第12話 ポイント譲渡
十二月六日、午前七時二十分。
「お母さん、今日も学校に行っちゃ駄目なの?」
朝食のテーブルで、少女が尋ねた。
母親は返事をする前に、娘の顔を見つめた。まだ寝癖の残る髪に、少し大きめのパジャマ。いつもなら朝食を急いで食べ、ランドセルを背負って玄関へ走っていく時間だった。
「……今日は、お休みしようね」
「でも、先生が昨日のプリントを持ってきてって言ってたよ」
「学校にはお母さんから連絡しておくから。今日は家でゆっくりしよう」
少女は少し不満そうに唇を尖らせた。
「またお休み? みんなに置いていかれちゃうよ」
母親は無理に笑顔を作った。
「大丈夫。勉強は一緒にできるから」
「お母さん、算数苦手じゃん」
「……そうだったね」
思わず笑ってしまった。
娘は得意そうに胸を張った。
「この前だって、私の方が先に答え分かったもん」
「そうね。お母さんより先生に向いてるかもしれないね」
「じゃあ、大きくなったら先生になろうかな」
少女は楽しそうに笑った。
母親は、その笑顔を見つめた。
大きくなったら。
その言葉が、胸に突き刺さった。
娘には、まだ何年もの未来があるはずだった。
友達と遊び、勉強して、好きなことを見つけていく。失敗することも、誰かと喧嘩することもあるだろう。
それでも、そんな当たり前の日々を過ごしてほしかった。
しかし、娘の視界には今、《0》という数字が浮かんでいる。
昨日、誰かを助けたことでメーターが0になった。
そして、二十四時間以内に回復できなければ処刑される。
母親は時計を見た。
残された時間は、もう長くなかった。
「お母さん?」
少女の声で、母親は我に返った。
「どうしたの? また泣いてる」
「……ううん。ちょっと眠くて」
「昨日も眠れなかったの?」
母親は返事に詰まった。
昨夜はほとんど眠っていない。
娘が寝息を立てるたびに、その呼吸を確かめていた。夜中に何度も目を覚まし、隣で眠る小さな身体に手を伸ばした。
まだ生きている。
そう確認しなければ、怖くて目を閉じられなかった。
「大丈夫よ。お母さんは元気だから」
少女はじっと母親を見つめた。
「……嘘つき」
母親は驚いた。
「え?」
「元気なときは、そんな顔しないもん」
少女はスープを一口飲んでから、小さく続けた。
「私、何か悪いことした?」
母親の手が止まった。
「どうして?」
「だって、学校にも行けないし、お母さんもずっと泣いてるし……」
少女は俯いた。
「数字が0になったから?」
母親は椅子から立ち上がり、娘の隣へ移動した。
「違うよ」
小さな身体を抱き締める。
「あなたは何も悪くない。絶対に悪くないから」
「でも、0になったら犯罪者なんでしょ?」
少女の声が震えた。
「テレビで言ってたよ。犯罪者は悪い人だって」
母親は唇を噛んだ。
「……そうね。普通は、悪いことをした人が犯罪者って呼ばれるの」
「じゃあ、私も悪い子なの?」
「違う!」
思わず強い声が出た。
少女がびくりと身体を震わせる。
母親は慌てて首を振った。
「ごめんね。怒ったんじゃないの」
娘の頬に触れ、ゆっくりと言い聞かせた。
「あなたは優しい子よ。困っている人を助けたんでしょう? それは間違ったことじゃない」
少女は母親の服を握り締めた。
「……本当?」
「本当よ」
母親は何度も頷いた。
しかし、その言葉を口にするたび、胸の奥が苦しくなった。
娘の優しさを誇りに思っている。
それなのに、その優しさが娘の命を奪おうとしている。
母親は小さな背中を撫でながら、涙がこぼれないように必死で堪えた。
*
午前九時十分。
母親はスマートフォンを握り締め、何度目かの電話をかけていた。
「お願いします。娘を助ける方法を知りたいんです」
電話の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。
『現在、確実な回復方法は確認できておりません』
「でも、まだ子供なんです。何も悪いことをしていないんですよ!」
