第18話 借金の代わりに、命を払え
十二月九日、午前九時四十分。
「……40ポイントで返済しろって、どういう意味ですか?」
男は差し出された書類を見つめたまま、顔を上げた。
都内の雑居ビルにある小さな事務所。向かいに座る担当者は、落ち着いた口調で説明を続けた。
「現在の借入残高は120万円です。これまで何度か返済期限を延長していますが、今月も入金の確認が取れていません」
「それは分かってます。でも、もう少し待ってもらえれば……」
「先月も同じお話でした」
男は言葉に詰まった。
42歳。以前は建設関係の仕事をしていたが、勤務先の経営が悪化して収入が減り、生活費を補うために借金を重ねていた。
最初は数万円だった。
給料が入れば返せると思っていたが、返済のために別のところから借りるようになり、気づけば100万円を超えていた。
「仕事は探してるんです。今度こそ決まるかもしれないし……」
「そのお気持ちは分かります」
担当者は書類を一枚めくった。
「ただ、こちらも返済の見通しが必要です。そこで、新しい方法をご案内しています」
男は眉をひそめた。
「新しい方法?」
「ポイント譲渡です」
その言葉に、男の表情が変わった。
数日前から、ニュースで何度も取り上げられている仕組みだった。
自分のメーターを他人へ渡せる。
そして、金銭と引き換えにポイントを売る人間も現れ始めている。
「……俺の数字を売れってことですか?」
「はい。譲渡していただいたポイントの対価を、借入金の返済に充てる方法です」
男は思わず、自分のメーターを確認した。
《94》
善悪逆転システムが現れてから、できるだけ他人に関わらないようにしてきた。
数字が減るのが怖かったからだ。
それでも、いつの間にか6ポイント減っていた。
何が原因だったのか、はっきりとは分からない。
「……どれくらい渡せばいいんですか?」
担当者は資料を確認した。
「現在の条件では、10ポイントにつき30万円です。40ポイント譲渡していただければ、120万円の返済に充てられます」
男は息を呑んだ。
40ポイント。
自分の残高は94だから、譲渡後は54になる。
借金はなくなる。
しかし、メーターは半分近くまで減ってしまう。
「……そんなに渡したら、俺が危なくなるじゃないですか」
「もちろん、危険がないとは申し上げられません」
担当者は淡々と答えた。
「ただ、借金を残したまま生活を続けることにも、負担はありますよね」
男は俯いた。
確かに、そのとおりだった。
毎月の返済に追われ、電話が鳴るたびに身構える。郵便受けに封筒が入っているだけで、心臓が速くなる。
借金がなくなれば、そんな生活から解放される。
しかし、そのために命に関わる数字を40ポイントも失う。
男には、すぐに決められなかった。
「……考えさせてください」
担当者は頷いた。
「構いません。ただ、返済期限については、これ以上の延長が難しい状況です」
男は顔を上げた。
「それって、今決めなかったらどうなるんですか?」
「通常の返済手続きを進めることになります」
「……それだけですか?」
「現時点では、そのようにご案内しています」
男は担当者の顔を見つめた。
脅されているわけではない。
怒鳴られてもいない。
しかし、選べる道が少しずつなくなっていることだけは、はっきりと感じていた。
*
午前十一時。
一ノ瀬雅臣は、久世隆臣からの報告を受けていた。
「債務者への提案を始めた。最初の反応は、あまりよくない」
「当然だろうな」
一ノ瀬は資料を確認した。
「借金を返すためとはいえ、ポイントを失うことに抵抗があるのは自然だ」
久世は椅子へ腰を下ろした。
「ただ、現金で返済できる見込みのない人間には、話を聞く者もいる」
「それで十分だ」
一ノ瀬は静かに答えた。
「無理に契約を急がせる必要はない。まずは、どれだけの人間が応じるか確認しよう」
久世は腕を組んだ。
「だが、返済期限が迫っている連中はどうする? 待っていられないぞ」
一ノ瀬は少し考えた。
「通常の返済手続きと、ポイント譲渡による返済。どちらを選ぶかは本人に判断させればいい」
