第16話 あなたの命、買い取ります
十二月七日、午後五時四十分。
「……これ、俺の数字を売れってことか?」
高架下に座っていた男は、差し出された書類を握り締めた。
目の前に立つスーツ姿の男性は、穏やかな表情を崩さなかった。
「はい。ただし、無理にお願いするつもりはありません。条件に納得していただけた場合だけです」
「納得って……俺の命に関わる数字なんだろ?」
「もちろん、その点も説明します」
男は書類へ目を落とした。
《提供ポイント数》
《譲渡後のメーター残高》
《報酬金額》
たった三つの項目だった。
しかし、その意味は重かった。
自分の数字を他人へ渡せば、その分だけ自分の残高が減る。残高が0になれば犯罪者と認定され、二十四時間以内に回復できなければDoAが現れる。
九条重光の処刑映像は、男も見ていた。
あれほどの資産家でさえ助からなかったのだ。
自分のような人間がメーター0になれば、誰も守ってくれないだろう。
「……断ったらどうなる?」
男が尋ねた。
「何もありません。お話を聞いていただいただけですから」
「本当だろうな?」
「ええ」
スーツ姿の男性は頷いた。
男は周囲を見渡した。
高架下には、古びた段ボールや毛布が並んでいる。冷たい風を避けるために壁際へ寄せられた荷物の中には、何年も使われていそうな鞄もあった。
少し離れた場所では、別の路上生活者が紙コップに入った温かい飲み物を両手で包んでいる。
自分も、昨日までは同じように座っていた。
明日の食事をどうするか。
今夜の寒さをどうしのぐか。
それだけを考えていた。
ところが今、目の前には金を払うという人間がいる。
しかも、欲しいのは労働力ではない。
自分のメーターだった。
「……いくらになるんだ?」
男が尋ねると、スーツ姿の男性は書類の金額欄を指さした。
「希望する提供数によって変わります。最終的な条件は、残高を確認したうえでご案内します」
「じゃあ、今ここで金をくれるわけじゃないのか」
「契約が成立し、譲渡が確認された後になります」
男は眉をひそめた。
「先に数字を渡して、金を払わなかったらどうするんだよ」
「その点も契約書に記載します」
「契約書なんか、あんたらが勝手に作ったもんだろ」
男性は一瞬、言葉を止めた。
男は書類を返そうとした。
「……やっぱり、やめとく」
「承知しました」
あまりにもあっさりした返事だった。
引き止められると思っていた男は、拍子抜けしたように顔を上げた。
「本当に、それでいいのか?」
「もちろんです。ご自身の判断ですから」
男性は書類を受け取り、鞄へ戻した。
そして、名刺ほどの小さな紙を一枚差し出した。
「気が変わりましたら、こちらへご連絡ください」
男は受け取るか迷った。
結局、紙だけは手に取った。
男性が立ち去った後、男はその紙を何度も裏返した。
そこには連絡先と、短い言葉が印刷されていた。
《ポイント提供希望者受付》
男は小さく笑った。
「……提供者、ねえ」
昨日まで、仕事を探しても相手にされなかった。
履歴書を書く住所もなく、面接に行く交通費すら惜しかった。
そんな自分が、突然「提供者」と呼ばれるようになった。
男は紙をポケットにしまった。
捨てることは、できなかった。
*
午後六時十分。
一ノ瀬雅臣は、集まった報告書を確認していた。
机の向こうには久世隆臣が座っている。
「最初の反応はどうだ?」
一ノ瀬が尋ねると、久世は資料を一枚めくった。
「話を聞く人間はいる。ただ、実際に売るとなると警戒する者が多い」
「当然だろうな」
「自分の命に関わる数字だからな。金が必要でも、簡単には手放さない」
一ノ瀬は頷いた。
「それでいい。最初から大勢が応じるとは思っていない」
久世は資料を置いた。
「問題は、買いたい人間の方だ。問い合わせは増えているが、条件がまとまっていない」
「価格か?」
「それもある。十ポイント欲しいという者もいれば、残高を上限まで戻したいという者もいる」
一ノ瀬は少し考えた。
「まず、確実に譲渡できることを確認する必要があるな」
「親子の事例はあるだろう」
「親子だから成功した可能性も、まだ完全には否定できない」
久世は頷いた。
母親から娘へ五十ポイントが移動した事実は、すでに報道されている。
しかし、それが血縁関係のない人間同士でも成立するのか、二人には十分な確認が取れていなかった。
「十秒間の接触と、譲渡する数字の指定。公表されている条件はそれだけだ」
久世が言った。
「ほかに制限があるなら、商売として成立しないかもしれない」
「だからこそ、焦る必要はない」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「最初に確かめるべきことを間違えれば、後で大きな問題になる」
久世は椅子へ深く腰を下ろした。
「……お前は相変わらず慎重だな」
「金になる話ほど、最初は慎重でなければならない」
一ノ瀬は静かに答えた。
「九条重光が死んでから、金持ち連中は自分の命を守ることに必死だ。需要がなくなるとは思えない」
「売る側はどうする?」
「そこが一番難しいところだろう」
一ノ瀬は窓の外へ視線を向けた。
都心のビルには明かりが灯り、道路には帰宅する車が列を作っている。
あの街には、金を持っている人間も、今日の食事に困っている人間もいる。
そして今、その両者が同じ数字を持っている。
一ノ瀬は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「これまで金で買えなかったものが、買えるようになるかもしれない。それだけで、十分に価値がある」
