第19話 断れば、すべてを失う
十二月十日、午前九時三十分。
「……60ポイントも渡したら、俺はどうやって生きていけばいいんですか?」
佐伯修司、45歳。
男は、目の前に置かれた書類を見つめながら、かすれた声で尋ねた。
築35年の古いアパート。六畳一間の部屋には、傷んだ畳と小さなテーブル、何年も使っている冷蔵庫があるだけだった。
暖房はつけていない。
電気代を節約するため、夜も厚着をして過ごしている。窓の隙間から入り込む冷たい風が、カーテンをわずかに揺らしていた。
修司は以前、運送会社で働いていた。
十年以上勤め、毎朝早くから荷物を運んでいたが、腰を痛めて仕事を続けられなくなった。治療費と生活費を補うために借金を始め、働けない期間が長引くにつれて返済額は増えていった。
現在の借入残高は180万円。
家賃も二か月滞納している。
そんな修司のもとへ、今朝、借金の返済を求める男たちが訪ねてきた。
「佐伯さん。現在の条件では、10ポイントにつき30万円です。60ポイント譲渡していただければ、借入残高180万円を返済済みとして処理できます」
向かいに座る担当者は、落ち着いた口調で説明した。
修司は自分のメーターを確認した。
《72》
善悪逆転システムが現れた初日、数字は100だった。
しかし、現在は72になっている。
28ポイントを失った理由は、すべて覚えていた。
システムが現れた翌日、修司はアパートの階段で倒れていた高齢の女性を助けた。
重い買い物袋を持っていた女性が足を滑らせ、踊り場で動けなくなっていたのだ。
修司は女性を支え、部屋まで送り届けた。
その直後、メーターが減った。
《善行判定 -8》
さらに、数日後。
近所の公園で倒れていた男性を見つけ、救急車を呼んだ。
救急隊が到着するまで付き添い、事情を説明した。
そのときも数字が減った。
《善行判定 -20》
合計28ポイント。
誰かを助けたことで、修司は100から72になっていた。
「……俺、悪いことなんてしてないんですよ」
修司は小さく呟いた。
「階段で転んだ人を助けて、救急車を呼んだだけなんです。それで28ポイントも減ったんです」
担当者は黙って聞いていた。
「そんな俺が、さらに60ポイント渡したら……」
修司は視線を落とした。
《72》
残り12になる。
もう誰かを助けることもできなくなるかもしれない。
いや、それどころか、ちょっとした親切さえ怖くなる。
「……無理です」
修司は首を振った。
「そんなに渡せません」
担当者は静かに頷いた。
「承知しました。では、通常の返済を続けていただく形になります」
「……でも、今は払える金がなくて」
「その点については、すでに何度もご相談いただいています」
修司は俯いた。
担当者は書類を一枚取り出した。
「現在、返済期限を過ぎておりますので、今後は契約に基づいた手続きを進める必要があります」
修司は顔を上げた。
「……それって、どうなるんですか?」
「状況によっては、法的な回収手続きも検討することになります」
修司の胸が締めつけられた。
家賃も払えていない。
仕事も見つかっていない。
そんな状態で、裁判や差し押さえの話になれば、どうすればいいのか分からなかった。
「……少しだけ、時間をください」
担当者は頷いた。
「本日中に、ご回答をお願いします」
修司は何も言えなかった。
*
午前十一時。
一ノ瀬雅臣は、久世隆臣からの報告を聞いていた。
「佐伯修司、45歳。借入残高180万円。現在のメーターは72。60ポイントの譲渡を拒否した」
一ノ瀬は資料を確認した。
「理由は?」
「譲渡後の残高が12になるからだ。本人は危険だと言っている」
「……当然だろうな」
一ノ瀬は静かに答えた。
久世は腕を組んだ。
「どうする? 本人が拒否している以上、簡単には進まないぞ」
一ノ瀬は資料を一枚めくった。
そこには、修司の生活状況が記されていた。
《家賃滞納 2か月》
《就業状況 無職》
《借入残高 1,800,000円》
一ノ瀬はしばらく考えた後、スマートフォンを手に取った。
「……家賃の件は、まだ解決していないんだな?」
