第17話 十ポイントの値段
十二月八日、午前九時二十分。
「十ポイントで三十万円。本当に、この金額で間違いないんだな?」
男は契約書に記された数字を指さした。
都内の雑居ビル三階。暖房の効いた小さな事務所には、机と椅子が数脚置かれ、窓にはブラインドが下ろされている。
昨夜、男は自分のメーターを十ポイント売ると約束した。
しかし、実際に契約書を前にすると、簡単にはペンを握れなかった。
「はい。譲渡が正常に完了すれば、三十万円をお支払いします」
向かいに座る担当者は、穏やかな口調で答えた。
男は書類へ目を落とした。
《提供ポイント数 10》
《報酬金額 300,000円》
その下には、小さな文字で注意事項が並んでいる。
《譲渡後のメーター残高については、提供者本人が管理するものとする》
《譲渡に伴う不利益について、残高の回復を保証しない》
「……これ、どういう意味だ?」
「ポイントを渡した後の残高については、ご自身で管理していただくということです」
「そんなことは分かってる。数字が減って危なくなっても、あんたらは助けてくれないってことか?」
担当者は一瞬だけ言葉を止めた。
「……残高の回復を保証する契約ではありません」
男は顔をしかめた。
「ずいぶん都合のいい話だな」
「ご不安でしたら、契約を見送っていただいても構いません」
引き止めるわけでも、急かすわけでもない。
まるで、男が断っても困らないと言わんばかりの態度だった。
「……少し考えさせてくれ」
「もちろんです」
担当者は立ち上がり、部屋を出ていった。
扉が閉まると、男は大きく息を吐いた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
三十万円を手にした後の生活を想像すると、胸が高鳴った。安い宿を借りて風呂に入り、温かい食事を取る。身なりを整えれば、仕事を探し直すこともできるかもしれない。
しかし、そのたびに九条重光の処刑映像が頭をよぎった。
あの男は、百人もの警備員に守られながら命を落とした。
自分が同じ立場になったら、誰が助けてくれるのだろう。
男は自分のメーターを確認した。
《87》
十ポイントを渡せば、残りは77。
今すぐ0になるわけではない。
だが、白石奈々という女性は、子供を救ったことで一度に三十ポイントを失ったという。
善行による減点量は、今も完全には分かっていない。
「……七十七か」
男は小さく呟いた。
路上生活を始めてから、他人のことを考える余裕などほとんどなかった。毎日、食事と寝る場所を確保するだけで精いっぱいだった。
それでも、何が起こるか分からない。
もし目の前で子供が倒れたら。
もし誰かが助けを求めてきたら。
自分は、その人を見捨てられるのだろうか。
男は契約書を見つめた。
三十万円。
今の生活から抜け出すための金。
少なくとも、今夜は寒さに震えずに眠れる。
「……仕方ねえよな」
男はペンを握った。
署名欄に名前を書き終えるまで、何度も手が止まりそうになった。
それでも最後の一文字を書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。
もう、決めたのだ。
*
午前十時十分。
一ノ瀬雅臣は、久世隆臣からの報告を聞いていた。
「最初の提供者が契約した。残高は八十七、譲渡予定は十ポイントだ」
「受領する側は?」
「手配済みだ。ただし、実際に成立するかはまだ分からない」
一ノ瀬は頷いた。
母親から娘へ五十ポイントが移動した事例は、すでに報道されている。しかし、血縁関係のない人間同士でも同じように成立するのか、十分な確認は取れていなかった。
「今回の取引が成功すれば、少なくとも血縁関係は必要ないと分かる」
「失敗したら?」
「何が条件を満たしていなかったのか調べる必要がある」
久世は腕を組んだ。
「……面倒だな」
「最初から簡単にいくとは思っていない」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「問題は、成功した後だ」
「何が?」
「買いたい人間は多い。だが、売りたい人間が同じだけいるとは限らない」
九条重光の処刑以来、富裕層からの問い合わせは増え続けていた。
金を払ってでも、自分の命を守りたい。
その需要は明らかだった。
しかし、売る側は違う。
どれだけ金に困っていても、自分の命に関わる数字を簡単に手放せる人間ばかりではない。
「……だから、まずは一件だ」
一ノ瀬は静かに言った。
「実際に取引が成立し、提供者が報酬を受け取る。それが確認できれば、話を聞こうとする人間も増えるだろう」
久世は頷いた。
「分かった。結果が出たら連絡する」
*
午後一時二十分。
雑居ビルの事務所では、最初のポイント取引が始まろうとしていた。
路上生活者の男は、机を挟んで向かい合う中年男性を見つめていた。
相手の名前は聞かされていない。
中年男性も、こちらの名前を知ろうとはしなかった。
ただ、男が十ポイントを渡し、中年男性がそれを受け取る。
そのためだけに、二人は同じ部屋にいた。
「……あんたが、俺の数字を買うのか?」
男が尋ねると、中年男性は頷いた。
「そういうことになります」
「十ポイントで三十万円。本当に間違いないんだな?」
「はい」
横に立っていた担当者が答えた。
「譲渡が正常に完了すれば、契約に従って報酬をお支払いします」
