第2話 減っていく命
十二月一日、午前十一時四十分。
世界で最初に犯罪者と認定された消防士の映像は、瞬く間に世界中へ広がっていた。
井出勇気が勤める会社でも、社員たちは仕事の手を止め、事務所のテレビに見入っている。画面には火災現場で救助活動を行う消防士の姿が繰り返し映し出され、その横には《犯罪者認定》という文字が表示されていた。
「何度見ても納得できないな」
誰かが呟いた。
「この人、何人も助けたんだろ? どうして犯罪者なんだよ」
誰も答えられなかった。
テレビの中では、煤で顔を汚した消防士が救助された人々に囲まれている。幼い子供を抱きかかえ、救急隊員に引き渡した直後の映像だった。
その消防士が犯罪者と認定された理由は、人命救助によってメーターが0になったから。
勇気は自分の視界に浮かぶ数字を見つめた。
《99》
朝、白石奈々の仕事を手伝ったことで減った一点。それ以来、数字は変わっていない。
しかし、たった一点の減少が、今ではひどく重く感じられた。
「井出さん、これからどうなるんでしょうね」
隣の席で奈々が呟いた。
彼女の机には、今朝から片づけていた書類が残されている。午前中までに終わらせなければならないと言っていた仕事だが、二人とも続きを始める気にはなれなかった。
「正直、分からないよ。世界中で同じことが起きてるみたいだし」
「でも、こんなの絶対におかしいですよ。人を助けたら減点されるなんて」
「僕もそう思う」
勇気が答えると、奈々は少し安心したように頷いた。
ところが、その直後、彼女の視線が勇気の机にある書類へ向けられた。
「……あの、井出さん」
「どうしたの?」
「残りの仕事、やっぱり私がやります」
勇気は思わず奈々を見た。
「まだ結構あるでしょ。手伝うって言ったんだから、最後までやるよ」
「駄目です。また数字が減ったらどうするんですか?」
「でも、仕事だよ?」
「仕事でも減点されるかもしれないじゃないですか。今朝だって、私の仕事を手伝ってくれたから……」
奈々はそこで言葉を止めた。
勇気も返事に困った。
確かに、今朝の減点は彼女の仕事を手伝った直後に起こった。仕事上の協力であっても、システムが善行と判断すれば数字は減るらしい。
そう考えると、会社で働くこと自体が恐ろしくなってくる。
困っている同僚を助ける。
新人に仕事を教える。
誰かの失敗を補う。
これまで当たり前に行ってきたことの一つひとつが、減点につながる可能性があるのだ。
「とりあえず、今は自分の仕事をやろうか」
勇気がそう言うと、奈々は申し訳なさそうに頷いた。
二人はそれぞれパソコンへ向き直ったが、以前のように仕事へ集中することはできなかった。
事務所の空気も、朝とは明らかに変わっていた。
少し離れた席では、男性社員が書類を抱えたまま立ち尽くしている。
「これ、誰か確認してもらえませんか?」
普段ならすぐに誰かが応じるはずだった。
しかし、周囲の社員たちは顔を見合わせるばかりで、誰も手を挙げようとしない。
「確認するだけですよ。そんなに時間はかからないんで」
男性は困ったように笑ったが、それでも返事はなかった。
勇気はその様子を見ながら、胸の奥に嫌なものが広がっていくのを感じた。
誰も彼を嫌っているわけではない。助ける能力がないわけでもない。
ただ、助けた結果、自分の数字が減ることを恐れている。
たった数時間で、人間関係がこんなにも変わってしまうものなのか。
「……自分で確認します」
男性は諦めたように呟き、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送った勇気は、思わず声をかけそうになった。
手伝いましょうか。
喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
自分の視界にある《99》が気になったからだ。
その事実に気づいた瞬間、勇気は唇を噛んだ。
今朝までなら、迷わず声をかけていた。