「そうだ。大家からも支払いを求められているらしい」
「分かった」
一ノ瀬は担当者へ電話をかけた。
「佐伯修司の件だ。本人には、通常の返済手続きを進めると伝えてあるな?」
『はい』
「では、今日中に書面を届けろ。今後の返済について、正式な回答を求める」
『承知しました』
「それと、本人がポイント譲渡を希望する場合は、すぐに対応できるようにしておけ」
電話を切ると、久世が顔を上げた。
「……それだけか?」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「今の佐伯には、金がない。仕事もない。家賃も払えていない」
「……ああ」
「そんな人間に、これ以上返済を求めたらどうなると思う?」
久世は答えなかった。
一ノ瀬は落ち着いた声で続けた。
「こちらが無理に奪う必要はない。本人が、ポイントを渡すしかないと思えばいい」
久世は一ノ瀬を見つめた。
「……それを、本人の意思と言えるのか?」
一ノ瀬は答えなかった。
ただ、机の上の資料へ視線を戻した。
*
午後零時二十分。
井出勇気は、会社近くの飲食店で昼食を取っていた。
向かいには小用卓が座っている。
「井出、これ見たか?」
卓がスマートフォンを差し出した。
画面には、ポイント譲渡に関する投稿が表示されている。
《借金返済にポイント譲渡を利用》
《返済できない場合、ポイントによる精算をご案内》
《生活再建を支援します》
勇気は眉をひそめた。
「……生活再建、か」
「昨日までは、ポイントを売って金をもらうって話だったのにな」
卓は箸を置いた。
「今度は借金を返すために数字を渡せってことだろ。すげえ時代になったよな」
勇気は画面を見つめた。
「でも、借金がなくなっても、メーターが0になったら意味がないよ」
「そりゃそうだけど、返せない借金を抱えてる人間にとっては、今すぐ楽になる方が大事なんじゃねえか?」
卓の言葉に、勇気はすぐに答えられなかった。
昨日までの自分なら、絶対に売るべきではないと言えたかもしれない。
しかし、実際に借金で追い詰められている人間が、どんな生活をしているのか。
自分には分からない。
「……難しいね」
勇気が呟くと、卓は小さく笑った。
「またそれかよ」
「だって、本当に難しいんだから」
勇気も少しだけ笑った。
しかし、すぐに表情を戻した。
「卓。もし、借金を返すためにポイントを渡せって言われたら、どうする?」
卓は少し考えた。
「俺なら、残りがどれくらいになるかで決めるかな」
「……そうなんだ」
「だって、借金がなくなるなら助かるだろ。ただ、0になるような取引は絶対に嫌だけどな」
勇気は頷いた。
卓の考え方は、以前と少し変わっているように感じた。
善悪逆転システムが現れたばかりの頃、卓は困っている人間を利用することに強い怒りを示していた。
しかし今は、数字と金額を比べながら、取引として考えるようになっている。
勇気はその変化に気づいたが、何も言わなかった。
*
午後二時十分。
修司は、自宅のテーブルに置かれた書類を見つめていた。
午前中の担当者が帰った後、別の封筒が届いていた。
返済に関する正式な通知だった。
《借入残高 1,800,000円》
《必要譲渡ポイント 60》
《譲渡後残高 12》
修司は何度も数字を確認した。
60ポイント。
それだけ渡せば、借金はなくなる。
しかし、残りは12。
男は部屋を見渡した。
古い冷蔵庫。
傷んだカーテン。
何年も使っているテーブル。
借金を重ねても、生活が豊かになったわけではなかった。
ただ、毎月の支払いを何とか続けてきただけだ。
「……もう、疲れたな」
修司は小さく呟いた。
スマートフォンが震えた。
返済に関する通知だった。
修司は画面を見つめ、しばらく動かなかった。
以前なら、通知が届くたびに胃が痛くなった。
しかし今は、別の方法がある。
ポイントを渡せば、借金がなくなる。
それが本当に救いなのかどうか、修司には分からなかった。
それでも、明日も同じ生活を続けることを考えると、胸が苦しくなった。
修司はスマートフォンを手に取った。