『お気持ちは分かりますが……』
「分かるなら、助けてください!」
思わず声が大きくなった。
隣の部屋から物音がして、母親は慌てて口を閉じた。
娘に聞かれたかもしれない。
そう思うと、胸が締めつけられた。
「……すみません」
母親は声を落とした。
「何か分かったら、教えてください。お願いします」
電話を切ると、テーブルへスマートフォンを置いた。
朝から何度も問い合わせている。
政府の相談窓口。
病院。
善悪逆転システムについて調査している機関。
しかし、どこからも確実な答えは得られなかった。
母親は両手で顔を覆った。
娘に悪いことをさせれば、数字が増えるかもしれない。
そんな情報は、すでに知っている。
しかし、何をすれば何ポイント増えるのか分からないうえ、娘に誰かを傷つけることを教えるなど、どうしてもできなかった。
「……どうすればいいの」
そのとき、隣の部屋から娘が顔を出した。
「お母さん?」
母親は慌てて顔を上げた。
「なあに?」
「お仕事の電話?」
「……ううん。ちょっと聞きたいことがあっただけ」
少女は母親の隣へやってきた。
「私の数字のこと?」
母親は返事ができなかった。
少女は小さく息を吐いた。
「もう、いいよ」
「え?」
「お母さん、ずっと大変そうだから」
母親は娘を見つめた。
少女は無理に笑っていた。
「私、悪い子にならないようにするから。だから、もう泣かないで」
その言葉を聞いた瞬間、母親の目から涙がこぼれた。
「……違うの」
娘を抱き寄せる。
「あなたは悪い子じゃない。何度でも言うよ。何も悪くないんだから」
少女は母親の背中へ手を回した。
「じゃあ、どうしてお母さんが泣くの?」
母親は答えられなかった。
本当のことを話せば、娘はもっと怖がるかもしれない。
しかし、何も知らないまま時間が過ぎていくことも、残酷に思えた。
「……あなたが大切だからよ」
ようやく、それだけを口にした。
少女は少し考えてから、母親を強く抱き締めた。
「私も、お母さんが大好き」
母親は目を閉じた。
その小さな温もりを、絶対に失いたくなかった。
*
午前十時四十分。
井出勇気は、白石奈々の机の前に立っていた。
昨日と同じように、書類と筆記用具が置かれている。卓上カレンダーには、年末の予定が書き込まれていた。
何も変わっていない。
ただ、奈々だけがいなかった。
「……井出」
背後から小用卓が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「……うん」
「全然大丈夫そうに見えねえけど」
卓は奈々の机へ視線を向けた。
「俺も、まだ信じられねえよ」
勇気は頷いた。
二人の間に沈黙が流れた。
やがて卓が口を開いた。
「なあ、井出。昨日、俺たちがもっと何かできてたら、白石さんは助かったのかな」
勇気はすぐに答えられなかった。
自分も同じことを考えていたからだ。
「……分からない」
勇気は静かに答えた。
「でも、何か方法があったんじゃないかって、ずっと考えてる」
卓は俯いた。
「そうだよな……」
勇気は奈々の机を見つめた。
もう二度と、彼女がここへ戻ってくることはない。
その事実を受け入れようとするたび、胸が苦しくなった。
「……卓」
「何だ?」
「僕、もっと調べようと思う」
卓は顔を上げた。
「何を?」
「このシステムのこと。何が善行と判定されるのか、どうすれば数字が変わるのか」
勇気は奈々の机へ視線を戻した。
「もう、白石さんみたいな人を見たくないんだ」
卓はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……そうだな」
その声には、以前のような明るさはなかった。
*
午後一時。
母親は娘の隣に座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
朝から調べ続けても、確実な回復方法は見つからない。
娘は隣で絵を描いていた。
