第3話 残された二十四時間
十二月一日、午後六時二十分。
「井出さん、本当に帰るんですか?」
白石奈々に声をかけられ、井出勇気は鞄を持ち上げた。
「うん。会社に残っていても、今はできることがないからね」
「そうですよね……。私も帰ろうと思います」
窓の外では、冬の夕暮れが街を包み始めていた。向かいのビルには次々と明かりが灯り、道路には帰宅を急ぐ車が列を作っている。
事務所では社員たちが帰り支度を進めていたが、いつものような雑談は聞こえなかった。誰もがスマートフォンを気にし、ときおり視界の数字を確認している。
「井出さん、明日は普通に出勤するんでしょうか」
「会社から連絡がなければ、そのつもりだけど」
「私、明日も普通に仕事ができる気がしません」
奈々は机に残った書類を見つめた。
午前中までに終わらせる予定だった仕事は、結局ほとんど進まなかった。朝から続く異常な出来事のせいで、社員の誰もが仕事に集中できなくなっていた。
「今日は仕方ないよ。世界中でこんなことが起きてるんだから」
「でも、明日も同じだったら?」
勇気は答えに詰まった。
今日一日を何とか乗り切ったとしても、明日になれば元の生活に戻れるという保証はない。
奈々は少し迷ってから、勇気へ頭を下げた。
「今朝は本当にありがとうございました。仕事を手伝ってもらって」
「その話はもういいって」
「でも、井出さんの数字が減ったのは、私のせいですから」
「白石さんのせいじゃないよ。僕が自分で決めたことなんだから」
勇気が笑いかけると、奈々はようやく小さく頷いた。
それでも、彼女の表情から不安が消えることはなかった。
勇気自身も同じだった。
今朝、同僚の仕事を手伝っただけでメーターは100から99になった。減ったのはたった一点だが、今ではその数字を何度も確認するようになっている。
誰かのために行動した結果、自分が損をする。
そんな考え方を当たり前にしたくはなかった。
「じゃあ、また明日」
「はい。気をつけて帰ってください」
奈々と別れ、勇気は会社を出た。
建物の外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
駅へ向かう歩道には大勢の通勤客がいたが、普段より会話が少ない。人々はスマートフォンを見つめたり、突然立ち止まって何かを確認したりしている。
駅前の大型モニターでは、ニュース番組が放送されていた。
『善悪逆転システムの発生原因について、各国政府が調査を進めています。しかし、現時点で原因は判明していません』
画面には海外の都市が映し出されていた。
人々が集まって議論する広場、報道陣に囲まれる政府関係者、病院の前で取材を受ける医療従事者。
勇気は足を止めた。
『特に懸念されているのが、人命救助や医療行為など、社会的に必要とされる活動によってメーターが減少するという報告です』
画面が切り替わり、一人の医師が険しい表情で取材に応じていた。
『患者を救うことが減点につながるのであれば、医療現場は重大な問題に直面します。しかし、だからといって目の前の患者を見捨てるわけにはいきません』
勇気の周囲でも、通行人たちが足を止めていた。
「医者も大変だな……」
「でも、仕事なんだから助けるしかないだろ」
「お前、自分が危険になっても同じこと言えるのか?」
そんな会話が聞こえてきた。
勇気は画面を見つめた。
朝から何度も報じられている消防士のことを思い出す。
大勢の人間を救い、世界で最初に犯罪者と認定された男性。
あの人は、助けを求める声を聞いて何を考えたのだろう。
自分のメーターが減ることを知っていたのか。それとも、目の前の人を救うことに必死で、数字を気にする余裕などなかったのか。
答えは分からない。
ただ、勇気には一つだけ確かなことがあった。
あの消防士が救助をやめていたら、助からなかった人がいたかもしれない。
それなのに、彼は犯罪者として世界中に顔と現在位置を公開されている。
勇気はそれ以上ニュースを見続ける気になれず、駅へ向かって歩き出した。
電車に乗り込むと、車内でも善悪逆転システムの話題が続いていた。
座席に座った若い男性が、友人らしい相手と電話で話している。
「だから、悪いことをしたら増えるんだって。もう何人も報告してるだろ」
少し離れた場所では、年配の女性がスマートフォンを見ながら首を横に振っていた。
「こんなもの、信じられないわ。今まで真面目に生きてきた人が損をするなんて」
勇気は窓に映る自分の顔を見つめた。
真面目に生きてきた人間が損をする。
その言葉は、今の状況をよく表しているように思えた。
しかし、本当に恐ろしいのは、それだけではない。
悪いことをした人間が得をするという点だった。
誰かを傷つければ数字が増える。
他人を助ければ数字が減る。
もし、この数字が命に関わるものだとしたら、人々はどちらを選ぶようになるのだろう。
勇気は目を閉じた。
今朝まで、自分が善人か悪人かなど考えたこともなかった。
誰かに親切にすることもあれば、腹を立てることもある。仕事で失敗する日もあれば、人から感謝される日もある。
そんな普通の人間だった。
それなのに今は、自分の行動を数字で判断しようとしている。
このままでは、いつか誰かを助ける前に損得を計算するようになるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
帰宅した勇気は、上着を脱ぐとテレビをつけた。
画面には、善悪逆転システムに関する特別番組が映し出されていた。
夕食を用意しながらニュースを聞いていたが、どの番組も似たような内容だった。