久世は何も言わなかった。
ただ、机の上に置かれた報告書を見つめていた。
*
十二月七日、午後七時。
井出勇気は、会社の帰り道で足を止めた。
駅前の大型モニターには、ポイント譲渡に関する特集が映し出されている。
『ポイント譲渡が確認されて以降、SNS上では金銭と引き換えにポイントを求める投稿が急増しています』
勇気は画面を見上げた。
『専門家は、譲渡によって残高が減少した人が犯罪者認定される危険性を指摘しています』
その言葉に、勇気は唇を噛んだ。
昨日から、同じことを何度も考えている。
もし白石奈々が生きている間に、この仕組みを知っていたら。
自分のポイントを渡すことができていたら。
彼女は今も会社で笑っていたかもしれない。
「……白石さん」
勇気は小さく呟いた。
周囲の人々は、モニターを見ながら話し合っていた。
「金をもらえるなら、少し売ってもいいんじゃない?」
「でも、減った分を戻せなかったら怖いだろ」
「百ポイントある人なら、十くらい平気じゃないの?」
そんな会話が聞こえてくる。
勇気は自分の数字を確認した。
《99》
初日に減った一点から、変わっていない。
もし十ポイントを売れば、89になる。
五十ポイントなら、49。
数字だけを見れば、まだ余裕があるように思える。
しかし、奈々は三十ポイントを一度に失った。
どんな善行で、どれほど減るのか。
その仕組みは、今も完全には分かっていない。
勇気は駅へ向かって歩き始めた。
命を救うために見つかった仕組みが、いつの間にか金銭取引の話題へ変わっている。
そのことに、強い違和感を覚えていた。
*
同じ夜。
高架下に戻った男は、ポケットから小さな紙を取り出した。
《ポイント提供希望者受付》
昼間に渡されたものだった。
男は紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
腹が減っていた。
昼から何も食べていない。
近くの店から漂ってくる温かい料理の匂いが、余計に空腹を強くした。
男は自分のメーターを確認した。
まだ数字は残っている。
しかし、その数字を何に使えるのか、これまでは考えたこともなかった。
善いことをしなければ減らない。
悪いことをすれば増える。
そう理解してからは、できるだけ他人に関わらないようにしていた。
それが今、金になるという。
男は小さく息を吐いた。
「……十ポイントくらいなら」
口に出してみた。
十ポイント。
その程度なら、まだ生きていけるかもしれない。
もちろん、保証はない。
しかし、今夜の食事も買えない生活を、いつまで続けられるのだろう。
男は紙に書かれた番号を見つめた。
そして、古いスマートフォンを取り出した。
充電は残りわずかだった。
番号を入力し、発信ボタンの上で指を止める。
本当に電話していいのか。
何度も考えた。
それでも、空腹と寒さは消えてくれなかった。
男は発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音の後、相手が出た。
『はい』
昼間と同じ、落ち着いた声だった。
「……さっき、話を聞いた者だけど」
『ありがとうございます。ご検討いただけましたか?』
男は唇を舐めた。
「十ポイントなら、売ってもいいかもしれない」
電話の向こうが一瞬、静かになった。
『承知しました』
男は緊張しながら尋ねた。
「……それで、いくらになる?」
相手はすぐには答えなかった。
『現在のメーター残高を教えていただけますか?』
男は自分の数字を確認した。
そして、その数字を伝えた。
電話の向こうで、何かを書き留めるような音がした。
『ありがとうございます。では、条件をご案内します』
男は息を呑んだ。
初めて、自分の命に値段がつく。
その瞬間だった。
しかし、相手が告げたのは金額ではなかった。
『まず一点、確認させてください』
「……何だよ」
『譲渡によって生じる危険については、ご自身の責任で引き受けていただくことになります』
男は黙った。
『その条件でも、取引を希望されますか?』
冷たい風が、高架下を吹き抜けた。
男は薄い上着の襟を寄せ、震える手でスマートフォンを握り直した。
自分の命に関わる数字。
それを手放そうとしている。
頭では分かっていた。
それでも、今夜の食事代すらない。
男は目を閉じた。
「……金額を聞いてから決める」
電話の向こうで、相手が静かに答えた。
『分かりました』
そして、提示された金額を聞いた瞬間、男は言葉を失った。
その金があれば、しばらくは屋根のある場所で眠れる。
温かい食事も取れる。
新しい服を買い、仕事を探し直すことだってできるかもしれない。
男は震える声で尋ねた。
「……本当に、その金を払うんだな?」
『条件が成立すれば、お支払いします』
男は空を見上げた。
高架の隙間から、冬の暗い空がわずかに見えていた。
「……分かった」
男は静かに答えた。
「十ポイント、売るよ」
電話の向こうで、相手が短く礼を述べた。
男は通話を切った後も、しばらくスマートフォンを見つめていた。
まだ数字は減っていない。
金も受け取っていない。
それなのに、何か取り返しのつかない約束をしてしまったような気がした。
そして、男はまだ知らなかった。
自分が売ろうとしている十ポイントが、これから始まる巨大な取引の、最初の一件になろうとしていることを。




