第14話 50ポイントを知る男
十二月六日、午後一時十五分。
「……五十ポイント、渡したんだろ?」
玄関の扉越しに聞こえた男の言葉に、母親は息を呑んだ。
娘へのポイント譲渡が成功してから、まだ三分ほどしか経っていない。自分のメーターは100から50へ減り、娘は0から50へ回復した。
その数字を、なぜ見知らぬ男が知っているのか。
母親は反射的に扉から離れ、鍵がかかっていることを確認した。
「……どちら様ですか?」
「少し話を聞きたいだけです」
男の声は落ち着いていた。
しかし、名乗ろうとはしない。
「何についてですか?」
「娘さんのことです。数字が0になっていたんでしょう?」
母親の背筋に冷たいものが走った。
娘が犯罪者認定されたことは、近所の人にも話していない。相談窓口には連絡したが、そこでも必要なことしか説明していなかった。
まして、五十ポイントを譲渡したことなど、誰にも伝えていない。
「どうして知っているんですか?」
「それを含めて、お話ししたいんです」
「先にお名前を教えてください」
扉の向こうが静かになった。
母親はスマートフォンを握り締めた。
必要なら、すぐに警察へ電話するつもりだった。
しばらくして、男が口を開いた。
「……分かりました。今日は帰ります」
廊下に足音が響いた。
母親は息を潜め、音が遠ざかるのを待った。しかし、完全に聞こえなくなっても、扉を開ける気にはなれなかった。
「お母さん?」
振り返ると、娘が廊下の入り口に立っていた。
「さっきの人、誰?」
「……知らない人よ。お家を間違えたのかもしれないね」
「怒ってた?」
「大丈夫。もう帰ったから」
母親は娘のそばへ歩み寄り、しゃがんで目線を合わせた。
「今日は知らない人が来ても、絶対に扉を開けないでね」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「いつも開けちゃ駄目って言ってるじゃん」
「……そうだったね」
母親は小さく笑った。
娘は何も知らない。
自分たちが、どれほど奇妙な出来事に巻き込まれているのか。
ようやく命を救えたというのに、今度は見知らぬ男が現れた。
母親は娘を抱き締めた。
「今日は、お母さんのそばにいてね」
「うん!」
少女は嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見て、母親は改めて思った。
この子だけは、絶対に守らなければならない。
*
午後一時三十分。
母親は警察の相談窓口へ電話をかけた。
「知らない男性が自宅に来て、娘のメーターについて聞かれたんです」
担当者は落ち着いた声で事情を確認した。
『男性は、お名前や所属を名乗りましたか?』
「いいえ。何度聞いても答えてくれませんでした」
『脅迫や暴力はありましたか?』
「それはありません。でも、娘の数字を知っていたんです」
母親は唇を噛んだ。
「それに、私が娘へ渡したポイント数まで……」
電話の向こうで、担当者が言葉を止めた。
『……ポイントを渡した、というのは?』
母親は一瞬、戸惑った。
「自分のメーターから、娘へ五十ポイントを渡したんです」
『他人へポイントを移せたということですか?』
「はい。娘は0だったんですが、今は50になっています」
担当者は少し待つように告げた。
保留音が流れる。
母親はスマートフォンを耳に当てたまま、娘の方を見た。
少女はテーブルに戻り、先ほどの絵に色を塗っている。
二人が手をつないでいる絵だった。
あの絵を描いていたとき、娘はまだメーター0だった。
それが今は50になっている。
たった十秒間、手を握っただけで。
母親はその事実を、改めて不思議に思った。
しばらくして、担当者が戻ってきた。
『お待たせしました。詳しい状況を確認させてください』
母親は頷いた。
「はい」
『ポイントの移動は、どのような操作で行われましたか?』
母親は覚えている限りのことを説明した。
突然《ポイント譲渡》という表示が現れたこと。
条件を確認すると、相手と直接接触し、十秒間その状態を維持する必要があったこと。