そして、午前中に渡された連絡先へ電話をかけた。
「……もしもし」
『はい』
「今朝、ポイントの話を聞いた佐伯です」
『ありがとうございます。ご検討いただけましたか?』
修司は唇を噛んだ。
「……60ポイント渡せば、本当に借金はなくなるんですね?」
『契約条件を満たしていただければ、返済に充当されます』
修司は目を閉じた。
「……分かりました」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
「契約します」
*
午後四時。
修司は再び、雑居ビルの事務所を訪れていた。
机の上には、新しい契約書が置かれている。
午前中と同じ担当者が、書類を確認していた。
「では、最終確認をさせていただきます」
修司は頷いた。
「現在のメーター残高は72。譲渡予定は60ポイント。譲渡後の残高は12となります」
「……はい」
「譲渡が正常に完了した場合、借入残高180万円を返済済みとして処理します」
修司は契約書を見つめた。
180万円。
何年も自分を苦しめてきた数字だった。
それが、たった10秒間で消える。
修司は深く息を吸った。
「……お願いします」
担当者は頷いた。
向かいに座る受領者が、手を差し出した。
修司はその手を握った。
《ポイント譲渡》
《譲渡予定 60ポイント》
《譲渡後残高 12》
表示に間違いはない。
修司は譲渡を実行した。
《接触確認》
《譲渡開始》
《残り10秒》
数字が減り始めた。
修司は相手の手を握ったまま、目を閉じた。
本当にこれでよかったのか。
何度考えても、答えは出なかった。
残り3秒、2秒、そして1秒。
《接触維持 10秒達成》
《ポイント譲渡完了》
修司のメーターが変化した。
《72 → 12》
担当者が書類を確認した。
「……正常に完了しました」
修司は息を吐いた。
「これで、借金は……」
「はい。返済済みとして処理します」
修司は椅子へ深く腰を下ろした。
借金はなくなった。
しかし、メーターは12になった。
修司は自分の手を見つめた。
何も変わっていない。
痛みもない。
疲れたわけでもない。
それなのに、今まで以上に恐怖を感じていた。
「……これから、どうやって生きればいいんだ」
その問いに、担当者は答えなかった。
*
同じ日の夜。
一ノ瀬雅臣のもとへ、取引成立の報告が届いた。
「……60ポイントか」
『はい。借入残高180万円の返済に充当しました』
一ノ瀬は頷いた。
「提供者の残高は?」
『12です』
「そうか」
一ノ瀬は電話を切り、久世へ報告書を差し出した。
「借金返済によるポイント譲渡が成立した」
久世は資料を確認した。
「……思ったより早かったな」
「ああ。だが、これで一つ分かった」
「何が?」
一ノ瀬は椅子へ深く腰を下ろした。
「金を受け取るためだけではなく、借金をなくすためにも、人はポイントを手放す」
久世は黙っていた。
一ノ瀬は机の上に置かれた債務者一覧を見つめた。
そこには、返済が滞っている人々の情報が並んでいる。
「……次は、もっと条件の厳しい人間だな」
久世が顔を上げた。
「どういう意味だ?」
一ノ瀬は資料を一枚取り上げた。
そこには、返済期限を何度も過ぎ、すでに通常の返済が難しくなっている債務者の情報が記されていた。
「今回の佐伯には、まだ選択肢があった。だが、全員がそうとは限らない」
久世は眉をひそめた。
「……本人が断ったら?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
その沈黙に、久世は嫌な予感を覚えた。
やがて、一ノ瀬は静かに口を開いた。
「借金を返せない人間が、最後に何を差し出すのか。そこを考える必要がある」
久世は資料を見つめた。
そこには、返済できない人々の名前が並んでいる。
そして、その中には、すでに何度も返済を迫られている人間もいた。
最初の男は、自分の意思で10ポイントを売った。
次の男は、借金をなくすために40ポイントを手放した。
では、断ることさえ許されない人間は、何ポイントを奪われるのだろうか。