「……本当に、それでいいのか?」
「少なくとも、表向きはな」
久世は一ノ瀬を見た。
「表向き?」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「本人が選んだという事実は重要だ。こちらが無理やり奪ったとなれば、余計な問題が増える」
久世は小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
一ノ瀬は机の上に置かれた債務者一覧を見つめた。
そこには、返済が滞っている人々の名前と借入額が並んでいる。
これまでは、返済できない人間から金を回収する方法を考えるしかなかった。
しかし今は違う。
誰もが、メーターという新しい価値を持っている。
「……時代が変わったな」
一ノ瀬が呟いた。
久世は何も答えなかった。
*
午後零時三十分。
井出勇気は、会社近くの飲食店で昼食を取っていた。
向かいには小用卓が座っている。
「なあ、井出。最近、ポイント売買の話ばっかりだな」
卓は箸を置き、スマートフォンを見せた。
画面には、ポイント譲渡に関する投稿が並んでいる。
《10ポイント30万円で買い取ります》
《借金の返済にポイントを利用できます》
《生活に困っている方、ご相談ください》
勇気は眉をひそめた。
「……借金の返済まで?」
「そうらしい。金が払えないなら、ポイントを渡せってことだろ」
卓は画面を閉じた。
「でもさ、借金がなくなるなら、悪い話じゃないって思うやつもいるんじゃねえか?」
勇気は少し考えた。
「……そうかもしれない。でも、数字が減ったら、その後が怖いよ」
「まあな」
卓は自分のメーターを確認するように視線を動かした。
「ただ、借金で追い詰められてる人間にとっては、今すぐ助かる方が大事なのかもしれない」
勇気は頷いた。
卓の言うことも理解できた。
明日の生活に困っている人間に、何年も先の危険を考えろと言っても、簡単ではない。
「……難しいね」
勇気が呟くと、卓は小さく笑った。
「お前、最近そればっかりだな」
「そうかな」
「そうだよ。何でも真面目に考えすぎなんだって」
卓は再び箸を持った。
しかし、勇気は笑えなかった。
白石奈々のことを思い出していたからだ。
彼女は、子供を助けたことで30ポイントを失った。
それを知っている自分には、40ポイントを借金返済のために渡すことが、決して小さな選択とは思えなかった。
*
午後二時十分。
借金を抱えた男は、自宅のテーブルに座っていた。
目の前には、午前中に渡された書類が置かれている。
《借入残高 1,200,000円》
《ポイント譲渡による返済額 1,200,000円》
《必要譲渡ポイント 40》
男は何度も数字を確認した。
40ポイント。
それだけ渡せば、借金はなくなる。
しかし、残高は54になる。
男は部屋を見渡した。
古い冷蔵庫。
傷んだカーテン。
何年も使っているテーブル。
借金を重ねても、生活が豊かになったわけではなかった。
ただ、毎月の支払いを何とか続けてきただけだ。
「……もう、疲れたな」
男は小さく呟いた。
スマートフォンが震えた。
返済に関する通知だった。
男は画面を見つめ、しばらく動かなかった。
以前なら、通知が届くたびに胃が痛くなった。
しかし今は、別の方法がある。
ポイントを渡せば、借金がなくなる。
それが本当に救いなのかどうか、男には分からなかった。
それでも、明日も同じ生活を続けることを考えると、胸が苦しくなった。
男はスマートフォンを手に取った。
そして、午前中に渡された連絡先へ電話をかけた。
「……もしもし」
『はい』
「今朝、ポイントの話を聞いた者です」
『ありがとうございます。ご検討いただけましたか?』
男は唇を噛んだ。
「……40ポイント渡せば、本当に借金はなくなるんですね?」
『契約条件を満たしていただければ、返済に充当されます』
男は目を閉じた。
「……分かりました」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