五十ポイントを指定し、娘の手を握って実行したこと。
そして、母親の数字が50へ減り、娘の数字が50へ増えたこと。
担当者は一つひとつ確認しながら、記録を取っているようだった。
『娘さんの数字は、現在も50ですか?』
母親は娘へ声をかけた。
「ねえ、今の数字はいくつ?」
少女は色鉛筆を置き、視界を確認した。
「五十だよ!」
母親は電話へ向き直った。
「……はい。変わっていません」
『ありがとうございます。非常に重要な情報です』
その言葉に、母親は胸がざわついた。
「ほかの人は、まだ知らないんですか?」
『少なくとも、こちらでは十分に確認できていない情報です』
母親は娘を見つめた。
「……だったら、早く知らせてください」
『え?』
「娘と同じように、メーターが0になっている人がいるんですよね?」
担当者は黙っていた。
「その人たちにも、家族がいるはずです。助けたいと思っている人がいるはずなんです」
母親の声が震えた。
「お願いします。私たちのことは、どう使っていただいても構いません。だから、助かる方法があるって、早く知らせてください」
『……分かりました。いただいた情報は、担当部署へ報告します』
母親は深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
電話を切った後も、しばらくその場から動けなかった。
娘は助かった。
しかし、世界にはまだ、同じように苦しんでいる人がいる。
その人たちにも、間に合ってほしかった。
*
同じ頃。
都内の一室で、一ノ瀬雅臣は電話を受けていた。
「……そうか」
相手の報告を聞きながら、机の上に置かれた資料へ視線を落とす。
「母親の数字が減って、娘の数字が増えたんだな?」
『はい。五十ポイントの移動が確認されています』
一ノ瀬は椅子の背もたれに身体を預けた。
「方法は?」
『聞き出せませんでした。母親は警戒していて、扉も開けませんでした』
「無理に接触する必要はない」
一ノ瀬は落ち着いた声で答えた。
「重要なのは、ポイントが人から人へ移動したという事実だ」
電話の向こうで、相手が何かを確認していた。
『では、引き続き監視しますか?』
「いや。今はそれより、仕組みを調べろ」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「同じことがほかの人間にもできるのか。それが分かれば十分だ」
『承知しました』
通話が切れた。
一ノ瀬は窓の外を見つめた。
九条重光の処刑以来、富裕層からの問い合わせが増えていた。
どうすれば数字を守れるのか。
悪行以外に回復する方法はないのか。
金はいくらでも払うから、安全な方法を探してほしい。
そんな依頼が、次々と届いていた。
しかし、これまでは確実な方法がなかった。
悪行によって数字が増えることは知られていたが、誰もが自分で犯罪を起こせるわけではない。
ところが今、他人からポイントを受け取れる可能性が出てきた。
一ノ瀬は小さく笑った。
「……なるほどな」
もし、この仕組みを自由に利用できるとしたら。
金を持つ人間は、自分で危険を冒さずにメーターを回復できるかもしれない。
そして、ポイントを渡す側には、それ相応の見返りを求める人間も現れるだろう。
一ノ瀬はスマートフォンを手に取った。
久世隆臣へ連絡を入れる。
「久世か。少し面白い情報が入った」
『何だ?』
「他人へポイントを渡せるらしい」
電話の向こうが静かになった。
『……本当か?』
「ああ。まだ条件は分からないが、実際に数字が移動した」
久世はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答えた。
『それが本当なら、状況が変わるな』
「そういうことだ」
一ノ瀬は窓の外へ視線を向けた。
「まずは確認だ。急いで動く必要はない」
『分かった』
通話が終わった。
一ノ瀬は再び資料を開いた。
そこには、九条の処刑以降に寄せられた問い合わせが並んでいる。
資産家。
企業経営者。
多額の財産を持つ人々。
