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善人が裁かれる日 ~人を救えば死刑、悪人ほど生き残る世界~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第13話 十秒間、手を離すな

十二月六日、午後一時五分。


娘に残された時間を確認した瞬間、母親の指が震えた。


あと数時間。


昨日から何度も見ている数字なのに、減っていく時間を目にするたび、胸が締めつけられる。


テーブルの向こうでは、娘が色鉛筆を並べていた。赤、青、黄色。短くなった鉛筆を一本ずつ箱から取り出し、どれを使おうかと真剣に悩んでいる。


「お母さん、見て。これ、まだ使えるよ」


少女が短い赤鉛筆を掲げた。


「そうね。大事に使おうね」


母親は笑顔を作った。


その子が明日も同じように絵を描けるのか、分からなかった。


朝から相談窓口へ電話をかけ続けた。病院にも問い合わせ、インターネットで見つけた情報も片っ端から確認した。


しかし、娘を確実に救う方法は見つからない。


悪行によって数字を増やせることは知っている。それでも、幼い娘に誰かを傷つけさせるなど、どうしてもできなかった。


母親は自分の視界に浮かぶ数字を確認した。


《100》


娘は0。


自分には、まだ百ポイントある。


この数字を分けられたら。


何度そう考えたか分からない。


しかし、これまで調べた情報の中に、そんな方法はなかった。


そのとき、母親の視界に見慣れない文字が現れた。


《ポイント譲渡》


「……え?」


思わず声が漏れた。


表示の下には、さらに文章が続いていた。


《自身のメーター残高を、他者へ譲渡できます》


母親は息を止めた。


何度も読み返す。


自分のポイントを、娘へ渡せる。


本当にそんなことができるのだろうか。


「お母さん?」


少女が顔を上げた。


「どうしたの?」


母親は娘を見つめた。


「……助けられるかもしれない」


「助ける?」


「うん。あなたの数字を増やせるかもしれないの」


少女は少し考えてから、自分の視界を確認した。


「私のゼロが、増えるの?」


「そう。お母さんの数字を分けてあげられるかもしれない」


少女の表情が明るくなった。


「じゃあ、もう怖くなくなる?」


母親はすぐに答えられなかった。


まだ、譲渡の条件を確認していない。


成功する保証もない。


それでも、初めて見つけた希望を手放したくなかった。


「……今から調べるね」


母親は震える手を握り締め、表示された条件の項目へ意識を向けた。


*


《ポイント譲渡条件》


《譲渡者と受領者が直接接触すること》


《接触状態を10秒間維持すること》


《譲渡が完了するまで接触を解除しないこと》


《譲渡ポイントは譲渡者の残高から減算され、受領者の残高へ加算されます》


母親は文章を一つずつ確認した。


娘の手を握り、十秒間離さなければいい。


それならできる。


しかし、最後の条件を読んだところで、指が止まった。


渡したポイントは、自分の残高から失われる。


もし百ポイントすべてを渡せば、自分が0になる。


その場合、今度は自分が犯罪者として認定される可能性がある。


母親は、九条重光の処刑映像を思い出した。


百人の警備員に守られながら、命を奪われた男。


あの黒い人影が、今度は自分の前に現れるかもしれない。


背筋が冷たくなった。


自分が死ねば、娘はどうなるのだろう。


学校から帰ってきたとき、誰が迎えてくれるのか。


熱を出した夜、誰がそばにいてくれるのか。


娘には、これからも母親が必要だった。


「……全部は渡せない」


母親は小さく呟いた。


娘を救いたい。


しかし、自分まで死ぬわけにはいかない。


その二つの思いが、胸の中でぶつかり合った。


母親はもう一度、自分の数字を確認した。


《100》


半分なら。


五十ポイントなら、娘へ渡しても自分の残高は50になる。


娘も50になれば、少なくとも今すぐ0になる危険からは離れられる。


母親は譲渡する数字を指定した。


《譲渡予定 50ポイント》


《譲渡後残高 譲渡者50/受領者50》


計算は合っている。


しかし、母親はすぐに実行できなかった。


今の百ポイントでさえ、絶対に安全とは言えない。


これから誰かを助ければ、また減点されるかもしれない。病気の人を看病することも、困っている人に手を差し伸べることも、危険な行為になっている。


五十ポイントを失えば、自分もそれだけ死に近づく。


母親は娘を見た。


少女は絵を描き終えたらしく、満足そうに紙を持ち上げていた。


「お母さん、できた!」


そこには、二人が手をつないでいる絵が描かれていた。


「これが私で、こっちがお母さん!」


母親は紙を受け取った。


二人の手は、身体に比べて少し大きく描かれている。


「どうして手を大きくしたの?」


少女は得意そうに答えた。


「離れないように!」


母親は息を呑んだ。


「大きくなったら、今度は私がお母さんの手を引いてあげるね」


その言葉を聞いた瞬間、迷いが消えた。


この子には、明日が必要だ。


学校へ行く明日も、友達と遊ぶ明日も、大人になる未来も。


母親は絵をそっとテーブルへ置いた。


「……ねえ、お願いがあるの」


「なあに?」


「これからお母さんが手を握るから、十秒間だけ離さないでくれる?」


少女は笑った。


「そんなの簡単だよ!」


「途中で離したら、最初からやり直しになるかもしれないの。だから、絶対に離さないでね」


「うん!」


母親は娘の小さな手を両手で包み込んだ。


何度も握ってきた手だった。


転びそうになったときも、初めて学校へ行った日も、眠れない夜も。


いつだって、この手を握ってきた。


「お母さん」


「どうしたの?」


「数字をもらったら、また学校に行ける?」


母親は涙を堪えながら頷いた。


「……うん」


「お友達とも遊べる?」