男は契約書を見た。
署名は済ませている。
後は、ポイントを渡すだけだった。
それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「……どうすればいい?」
「まず、お二人で手を握ってください。その状態で譲渡するポイント数を指定し、十秒間接触を維持します」
男は中年男性へ手を差し出した。
相手も、その手を握った。
見知らぬ男同士が、机を挟んで手をつないでいる。
普通なら奇妙な光景だった。
しかし、部屋にいる誰も笑わなかった。
男は自分の視界に浮かぶ表示を確認した。
《ポイント譲渡》
《譲渡予定 10ポイント》
《譲渡後残高 77》
数字に間違いはない。
男は深く息を吸った。
「……始めるぞ」
中年男性が頷いた。
男は譲渡を実行した。
《接触確認》
《譲渡開始》
《残り10秒》
視界の数字が減り始めた。
男は相手の手を握ったまま、じっと待った。
たった十秒で、三十万円が手に入る。
そう考えていたはずなのに、今は別のことが頭から離れなかった。
もし、途中で手を離したら。
もし、予想していないことが起きたら。
中年男性の手は、少し汗ばんでいた。
相手も緊張しているのだろう。
残り五秒。
男は思わず手に力を込めた。
中年男性が顔を上げた。
「……大丈夫ですか?」
「まだ終わってねえだろ」
男は短く答えた。
残り三秒、二秒、そして一秒。
《接触維持 10秒達成》
《ポイント譲渡完了》
男は息を呑んだ。
視界の数字が変化する。
《87 → 77》
中年男性も、自分のメーターを確認していた。
「……増えた」
その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「十ポイント、増えています」
男は自分の手を見つめた。
痛みも疲労もない。
何かを失った感覚すらなかった。
しかし、数字は確かに十減っていた。
「……金は?」
担当者は頷いた。
「確認が取れましたので、お支払いします」
男はようやく、握っていた手を離した。
*
午後二時十分。
男は事務所を出た。
手元には、約束どおり受け取った三十万円があった。
何度も金額を確認した。
本当に三十万円ある。
騙されたわけではなかった。
男は近くの飲食店へ入り、温かい定食を注文した。
運ばれてきた料理から湯気が立ち上っている。
久しぶりに、値段を気にせず食事を注文できた。
「……うまいな」
思わず声が漏れた。
食事を終えると、男はスマートフォンで宿泊できる場所を探し始めた。
今夜は段ボールの上で眠らなくていい。
風呂にも入れる。
明日は新しい服を買い、仕事を探しに行こう。
そんなことを考えていると、自然に頬が緩んだ。
しかし、ふと視界の数字が目に入った。
《77》
三十万円を手に入れた。
その代わりに、十ポイントを失った。
金は使えばなくなる。
だが、ポイントはどうすれば安全に取り戻せるのか分からない。
男はしばらく数字を見つめた。
やがて、目をそらした。
「……考えても仕方ねえか」
今は、久しぶりに温かい布団で眠れることを喜びたかった。
*
午後三時。
一ノ瀬雅臣のもとへ、取引成立の報告が届いた。
「……成功したか」
『はい。血縁関係のない二人の間で、十ポイントの移動が確認されました。提供者への報酬も支払い済みです』
一ノ瀬は静かに頷いた。
「報告書をまとめておけ」
電話を切ると、久世が顔を上げた。
「どうだった?」
「成功だ。親子でなくても、ポイントは移動する」
久世は小さく息を吐いた。
「……これで、売買が成立することは確認できたわけか」
「ああ。ただし、本当に難しいのはここからだ」
「何が?」
「ポイントを欲しがる人間は多い。だが、自分の数字を売りたい人間が、それと同じだけいるとは限らない」
一ノ瀬は机の上に並んだ問い合わせを見つめた。
「金を払う人間が増えても、提供者が足りなければ商売にならない」
久世は腕を組んだ。
「だったら、どうする?」
一ノ瀬は資料を一枚取り上げた。
そこには、生活に困窮している人々の情報がまとめられていた。
「最初の男は、自分の意思で十ポイントを売った。本人にとっては、悪い取引ではなかっただろう」
「……そうだな」
「だが、同じ条件で売りたい人間が、どれだけいる?」
久世は答えられなかった。
一ノ瀬は資料を閉じた。
「今後は、提供者を集める方法そのものを考える必要がある」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
*
同じ日の夜。
三十万円を受け取った男は、安いビジネスホテルの一室にいた。
久しぶりに浴槽へ湯を張り、身体を洗った。
清潔な布団に横になると、天井の照明が眩しく感じられた。
暖房の効いた部屋に、柔らかい枕。鍵のかかる扉。
昨日まで、どれも簡単には手に入らなかったものだった。
男は自分のメーターを確認した。
《77》
「……十ポイントで、これだけ変わるのか」
三十万円があれば、しばらくは生活を立て直せる。
しかし、もし金がなくなったら。
また、ポイントを売ればいいのだろうか。
そのとき、スマートフォンが震えた。
昼間の担当者からだった。
『本日はありがとうございました。今後もポイントの提供をご希望される場合は、ご相談ください』
男は画面を見つめた。
もう一度、売る。
その選択肢が、突然現実味を帯びた。