彼らは、自分の命を守るためなら、いくらでも金を払うと言っていた。
一ノ瀬は資料を一枚ずつ確認しながら、静かに呟いた。
「……欲しがる人間は、いくらでもいる」
*
午後二時十分。
井出勇気は会社の休憩スペースで、スマートフォンを見つめていた。
白石奈々が亡くなってから、まだ一日も経っていない。
彼女の机には、使いかけの筆記用具が残されている。
勇気はそれを片づけることができずにいた。
「……井出」
小用卓が入ってきた。
「まだ調べてるのか?」
「うん。何か方法があったんじゃないかって思って」
卓は椅子へ腰を下ろした。
「昨日から、ずっとそればっかりだな」
「……そうだね」
勇気は小さく笑った。
しかし、その笑顔には力がなかった。
「白石さんを助けられなかったこと、まだ考えてる」
卓は黙って聞いていた。
「もし、僕たちが知らなかっただけで、何か方法があったとしたら……」
勇気はそこで言葉を止めた。
自分でも、何を言いたいのか分からなくなっていた。
奈々はもう戻ってこない。
どんな方法が見つかったとしても、彼女を救うことはできない。
それでも、考えずにはいられなかった。
「……井出」
卓が静かに言った。
「お前、自分を責めすぎなんじゃないか」
勇気は首を横に振った。
「そうじゃないよ。ただ……」
そのとき、スマートフォンが震えた。
ニュース速報だった。
『善悪逆転システムに関する新たな情報』
勇気は画面を開いた。
そこには、見慣れない言葉が表示されていた。
《ポイント譲渡》
「……え?」
勇気は思わず声を漏らした。
卓が顔を上げる。
「どうした?」
勇気は記事を読み進めた。
『本日、ある親子の間でメーター残高の移動が確認されたとの情報が入りました』
勇気の指が止まった。
『母親が自身のポイントを娘へ渡し、メーター0だった娘の残高が回復したとされています』
「……嘘だろ」
勇気は画面を見つめた。
他人へポイントを渡せる。
そんな方法が、存在していたのか。
「井出?」
卓が声をかけた。
勇気は答えられなかった。
記事には、さらに詳しい情報が続いていた。
『譲渡には一定の条件が必要とみられ、現在、関係機関が確認を進めています』
勇気はスマートフォンを握り締めた。
もし、この方法を昨日知っていたら。
もし、奈々が生きている間に知ることができていたら。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸が締めつけられた。
「……白石さん」
声が漏れた。
卓も記事を覗き込んだ。
「……何だよ、これ」
勇気は画面から目を離せなかった。
ポイントを譲渡できる。
他人の命を救える。
そんな方法が、本当に存在していた。
しかし、奈々はもういない。
勇気は両手で顔を覆った。
「……あと一日、早ければ」
その言葉を最後まで口にすることはできなかった。
*
同じ日の夕方。
母親は娘の隣で、静かにテレビを見ていた。
画面には、ポイント譲渡についての速報が流れている。
少女は嬉しそうに母親を見上げた。
「お母さん、私たちのこと?」
母親は小さく頷いた。
「……そうかもしれないね」
「じゃあ、ほかの人も助かる?」
その問いに、母親はすぐに答えられなかった。
自分たちは、確かに助かった。
しかし、ポイントを渡す側にも危険がある。
誰もが同じように譲渡できるとは限らない。
それでも、娘と同じように苦しんでいる人がいるなら、助かってほしかった。
「……そうなるといいね」
母親は静かに答えた。
少女は安心したように笑った。
母親は娘の手を握った。
あの十秒間、絶対に離さなかった手。
その温もりを確かめながら、母親はテレビへ視線を戻した。
画面には、ポイント譲渡についての情報が次々と表示されている。
世界中の人々が、新しい仕組みに注目し始めていた。
善悪逆転システムが現れてから、初めて見つかった救済の可能性。
しかし、その仕組みが人々に希望だけをもたらすとは限らない。
他人の命を救うために使えるものは、他人の命を利用するためにも使える。
その事実に気づいた人間たちが、すでに動き始めていた。




