第20話 悪事を働けば、借金が消える
十二月十一日、午前九時二十分。
「……足りない分は、悪いことをして増やせって言うのか?」
久世隆臣は、机の上に置かれた資料から顔を上げた。
向かいに座る一ノ瀬雅臣は、何事もないようにコーヒーを飲んでいる。資料に記された債務者の借入残高は240万円。現在の取引価格なら返済には80ポイント必要だが、本人のメーターは50しかなかった。
「持っていないポイントは渡せないだろ。別の返済方法を考えるしかない」
久世が言うと、一ノ瀬はカップを置いた。
「本当にそうか? 金も財産もない人間でも、悪行によってポイントを増やすことはできる」
「……犯罪をさせるつもりか?」
「本人が何をするかは、本人が決めることだ」
その返事に、久世は眉をひそめた。
最初の取引では、路上生活者が10ポイントを売って30万円を受け取った。続いて、借金を抱えた男が40ポイントを譲渡し、昨日は佐伯修司が180万円の返済のために60ポイントを手放した。
いずれも危険な取引だったが、今回の話はさらに一線を越えようとしていた。
「一ノ瀬。今までは持っている数字を買っていただけだ。今度は、その数字を作らせようとしている」
「そうだな」
「分かってるなら、どうして平然としていられる?」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「俺たちが善悪逆転システムを作ったわけじゃない。悪行で加点される仕組みが存在する以上、それを利用しようとする人間は必ず現れる」
「だからって、犯罪をさせていい理由にはならないだろ」
「こちらから具体的な犯罪を命じる必要はない。返済に必要なポイント数を伝えればいい」
久世は言葉を失った。
借金を返せない人間に、不足している数字を突きつける。その数字を増やすには悪行が必要だと、相手も知っている。
直接命令しなくても、追い詰められた人間が何を考えるかは想像できた。
「……最初から、そこまで考えていたのか?」
一ノ瀬は答えず、次の債務者の資料を開いた。
*
午前十一時十分。
佐伯修司は、近所のスーパーで買い物をしていた。
昨日、60ポイントを譲渡して180万円の借金を返済した。何年も続いた督促から解放されたはずなのに、気持ちは少しも晴れなかった。
食パンと卵をかごへ入れたところで、修司は自分のメーターを確認した。
《12》
この数字を見るたびに、胸の奥が冷たくなる。
以前、アパートの階段で倒れていた女性を助けたときは8ポイント減った。公園で倒れた男性のために救急車を呼んだときは20ポイント減った。
今の残高では、同じようなことをすれば犯罪者になるかもしれない。
そのとき、少し離れた通路で大きな音がした。
年配の女性が買い物かごを落とし、床に野菜や商品が散らばっている。女性はしゃがんで拾おうとしたが、足元がふらつき、棚へ手をついた。
修司は反射的に一歩踏み出した。
「……あ」
足が止まった。
助けなければ。
そう思った直後、視界の《12》が目に入った。
「すみません、どなたか……」
女性が周囲へ助けを求めている。
ほんの数歩先だった。落ちた商品を拾い、店員を呼ぶだけなら、たいした時間はかからない。
しかし、その親切が何ポイントの減点になるのか分からない。
修司はかごを握り締めた。
自分は、もう借金を返した。
ようやく生活を立て直せるところまで来たのだ。
ここでメーターが0になれば、すべて終わってしまう。
修司は視線を落とし、ゆっくりとその場を離れた。
背後から別の客の声が聞こえる。
「大丈夫ですか? 拾いますよ」
その声に、思わず振り返りそうになった。
しかし、修司は歩き続けた。
会計を済ませ、店の外へ出ると、冬の冷たい風が頬を打った。
「……仕方ないだろ。俺だって、死にたくないんだから」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
それでも、女性が助けを求めた声は耳から離れなかった。
自分は以前、倒れている人を見れば迷わず手を貸していた。仕事を失っても、借金を抱えても、それだけは変わらなかったはずだ。
しかし、今日は見捨てた。
修司はメーターを確認した。
《12》
数字は減っていない。
そのことに安心してしまった自分が、何より嫌だった。
*
午後零時三十分。
「井出、これ見たか?」
会社近くの飲食店で、小用卓がスマートフォンを差し出した。
画面には、借金返済にポイント譲渡を利用する人々についての記事が表示されていた。
井出勇気は箸を置いた。
「借金のために、何十ポイントも渡す人がいるんだね」
「金がなければ生活できないからな。俺だって、何百万円も借金があったらどうするか分かんねえよ」
卓はそう言って、少し考え込んだ。
「でもさ、井出。そもそも、無理して人を助ける必要ってあるのか?」
「どういうこと?」
「白石さんのことだよ。あの人は子供を助けて30ポイント失った。それで死んだんだろ?」
勇気は箸を止めた。
「……うん」
「俺だって、白石さんが悪かったなんて思わねえよ。でも、助けなければ今も生きてたんじゃないかって、最近考えるんだ」
卓は窓の外へ目を向けた。
「人を助けたら死ぬかもしれない。だったら、見て見ぬふりをする方が正しいんじゃないか?」
勇気はすぐに答えられなかった。
奈々が道路へ飛び出した場面を思い出す。
あの子を助けなければ、車にひかれていたかもしれない。しかし、奈々は自分の命を失った。
「……僕は、白石さんが間違っていたとは思わない」
「お前なら、そう言うと思ったよ」
「でも、怖い気持ちは分かる。僕だって、同じことが起きたら迷わず動けるか分からない」
卓は小さく頷いた。
「……変な世の中になっちまったな」
勇気は窓の外を見つめた。