発生原因は不明。
メーターの表示を消す方法も不明。
世界中の政府や研究機関が調査を始めているものの、具体的な成果は出ていない。
勇気は夕食を食べながら、スマートフォンでSNSを確認した。
《人助けは絶対にしない方がいい》
《悪いことをした方が生き残れる》
《善人ほど危険ってことか》
《メーター0になったら本当に何が起こるんだ?》
最後の投稿には、大量の返信がついていた。
しかし、誰も確かな答えを持っていなかった。
勇気はスマートフォンを置き、テレビへ目を向けた。
画面には、朝から何度も見た消防士の写真が映っている。
その隣には、メーター残高を示す数字が表示されていた。
《0》
朝から一度も回復していない。
「……どうなるんだよ、この人」
思わず声が漏れた。
世界中の人々が、同じ疑問を抱いているはずだった。
善行を重ねた人間が犯罪者になる。
その先に、何が待っているのか。
まだ誰も知らない。
夜が深まるにつれ、テレビでは専門家たちによる議論が始まった。
ある専門家は、犯罪者認定という言葉だけで過度に恐れるべきではないと主張していた。
一方、別の専門家は、世界中の人間に同じ現象が起きている以上、単なる表示上の問題として片づけることはできないと警告している。
勇気はどちらの意見にも頷けなかった。
確かな情報が少なすぎる。
誰もシステムの正体を知らないまま、自分なりの解釈を語っているだけだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
奈々からのメッセージだった。
『井出さん、ニュース見てますか?』
勇気はすぐに返信した。
『見てるよ。消防士の人、まだ0みたいだね』
少しして、奈々から返事が届いた。
『私、ずっと考えてたんです。もしあの人が助からなかったら、これから誰も人を助けなくなるんじゃないかって』
勇気は画面を見つめた。
奈々の言うことは、決して大げさではないように思えた。
世界で最初に犯罪者と認定された人物が、大勢の命を救った消防士だったという事実。
その意味を、人々はすでに理解し始めている。
勇気はしばらく考えてから返信した。
『そうならないといいけどね』
送信した後、自分の言葉があまりにも頼りないことに気づいた。
そうならないといい。
ただ願うことしかできない。
勇気はスマートフォンを置き、窓の外へ目を向けた。
住宅街には静かな夜が訪れていた。遠くの道路を走る車の音が、時折、冷たい空気を通して聞こえてくる。
世界中で異常な出来事が起きているというのに、窓の外は驚くほど穏やかだった。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
何かが起こる前の、わずかな時間。
そんな予感が頭から離れない。
勇気がテレビへ視線を戻した、そのときだった。
画面の上部に赤い帯が現れた。
『緊急速報』
ニュースキャスターが手元の資料を確認し、表情を強張らせる。
『ただいま、善悪逆転システムに関する新たな情報が確認されました』
勇気は思わず身を乗り出した。
『世界第一号の犯罪者として認定された消防士について、犯罪者認定後の処遇に関する表示が確認されたとのことです』
画面が切り替わった。
消防士の顔写真と、メーター残高0の表示。
そして、その下に見慣れない文字が現れた。
《犯罪者認定》
《残高回復猶予 24時間》
勇気は息を呑んだ。
二十四時間。
それが何を意味するのか理解するより先に、次の文章が表示された。
《猶予期間内にメーター残高を回復してください》
《期限までに回復が確認されない場合、処刑を実施します》
「……処刑?」
勇気の口から、かすれた声が漏れた。
ニュースキャスターも明らかに動揺していた。
『現在、この表示の真偽や、処刑という言葉が具体的に何を意味するのかについて確認を進めています』
勇気はテレビから目を離せなかった。
処刑。
それは、これまで誰も想像していなかった言葉だった。
犯罪者と認定されるだけではない。
数字を回復できなければ、命を奪われるというのか。
しかも、その期限は二十四時間。
勇気は反射的に自分のメーターを見た。
《99》
朝、奈々の仕事を手伝ったことで減った一点。
もし、あのとき減った数字が九十九ではなく、0だったら。
自分も同じ表示を見ていたのだろうか。
そんな考えが浮かび、背筋に冷たいものが走った。
テレビでは、さらに新しい情報が伝えられていた。
『処刑を実施する存在について、システム上には名称が表示されているとのことです』
勇気は息を止めた。
画面に、白い文字が浮かび上がる。
《執行者 DoA》
ニュースキャスターが、その名前を読み上げた。
『ディー・オー・エー。現時点で、その正体や姿、処刑方法については一切分かっていません』
勇気は画面を見つめたまま動けなかった。
世界中の誰も知らない存在。
その名前だけが、突然明らかになった。
そして、勇気は理解した。
善悪逆転システムは、人間の行動を採点しているだけではない。
その数字によって、人間の生死まで決めようとしている。
テレビには、消防士の写真が映し出されていた。
大勢の人間を救った男。
その男に残された時間が、今も減り続けている。
勇気は拳を握り締めた。
もし、本当に二十四時間後に処刑が行われるのなら。
世界は初めて、善悪逆転システムの恐ろしさを目の当たりにすることになる。
そして、その処刑を実行するというDoAは、いったい何者なのか。
答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