それなのに、今は自分の数字を守ることを優先している。
「井出さん?」
奈々が心配そうに顔を覗き込んだ。
「何でもないよ」
勇気はそう答えたが、胸の奥に残った後ろめたさは消えなかった。
昼休みになる頃には、SNSの話題も変わり始めていた。
最初は数字の正体を知ろうとする投稿ばかりだったのに、今では減点を避ける方法や、加点される行動についての情報が目立っている。
《落とし物を届けたら減点された》
《困ってる人を無視しても数字は変わらなかった》
《人に嫌がらせしたら増えた》
《悪いことをすれば回復できるってこと?》
勇気は最後の投稿で指を止めた。
回復。
その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
善行で数字が減り、悪行で数字が増える。もし本当にその仕組みが成立しているなら、数字を減らした人間は悪いことをして取り戻そうとするかもしれない。
人を助けて減った分を、人を傷つけて補う。
そんな考え方が広がったら、どうなるのだろう。
「井出さん、顔色悪いですよ」
奈々が声をかけてきた。
「ちょっと嫌なことを考えてた」
「嫌なこと?」
勇気はスマートフォンを彼女へ向けた。
奈々は投稿を読み進めるうちに、表情を曇らせた。
「……本当にこんなことする人がいるんですね」
「まだ書き込みだけかもしれない。でも、数字が増えたって報告は結構ある」
「だからって、人に嫌がらせしていい理由にはなりませんよ」
「うん。そうだよね」
勇気は頷いた。
しかし、心のどこかで別の疑問が浮かんでいた。
もし自分のメーターが残り一点になったら。
誰かを傷つければ数字が増えると分かっていたら。
それでも、今と同じことを言えるのだろうか。
考えたくなかった。
自分がそんな選択を迫られる未来など、想像したくもなかった。
「私は、そんなことしたくありません」
奈々が静かに言った。
「誰かを傷つけて数字が増えても、嬉しくないと思います」
勇気は彼女の横顔を見た。
朝からずっと不安そうにしていた奈々だったが、その言葉には迷いがなかった。
「僕もそう思うよ」
そう答えながら、勇気は少しだけ救われた気がした。
少なくとも、目の前には自分と同じ考えの人間がいる。
世界中が一度に変わってしまったように感じていたが、すべての人が悪行を選ぶわけではないはずだ。
そう信じたかった。
午後になると、事務所のテレビでは各国の混乱が繰り返し報じられていた。
人々は自分のメーターを確認し、善行と悪行の境界について議論している。
ある国では、人助けを続けるべきだと訴える人々が現れ、別の場所では、数字を減らさないために他人との接触を避ける動きが広がっていた。
勇気は画面を見つめながら、あることに気づいた。
誰も、善悪逆転システムの正体を知らない。
なぜ突然現れたのか。
誰が作ったのか。
どうやって人間の行動を判断しているのか。
世界中の政府や研究者が調査を始めているというのに、答えは一つも出ていなかった。
それなのに、人々の行動だけは確実に変わり始めている。
「井出さん、ちょっといいですか?」
奈々が遠慮がちに声をかけた。
「どうしたの?」
「これ、さっきから考えてたんですけど……」
彼女は机の上に置かれた書類を指さした。
「私、今朝は井出さんに手伝ってもらって、すごく嬉しかったんです。仕事が終わらなくて困っていたから、本当に助かりました」
「うん」
「でも、そのせいで井出さんの数字が減ったって思うと、今は申し訳なくて……」
奈々は少し俯いた。
「これから誰かに助けてもらうたびに、こんな気持ちになるんでしょうか」
勇気はすぐに答えられなかった。
助ける側だけではない。
助けられる側も、相手の数字を減らしてしまうことを恐れる。
そんな社会になったら、人々はどうやって支え合えばいいのだろう。
「白石さん」
勇気は少し考えてから口を開いた。
「今朝、手伝ったことは後悔してないよ」
奈々が顔を上げた。
「でも、怖くないんですか?」