「契約します」
*
午後四時。
男は再び、雑居ビルの事務所を訪れていた。
机の上には、新しい契約書が置かれている。
午前中と同じ担当者が、書類を確認していた。
「では、最終確認をさせていただきます」
男は頷いた。
「現在のメーター残高は94。譲渡予定は40ポイント。譲渡後の残高は54となります」
「……はい」
「譲渡が正常に完了した場合、借入残高120万円を返済済みとして処理します」
男は契約書を見つめた。
120万円。
何年も自分を苦しめてきた数字だった。
それが、たった10秒間で消える。
男は深く息を吸った。
「……お願いします」
担当者は頷いた。
向かいに座る受領者が、手を差し出した。
男はその手を握った。
《ポイント譲渡》
《譲渡予定 40ポイント》
《譲渡後残高 54》
表示に間違いはない。
男は譲渡を実行した。
《接触確認》
《譲渡開始》
《残り10秒》
数字が減り始めた。
男は相手の手を握ったまま、じっと待った。
10秒。
たった10秒。
しかし、その間に何度も考えてしまった。
本当にこれでよかったのか。
自分の命に関わる数字を、借金のために手放していいのか。
それでも、もう後戻りはできない。
残り3秒、2秒、そして1秒。
《接触維持 10秒達成》
《ポイント譲渡完了》
男の視界に表示された数字が変化した。
《94 → 54》
担当者が書類を確認する。
「……正常に完了しました」
男は息を吐いた。
「これで、借金は……」
「はい。契約に従い、返済済みとして処理します」
男は椅子へ深く腰を下ろした。
何年も続いた返済が、終わった。
もう電話に怯えなくていい。
返済期限を気にする必要もない。
そのはずだった。
しかし、視界に浮かぶ《54》を見た瞬間、胸の奥に別の不安が広がった。
借金はなくなった。
その代わりに、命に関わる数字を40ポイント失った。
男は自分の手を見つめた。
何も変わっていない。
痛みもない。
疲れたわけでもない。
それなのに、確かに何かを失った。
「……これで、よかったんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
担当者は答えなかった。
*
同じ日の夜。
一ノ瀬雅臣のもとへ、新たな報告が届いた。
「……40ポイントか」
電話の向こうで、担当者が答えた。
『はい。借入残高120万円の返済に充当しました』
一ノ瀬は静かに頷いた。
「提供者の残高は?」
『54です』
「そうか」
一ノ瀬は電話を切り、久世へ報告書を差し出した。
「借金返済によるポイント譲渡が成立した」
久世は資料を確認した。
「……思ったより早かったな」
「ああ。だが、これで一つ分かった」
「何が?」
一ノ瀬は椅子へ深く腰を下ろした。
「金を受け取るためだけではなく、借金をなくすためにも、人はポイントを手放す」
久世は黙っていた。
一ノ瀬は机の上に置かれた債務者一覧を見つめた。
そこには、返済が滞っている人々の情報が並んでいる。
「……次は、もっと条件の厳しい人間だな」
久世が顔を上げた。
「どういう意味だ?」
一ノ瀬は資料を一枚取り上げた。
そこには、返済期限を何度も過ぎ、すでに通常の返済が難しくなっている債務者の情報が記されていた。
「今回の男には、まだ選択肢があった。だが、全員がそうとは限らない」
久世は眉をひそめた。
「……本人が断ったら?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
その沈黙に、久世は嫌な予感を覚えた。
やがて、一ノ瀬は静かに口を開いた。
「借金を返せない人間が、最後に何を差し出すのか。そこを考える必要がある」
久世は資料を見つめた。
そこには、返済できない人々の名前が並んでいる。
そして、その中には、すでに何度も返済を迫られている人間もいた。
最初の男は、自分の意思で10ポイントを売った。
次の男は、借金をなくすために40ポイントを手放した。
では、断ることさえ許されない人間は、何ポイントを奪われるのだろうか。