信号待ちをしている人々も、店先で買い物をする人々も、以前と変わらない日常を送っているように見える。
しかし、困っている人を助けるかどうかという、かつては当たり前だった判断にまで、命の危険がつきまとうようになっていた。
勇気は奈々のことを思い出した。
彼女が最後まで守ろうとしたものを、自分たちは少しずつ失い始めているのかもしれない。
*
午後二時四十分。
一ノ瀬は、久世が持ってきた債務者一覧を確認していた。
借金の返済に必要なポイントが不足している人間が、予想以上に多かった。
その中の一人は、借入残高240万円に対してメーターが50。完済には30ポイント足りない。
一ノ瀬は資料の余白へ書き込んだ。
《不足 30ポイント》
そして担当者へ電話をかけた。
「不足ポイントのある債務者への説明は進んでいるな?」
『はい。ただ、悪行による加点について質問する方もいます』
「具体的な犯罪を指示する必要はない。だが、誰が加点方法に関心を示したのか、記録しておけ」
『承知しました』
一ノ瀬は通話を終え、書類をまとめた。
久世がその様子を見つめていた。
「……お前、相手が何をするか分かったうえでやってるだろ」
一ノ瀬は答えなかった。
ただ、不足ポイントを書き込んだ資料を、担当者へ渡す書類の一番上に置いた。
*
同じ日の夜。
佐伯修司は、自宅のテーブルに座っていた。
スーパーで買った食パンと卵は、まだ袋に入ったままだった。空腹は感じているのに、食事を用意する気力が湧かなかった。
昼間、買い物かごを落とした女性を見捨てたことが、頭から離れない。
借金はなくなった。
しかし、メーターは12のまま。仕事も決まっておらず、家賃と生活費はこれからも必要だった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
『佐伯様。先日のポイント譲渡について、追加のご案内がございます』
続けて、もう一通届いた。
『現在のメーター残高が少ない方を対象に、今後の生活についてご相談を受け付けております』
修司は眉をひそめた。
借金は返済したはずだった。
それなのに、なぜ今さら連絡してくるのか。
さらにメッセージが届いた。
『悪行による加点をご希望の場合、詳細をご案内いたします』
修司はスマートフォンを置いた。
以前なら、こんな誘いに耳を貸すことなど考えられなかった。
運送会社で働いていた頃は、朝早くから荷物を運び、帰宅すれば疲れて眠るだけだった。それでも、自分の稼いだ金で生活していることに誇りを持っていた。
腰を痛めて仕事を失い、借金を重ねても、誰かを傷つけようとは思わなかった。
それなのに今、自分は犯罪の方法を尋ねようとしている。
「……何やってんだ、俺」
修司は両手で顔を覆った。
悪いことをすれば、数字は増えるかもしれない。
しかし、そのためには誰かが傷つく。
相手にも生活があり、家族がいるかもしれない。
自分が生き延びるために、その人を犠牲にしていいのだろうか。
修司は長い時間、画面を見つめた。
《12》
このまま何もしなければ、少なくとも今夜は生きていられる。
だが、明日も明後日も、善行を恐れながら暮らさなければならない。もし知らないうちに大きく減点されれば、命を失うかもしれない。
修司は返信欄を開いた。
『どんな方法ですか?』
送信ボタンの上で指が止まった。
話を聞くだけなら、まだ犯罪ではない。
そう考えた瞬間、自分が言い訳を探していることに気づいた。
それでも、ほかに何をすればいいのか分からなかった。
修司は送信ボタンを押した。
数分後、返信が届いた。
『現在の残高に応じたご案内が可能です。詳細については、担当者との面談でご説明いたします』
修司は画面を見つめた。
今なら、まだ断れる。
スマートフォンを閉じ、明日から仕事を探せばいい。
しかし、腰の痛みは今も残っており、以前のような仕事へ戻ることは難しかった。応募した仕事からも、なかなか返事が来ない。
借金がなくなっても、生活は続く。
そして、メーターは12のままだ。
「……話を聞くだけなら」
修司は返信を入力した。
『面談だけならお願いします』
ほどなくして、日時と場所が届いた。
翌日の午後。
以前、ポイント譲渡の契約を結んだ雑居ビルだった。
修司はその住所を見つめ、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
あの事務所で、借金をなくすために60ポイントを渡した。そして今度は、失ったポイントを取り戻すために、同じ場所へ向かおうとしている。
修司はスマートフォンを伏せた。
断るなら、今だった。
しかし、予約を取り消すことはできなかった。
「……明日、決めよう」
そう呟いたものの、修司自身にも分かっていた。
自分はすでに、昨日までなら絶対に近づかなかった場所へ、一歩踏み出している。
*
同じ夜。
一ノ瀬のもとへ、担当者から報告が届いた。
『佐伯修司から、加点に関する面談の希望が入りました』
一ノ瀬は資料を確認した。
《佐伯修司 45歳》
《現在残高 12》
《譲渡済み 60ポイント》
「……そうか」
一ノ瀬は短く答えた。
「面談の準備を進めろ」
電話を切ると、久世が顔を上げた。
「佐伯か?」
「ああ。昨日、借金を返済した男だ」
「もう用は済んだはずだろ」
一ノ瀬は資料を閉じた。
「借金はなくなった。だが、失ったポイントは戻っていない」
久世は黙った。
一ノ瀬は、担当者から送られてきた面談記録を開いた。
そこには、佐伯修司の名前と残高が記されていた。
そして、その下には新しい項目が追加されていた。
《加点希望者 面談予定》
久世はその文字を見つめ、低い声で尋ねた。
「……次は、何をさせるつもりだ?」
一ノ瀬は答えなかった。
ただ、佐伯の資料を、翌日の面談予定者の一番上に置いた。