「怖いよ。正直、また数字が減るのは嫌だと思ってる」
勇気は苦笑した。
「ただ、それと白石さんを手伝ってよかったって気持ちは、別だと思うんだ」
奈々は黙って聞いていた。
「数字が減ったからって、今朝のことまで悪い出来事だったとは思いたくない」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
勇気自身、これから先も同じ考えを持ち続けられる自信はない。
それでも、少なくとも今はそう思っていたかった。
奈々はしばらく勇気を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見て、勇気も少しだけ表情を緩めた。
ところが、次の瞬間。
奈々が何かに気づいたように、視線を宙へ向けた。
「井出さん……」
「どうしたの?」
「今、数字が……」
勇気は反射的に自分のメーターを確認した。
《99》
変わっていない。
奈々はしばらく黙っていたが、やがて首を横に振った。
「すみません。見間違いだったみたいです」
「そっか」
勇気は胸を撫で下ろした。
以前なら、こんなことで緊張することなどなかった。
数字が一つ変わったかもしれない。
ただそれだけで、心臓が速くなる。
自分たちはもう、何も考えずに日常を過ごすことができなくなっている。
夕方が近づく頃、会社の中では翌日の勤務について話し合う声が増え始めていた。
仕事を続けるべきだという意見もあれば、システムの詳細が分かるまで休業した方がいいという意見もある。
しかし、どちらが正しいのか判断できる人間はいなかった。
勇気は窓の外を見た。
冬の日は短く、まだ夕方だというのにビルの谷間には長い影が落ちていた。道路を走る車のライトが一つ、また一つと増えていく。
朝と同じ街のはずなのに、どこか別の場所に見えた。
「井出さん、明日も普通に会社へ来ますか?」
奈々が尋ねた。
「今のところは、そのつもりだけど」
「そうですよね……」
奈々は曖昧に笑った。
「私、明日のことを考えるのが怖いです」
勇気は彼女の言葉を否定できなかった。
今朝まで、明日が来ることを疑ったことなどなかった。
しかし今は、世界が明日まで同じ姿を保っているのかさえ分からない。
そのとき、事務所のテレビから緊急速報を知らせる音が響いた。
『世界第一号の犯罪者として認定された消防士について、新たな情報が入りました』
勇気は顔を上げた。
画面には、朝から何度も見た消防士の写真が映し出されていた。
『現在もメーター残高は0のままで、回復したという情報は確認されていません』
事務所にいた社員たちが、次々とテレビへ視線を向ける。
『各国では、この犯罪者認定が何を意味するのか、引き続き調査が進められています』
勇気は黙って画面を見つめた。
消防士は大勢の人々を救った。
その行動を間違っていたと言う人間は、少なくとも勇気の周囲にはいない。
それなのに、システムは彼を犯罪者と認定した。
もし善行を重ねるほど数字が減っていくなら、これから同じような人間が次々と現れるのではないか。
医師、看護師、警察官、消防士。
誰かのために働くことを選んだ人々が、真っ先に危険な立場へ追い込まれていく。
勇気は視界の右上に浮かぶ《99》を見た。
まだ九十九もある。
そう考えようとした。
しかし、朝の自分は百だった。
たった半日で、数字の意味がまるで変わってしまった。
「井出さん……」
奈々が小さく呼びかけた。
「もし、あの消防士さんが助からなかったら、どうなるんでしょうね」
勇気は答えられなかった。
テレビには、救助された子供を抱きかかえる消防士の姿が映っている。
人を助けたことで、感謝されるはずだった男。
その男が今、世界で最初の犯罪者として扱われている。
勇気は画面から目を離せなかった。
そして、ある疑問が頭から離れなくなった。
もし世界が善人を犯罪者として扱うなら、これから本当の犯罪者は、何と呼ばれるのだろうか。




