第15話 善意が売り物になる日
十二月七日、午前八時十分。
「あと一日、早く分かっていれば……」
井出勇気は、スマートフォンに表示された記事を見つめていた。
『母親から娘へのポイント譲渡を確認』
昨日から何度も読み返しているニュースだった。
母親が自分のメーターから五十ポイントを渡し、犯罪者認定された娘を救ったという。
その記事を初めて読んだとき、勇気は喜ぶことができなかった。
白石奈々が死んだ翌日だったからだ。
もし、奈々が生きている間にこの方法を知っていたら。
自分の九十九ポイントから、彼女へ少しでも渡すことができていたら。
少なくとも、あの黒い執行者が現れる前に、何かできたかもしれない。
勇気は自分の手を見つめた。
奈々が最後まで握っていた手だった。
あのとき、すでに答えは目の前にあったのかもしれない。
「……何で、知らなかったんだよ」
勇気はスマートフォンを机に置き、両手で顔を覆った。
たった十秒間、手を握るだけだった。
もちろん、譲渡するポイントを失う危険はある。それでも、自分には九十九ポイントが残っていた。
奈々を救うためなら、五十ポイントでも、それ以上でも渡すつもりだった。
少なくとも、あのときはそう思えたはずだ。
だが、もう遅い。
奈々が死んだという事実は、どれだけ後悔しても変わらなかった。
「……井出」
背後から声がした。
振り返ると、小用卓が立っていた。
「また、その記事を見てたのか」
「うん」
卓は勇気の隣へ腰を下ろした。
「俺も読んだよ。母親が娘に五十ポイント渡したってやつだろ」
勇気は頷いた。
卓はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……きついよな」
その言葉に、勇気は顔を上げた。
「白石さんが死んだ次の日に、こんな方法が見つかるなんてさ」
卓は机の上に置かれたスマートフォンを見つめた。
「俺たち、何してたんだろうな」
勇気は答えられなかった。
昨日まで、卓は自分が奈々を見捨てたことを後悔していた。
そして今、助ける方法が存在していたと知ったことで、その後悔はさらに大きくなっているようだった。
「……卓」
「何だ?」
「僕、もう同じことを繰り返したくない」
卓は勇気を見た。
「白石さんみたいに、助けられるかもしれない人が、何も知らないまま死ぬなんて嫌なんだ」
勇気はスマートフォンを手に取った。
「だから、もっと調べたい。このシステムのことも、ポイント譲渡のことも」
卓はしばらく考えてから頷いた。
「……そうだな」
しかし、その表情には、以前のような明るさはなかった。
*
同じ頃。
都内の高級ホテルでは、数人の男たちが非公開の会合を開いていた。
テーブルの中央には、ポイント譲渡に関する記事が表示された端末が置かれている。
「本当に、他人からポイントを受け取れるのか?」
一人の男が尋ねた。
「少なくとも、母親から娘へ五十ポイントが移動したことは確認されているらしい」
別の男が答えた。
「条件は?」
「直接接触して、十秒間その状態を維持すること。それに、譲渡するポイント数を指定する必要がある」
男たちは顔を見合わせた。
九条重光の処刑以来、富裕層の間ではメーターを守る方法が話題になっていた。
厳重な警備でもDoAを防げない。
それなら、数字そのものを増やすしかない。
しかし、悪行によって加点されると分かっていても、社会的地位のある人間が自ら犯罪を起こすことには大きな危険があった。
ところが、ポイント譲渡という仕組みが明らかになったことで、状況は変わった。
「つまり、誰かが譲ってくれれば、自分で悪いことをする必要はないわけだ」
「そういうことになる」
「だったら、譲ってくれる人間を探せばいい」
一人の男が静かに言った。
「もちろん、ただで譲ってもらえるとは思わん。相応の謝礼を払えばいいだろう」
その言葉に、反対する者はいなかった。
「問題は、いくら払えばいいかだな」
「ポイントの価値なんて、まだ誰にも分からないだろう」
「だからこそ、早く動いた方がいい」
男たちの話題は、いつの間にか金額の相談へ変わっていた。
十ポイントなら、いくら。
五十ポイントなら、いくら。
自分の命を守るために、他人の数字を買う。
数日前までなら、誰も考えなかった取引だった。
しかし今、彼らは真剣にその可能性を話し合っていた。
*
午前十時三十分。
一ノ瀬雅臣は、久世隆臣と向かい合っていた。
机の上には、ポイント譲渡に関する情報が並べられている。
「予想以上に反応が早いな」
一ノ瀬が言った。
「昨日の報道から、問い合わせが増えている」
久世は資料を確認した。
「金を払ってでもポイントが欲しいという連中か」
「ああ。九条の処刑を見て、自分たちも安全じゃないと理解したんだろう」
一ノ瀬は椅子の背もたれに身体を預けた。
「金を持っている人間ほど、失うものが多い。命を守れるなら、相当な金額を出すはずだ」
久世は頷いた。
「だが、売る人間がいなければ意味がない」
「そこが問題だ」
一ノ瀬は別の資料を開いた。
そこには、生活に困窮している人々についての情報がまとめられていた。
多重債務者。
住む場所を失った人々。
仕事を失い、収入のない人々。
「こういう人間なら、金を必要としている」
久世が言った。
「ただし、自分のポイントを減らす危険は理解しているだろう。簡単には売らないはずだ」
「だから、条件を考える必要がある」
一ノ瀬は落ち着いた声で答えた。
「相手が納得する金額を提示する。まずは、それで反応を見る」
久世は資料を閉じた。
「それで売らなかったら?」