「もちろん」


「じゃあ、今度のお休みは公園に行こうね!」


少女は嬉しそうに笑った。


母親はその笑顔を見つめた。


「……約束よ」


そして、譲渡の実行を決めた。


*


同じ頃。


井出勇気は会社の休憩スペースで、白石奈々の机を見つめていた。


彼女が亡くなってから、一日も経っていない。


机の上には、使いかけの筆記用具と卓上カレンダーが残されている。


昨日まで、奈々はここにいた。


仕事をして、笑って、困ったときには相談してきた。


その日常が、突然終わってしまった。


「……井出」


背後から小用卓が声をかけてきた。


「まだここにいたのか」


「うん。ちょっと考え事をしてた」


卓は奈々の席へ視線を向けた。


「……そうか」


しばらく沈黙が続いた。


勇気はスマートフォンを手に取った。


昨夜から、善悪逆転システムについて調べ続けていた。


しかし、分からないことばかりだった。


「卓、もしさ」


「何だ?」


「白石さんを助ける方法が、僕たちの知らないところにあったとしたら、どう思う?」


卓は眉をひそめた。


「どういう意味だよ」


「まだ分かってないことが多すぎるんだ。メーターの判定も、DoAの正体も、何もかも」


勇気は自分の数字を確認した。


《99》


奈々を救おうとしても、変化しなかった数字。


あの二十四時間の間、自分たちは必死に情報を探した。


しかし、調べられることには限界があった。


「だから、もっと調べたいんだ。白石さんみたいな人が、また出てくる前に」


卓はしばらく黙っていた。


「……お前、すげえな」


「え?」


「俺なんか、まだ昨日のことを考えるだけで嫌になるのに」


卓は椅子へ腰を下ろした。


「でも、そうだよな。知らないままじゃ、また同じことになる」


勇気は頷いた。


「うん」


卓は奈々の机へ視線を向けた。


「……俺も、少しは考えてみるよ」


勇気は小さく頷いた。


二人はまだ知らなかった。


今この瞬間にも、どこかで新しい方法を探し、誰かを救おうとしている人間がいることを。


そして、その方法が明らかになれば、世界は再び大きく変わることになる。


*


午後一時十二分。


母親は娘の手を握ったまま、深く息を吸った。


《譲渡予定 50ポイント》


《譲渡後残高 譲渡者50/受領者50》


何度確認しても、数字は変わらなかった。


「お母さん、まだ始めないの?」


少女が尋ねた。


「……うん。今からね」


母親は最後に、娘の顔を見つめた。


もし失敗したら。


もし、条件を満たせなかったら。


そう考えると、手が震えた。


しかし、残された時間を思えば、いつまでも迷ってはいられない。


「絶対に、手を離さないでね」


「うん!」


少女は元気よく答えた。


母親は譲渡を実行した。


《接触確認》


《譲渡開始》


《残り10秒》


視界に数字が現れた。


母親は娘の手を強く握った。


秒数が減り始める。


少女は母親の顔を見つめていた。


「お母さん、何か始まったの?」


「うん。もう少しだからね」


母親はできる限り穏やかな声で答えた。


十秒。


たった十秒だった。


しかし、母親にはひどく長く感じられた。


娘の手の温もりが、はっきりと伝わってくる。


残り五秒。


母親は祈るような気持ちで、その小さな手を包み込んでいた。


そのとき、玄関の方から物音が響いた。


続いて、扉を叩く音。


「……誰?」


少女が顔を上げた。


母親も一瞬だけ玄関へ視線を向けた。


こんな時間に、誰だろう。


宅配便だろうか。


それとも、近所の人だろうか。


しかし、今は確かめている余裕がない。


「大丈夫。今は手を離さないで」


母親は娘へ言い聞かせた。


残り三秒。


再び、扉が叩かれた。


今度は先ほどより強い音だった。


少女がびくりと身体を震わせる。


母親は娘の手を握り直した。


「もう少しだから……!」


残り二秒。


一秒。


そして。


《接触維持 10秒達成》


《ポイント譲渡完了》


母親は息を止めた。


視界の数字が変化する。


《譲渡者残高 50》


《受領者残高 50》


「……できた」


声が漏れた。


「できた……!」


少女が不思議そうに母親を見上げた。


「お母さん?」


母親は娘を抱き締めた。


「助かったの……!」


涙が溢れた。


「あなた、助かったのよ……!」


少女は驚いたように目を見開いた。


「本当?」


「本当よ!」


母親は何度も頷いた。


娘の数字は、もう0ではない。


それだけで、胸がいっぱいになった。


「じゃあ、学校に行ける?」


少女が尋ねた。


母親は涙を拭いながら笑った。


「ええ。行けるわ」


「公園も?」


「もちろん!」


少女は嬉しそうに笑った。


母親は娘を抱き締めたまま、何度もその背中を撫でた。


しかし、そのとき。


玄関の扉が、再び強く叩かれた。


「……誰?」


少女が母親を見上げた。


母親はゆっくりと顔を上げた。


さっきから何度も扉を叩いている。


普通の訪問者なら、ここまで強く叩くだろうか。


母親は娘を自分の後ろへ下がらせた。


「ここにいてね」


「お母さん……?」


「大丈夫。すぐ戻るから」


母親は玄関へ向かった。


扉の向こうには、誰かが立っている気配があった。


「……どちら様ですか?」


返事はなかった。


母親は息を呑んだ。


しばらくして、低い男の声が聞こえた。


「……終わったか?」


母親の背筋に、冷たいものが走った。


何が終わったのか。


なぜ、この男はそんなことを尋ねるのか。


母親は扉から一歩離れた。


そのとき、男が続けた。


「……五十ポイント、渡したんだろ?」


母親は凍りついた。


どうして、この男は譲渡した数字まで知っているのか。

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