今の残高は77。
さらに十ポイントを売れば、67になる。
三十万円がもう一度手に入れば、合わせて六十万円。仕事が見つからなくても、しばらく生活できるだろう。
しかし、その代わりに失うものは、もう取り戻せないかもしれない。
男はスマートフォンを伏せた。
「……今は、やめとこう」
そう呟き、布団に潜り込んだ。
明日は新しい服を買おう。髪も切って、仕事を探しに行こう。
今度こそ生活を立て直す。
そう決めて目を閉じた。
しかし、眠りに落ちる直前、ふと考えてしまった。
もし仕事が見つからなかったら。
もし三十万円を使い切ってしまったら。
そのとき、自分は本当に二度目の取引を断れるのだろうか。
*
同じ夜。
一ノ瀬雅臣は、最初の取引に関する報告書を読み終えていた。
十ポイントの譲渡は成功。
提供者への報酬は三十万円。
受領者の残高増加も確認済み。
数字だけを見れば、問題のない取引だった。
しかし、一ノ瀬が注目していたのは、取引の成功そのものではなかった。
「久世。最初の男は、最初から売るつもりだったのか?」
久世は首を横に振った。
「いや。一度は断っている。命に関わる数字だからな」
「それが、翌日には契約した」
「ああ。金が必要だったんだろう」
一ノ瀬は資料へ目を落とした。
男には住む場所がなく、安定した収入もなかった。
そんな人間にとって、三十万円は大金だ。
「……なるほど」
一ノ瀬は静かに呟いた。
「ポイントを売りたい人間を探す必要は、必ずしもないのかもしれないな」
久世が眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「金を必要としている人間に、ポイントを売るという選択肢を提示すればいい」
「それなら、もうやっているだろ」
「そうだ。だが、今後はそれだけでは足りなくなる」
一ノ瀬は机の上に置かれた問い合わせ一覧を指さした。
買い取り希望者の数は、すでに提供希望者を大きく上回っていた。
「金額を上げても、自分の命に関わる数字を売りたくない人間はいる。一方で、今すぐ金がなければ生活できない人間もいる」
久世は腕を組んだ。
「……お前、どこまで考えてる?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
しばらくして、静かに口を開いた。
「久世。金を借りている人間の中には、返済の見込みが立たない者もいるな」
「……ああ。何人もいる」
「そういう人間が、ポイントを持っていたら?」
久世の表情が変わった。
一ノ瀬は、机の上に置かれた別の資料へ手を伸ばした。そこには、返済が滞っている債務者たちの情報が並んでいた。
「まさか、借金の返済にポイントを使わせるつもりか?」
「まだ、何も決めていない」
一ノ瀬は落ち着いた声で答えた。
「ただ、金がないという理由で返済できなかった人間にも、今は別の資産があるかもしれないということだ」
久世は資料を見つめた。
「……本人が断ったら?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
その沈黙に、久世は嫌な予感を覚えた。
「おい、一ノ瀬。まさか、無理やり譲渡させるつもりじゃないだろうな?」
「今回の取引は、本人の意思で成立した」
一ノ瀬は報告書を指さした。
「十ポイントを売って三十万円を受け取った。提供者も納得している。それ自体は、双方に利益がある取引だった」
「……ああ」
「だが、すべての人間が同じように判断できるとは限らない」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「借金を返せず、生活にも困っている人間にとって、ポイントを売るという選択肢はどう見えるだろうな」
久世は何も答えなかった。
窓の外では、夜の街に無数の明かりが灯っていた。
高級マンションの最上階にも、駅の高架下にも、同じように夜が訪れている。
しかし、そこで暮らす人間たちの生活は、まったく違っていた。
一ノ瀬は、債務者の資料を机の中央へ置いた。
「……まずは、返済が滞っている人間の状況を確認しよう」
久世はその資料を見つめた。
昨日まで、借金を返せない人間には、差し押さえられる財産すらないことがあった。
しかし今は違う。
誰の視界にも、命に関わる数字が存在している。
そして、その数字には金銭的な価値が生まれ始めていた。
「……一ノ瀬」
久世が低い声で尋ねた。
「お前、これがどこまで広がるか分かってるのか?」
一ノ瀬は椅子へ深く腰を下ろした。
「さあな。ただ、一つだけ言えることがある」
「何だ?」
「金を持っている人間は、自分の命を守るためにポイントを買う。そして、金を持っていない人間は、生きるためにポイントを売る」
一ノ瀬は静かに続けた。
「その二つが結びつけば、今までとは違う市場が生まれる」
久世は口を閉じた。
最初の取引は、本人の意思によって成立した。
しかし、借金を抱えた人間が返済を迫られたとき、同じように自由な判断ができるとは限らない。
一ノ瀬は机の上の資料を一枚めくった。
そこには、返済期限を過ぎた債務者の名前と金額が記されていた。
そして、その中には、すでに何度も返済の猶予を求めている人間もいた。
最初の男は、自分の意思で十ポイントを売った。
だが、次に数字を差し出す人間にも、断る自由があるとは限らなかった。