一ノ瀬は少し考えてから答えた。
「……そのときは、別の方法を考える」
久世は何も言わなかった。
二人の間に、短い沈黙が流れた。
善悪逆転システムが現れる以前から、彼らは困窮した人々を利用してきた。
借金。
生活費。
住む場所。
人間が追い詰められたとき、何を差し出すのか。
そのことを、二人はよく知っていた。
そして今、そこに新しいものが加わろうとしている。
命に関わるポイントだった。
*
午後零時十分。
勇気は会社の休憩スペースで、ニュースを見ていた。
画面には、ポイント譲渡についての特集が流れている。
『昨日確認されたポイント譲渡について、各地で関心が高まっています』
続いて、街頭インタビューが映し出された。
「家族が困っていたら、もちろん渡しますよ」
「でも、自分の数字が減るんですよね。そこが怖いです」
「お金をもらえるなら、少しくらい考えるかもしれません」
勇気は最後の言葉に目を止めた。
金をもらえるなら、考える。
その発想が、すでに広がり始めている。
「井出さん」
声をかけてきたのは、阿部智昭だった。
「ニュース、見ましたか?」
「はい。ポイントを売る人が出てくるかもしれないって……」
阿部は頷いた。
「今朝から、SNSでもそういう話が増えています」
勇気は眉をひそめた。
「でも、売った人は危険になりますよね」
「そうですね。渡した分だけ、自分の残高が減りますから」
阿部は画面を見つめた。
「それに、ポイントの価値をどう決めるのかも難しいでしょう。残高が少ない人にとっての十ポイントと、百ポイントある人にとっての十ポイントでは、意味が違います」
勇気は頷いた。
「……命に値段をつけるようなものですね」
「そうかもしれません」
阿部は静かに答えた。
「ただ、生活に困っている人にとっては、目の前のお金が必要な場合もあります。危険だと分かっていても、断れない人が出てくるでしょう」
勇気はテレビへ視線を戻した。
画面には、ポイント譲渡に関する投稿が次々と紹介されていた。
《ポイントを譲ってくれる方を探しています》
《謝礼をお支払いします》
《生活に困っている方、ご相談ください》
その中には、すでに具体的な金額を提示しているものもあった。
勇気はスマートフォンを握り締めた。
「……こんなに早く、売買の話になるなんて」
阿部は小さく頷いた。
「人間は、命が関わると判断が変わりますから」
その言葉に、勇気は返事ができなかった。
*
同じ日の夕方。
都内の路上生活者が集まる場所に、一人の男が現れた。
男は清潔な上着を着ており、周囲を見渡しながら、段ボールの上に座っている人々へ声をかけていた。
「生活に困っていませんか?」
一人の男性が顔を上げた。
「……何だよ、あんた」
「少しお話を聞いていただきたいんです」
男は穏やかに笑った。
「仕事を紹介できるかもしれません」
男性は警戒したように眉をひそめた。
「仕事?」
「はい。短い時間で報酬を受け取れるものです」
「怪しいな」
「そう思われるのも無理はありません」
男は落ち着いた声で答えた。
「ただ、今の生活を変えたいと思っている方には、悪い話ではないはずです」
男性はしばらく考えた。
寒さが厳しくなる季節だった。
今夜も段ボールの上で眠らなければならない。
食事も十分には取れていない。
仕事があるなら、話だけでも聞いてみたい。
そう思ってしまう自分がいた。
「……いくらもらえるんだ?」
男性が尋ねると、男は小さく笑った。
「条件によります」
「何の条件だよ」
男は少し声を落とした。
「……あなたのメーターは、今いくつですか?」
男性の表情が変わった。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「報酬に関係するからです」
男はそれ以上、説明しなかった。
男性は自分の視界に浮かぶ数字を確認した。
そして、目の前の男を見つめた。
「……数字を教えたら、金がもらえるのか?」
「いいえ。数字を教えるだけではありません」
男は静かに答えた。
「あなたに、少しだけ協力していただきたいことがあるんです」
男性は黙った。
目の前の男が何を求めているのか、何となく分かり始めていた。
しかし、男が続けて告げた報酬額を聞いた瞬間、その考えが揺らいだ。
それは、今の生活では簡単に手に入らない金額だった。
男性は乾いた唇を舐めた。
「……本当に、それだけもらえるのか?」
男は頷いた。
「条件を満たしていただければ」
男性は視線を落とした。
自分のメーター。
目の前の金。
そして、今夜眠る場所。
その三つが、頭の中で何度も行き来した。
しばらくして、男性は小さく口を開いた。
「……話だけなら、聞いてもいい」
男は満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
そして、鞄から一枚の書類を取り出した。
「では、まずこちらをご確認ください」
男性は差し出された紙を受け取った。
そこには、報酬についての説明とともに、見慣れない項目が記されていた。
《提供ポイント数》
《譲渡後のメーター残高》
《報酬金額》
男性は、その文字を見つめた。
「……これ、俺の数字を売れってことか?」
男は静かに頷いた。
「そういうことになります」
男性は書類を握り締めた。
今まで、誰にも必要とされていないと思っていた。
仕事もなく、住む場所もなく、明日の生活すら分からない。
そんな自分に、突然大金を払うという人間が現れた。
しかし、その人間が欲しがっているのは、自分自身ではない。
自分の命を守るために残された、数字だった。




