の視界に、さらに小さな文字が浮かび上がった。


《譲渡条件を確認してください》


母親は息を呑んだ。


条件。


ただ数字を渡せばいいわけではないのだろうか。


画面の下には、まだ開かれていない項目があった。


母親はそこへ視線を向けた。


娘は何も知らず、母親の手を握っている。


「お母さん、助かるの?」


その問いに、母親はすぐに答えられなかった。


娘を助けられるかもしれない。


しかし、どんな代償が必要なのか、まだ分からない。


母親は震える手を握り締めた。


そして、娘の顔を見つめた。


「……お母さんが、何とかするから」


少女は安心したように笑った。


その笑顔を見た瞬間、母親の迷いは少しずつ消えていった。


自分に何が起きても、この子だけは守りたい。


母親は再び、目の前の表示へ視線を戻した。


《譲渡条件を確認してください》


その文字の向こうに、娘を救う方法がある。


しかし同時に、自分が何かを失う可能性もある。


母親は深く息を吸った。


娘を救うためなら、どんな代償でも受け入れられるのか。


その答えを出す瞬間が、迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。