色鉛筆を握り、白い紙に二人の人間を描いている。
「お母さん、見て!」
少女が紙を差し出した。
そこには、二人が手をつないでいる絵が描かれていた。
「これが私で、こっちがお母さん!」
母親は笑顔を作った。
「上手だね」
「でしょ!」
少女は嬉しそうに笑った。
「ここ、見て。お母さんの手、ちゃんと私とつないでるんだよ」
母親は絵を見つめた。
二人の手は、少し大きく描かれていた。
「どうして手を大きくしたの?」
母親が尋ねると、少女は得意そうに答えた。
「だって、離れないように!」
母親は息を呑んだ。
「……そう」
「お母さん、いつも手をつないでくれるでしょ。だから、絵でもずっと一緒なの」
少女は色鉛筆を持ち直した。
「大きくなったら、今度は私がお母さんの手を引いてあげるね」
母親は返事ができなかった。
大きくなったら。
また、その言葉だった。
娘には、まだ未来があるはずなのだ。
学校へ行き、友達と遊び、好きな仕事を見つける。
恋をするかもしれない。
家族を持つかもしれない。
いつか、自分の知らない世界へ歩いていくのかもしれない。
その未来を、たった一つの数字が奪おうとしている。
母親は娘の手を握った。
「……ねえ」
「なあに?」
「もし、お母さんがあなたを助けられるとしたら……」
少女が顔を上げた。
「助ける?」
「うん。あなたが怖い思いをしなくて済む方法があるなら、お母さんは何でもしたい」
少女は少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
「じゃあ、ずっと一緒にいて!」
母親は息を呑んだ。
「……うん」
「約束だよ?」
少女は小指を差し出した。
母親は震える手で、その小指に自分の指を絡めた。
「……約束」
その瞬間、母親の目から涙がこぼれた。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「お母さん、どうして泣いてるの?」
母親は首を横に振った。
「……嬉しいからだよ」
そう答えながら、娘を強く抱き締めた。
そのときだった。
母親の視界に、見慣れない表示が現れた。
《ポイント譲渡》
母親は息を止めた。
「……え?」
表示の下に、新しい文章が浮かび上がる。
《自身のメーター残高を、他者へ譲渡できます》
母親は目を見開いた。
何度も文章を読み返す。
他者へ譲渡できる。
自分のポイントを、娘へ渡せるということだろうか。
母親は震える手で、自分のメーターを確認した。
そして、娘の顔を見た。
「……助けられる」
声が漏れた。
「助けられるかもしれない……!」
少女は驚いたように母親を見つめた。
「お母さん?」
母親は娘の手を握った。
「大丈夫。お母さんが、あなたを助けるから」
しかし、次の瞬間。
母親の視界に、さらに小さな文字が浮かび上がった。
《譲渡条件を確認してください》
母親は息を呑んだ。
条件。
ただ数字を渡せばいいわけではないのだろうか。
画面の下には、まだ開かれていない項目があった。
母親はそこへ視線を向けた。
娘は何も知らず、母親の手を握っている。
「お母さん、助かるの?」
その問いに、母親はすぐに答えられなかった。
娘を助けられるかもしれない。
しかし、どんな代償が必要なのか、まだ分からない。
母親は震える手を握り締めた。
そして、娘の顔を見つめた。
「……お母さんが、何とかするから」
少女は安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、母親の迷いは少しずつ消えていった。
自分に何が起きても、この子だけは守りたい。
母親は再び、目の前の表示へ視線を戻した。
《譲渡条件を確認してください》
その文字の向こうに、娘を救う方法がある。
しかし同時に、自分が何かを失う可能性もある。
母親は深く息を吸った。
娘を救うためなら、どんな代償でも受け入れられるのか。
その答えを出す瞬間が、迫っていた。




