エラーラ・ウィクス
アルゴーから話を聞き終えた私は、そのまま自室へ戻った。
扉を閉める。
そして――。
「……疲れた」
ベッドに倒れ込む。
頭の中では、今日一日の出来事が何度も繰り返されていた。
ロイン。ジョミナー。
謎のノイズ。セレブス。
そして――ウィクス家の借金。
「……最悪ね」
天井を見つめる。
私にはゲームの知識がある。だから大丈夫。
最初は、そう思っていた。
けれど。
ゲームに存在しないストーリー展開。
ゲームに存在しないウィクス家の事情。
ゲームに存在しない父親。
そして、私の知らないエラーラの事情。
「……これじゃ、攻略チャートなんて意味ないじゃない」
小さく呟く。これからどうすればいい。
セレブスとの婚約をどうする。借金は。
ウィクス家は。ロインは。ジョミナーは。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「……今日はもう無理」
考えることを諦めた。少なくとも、今日は。
今日一日は、十分すぎるほど色々なことが起きた。
「明日……考えればいいわ」
そう呟いた直後。
私は泥のように眠りへ落ちた。
◇
――夢を見た。
そこは、知らない場所だった。
暖かな日差し。広い庭。
そして――。
「わあ……!」
小さな女の子が走っている。
銀色の髪。小さな手。幼い顔。
その姿を見た瞬間、私は気づいた。
(……エラーラ?)
間違いない。
あれは、幼い頃のエラーラだ。
けれど。私が知っているエラーラとは、まるで違った。
「トニックおじいちゃん!」
幼いエラーラが、嬉しそうに声を上げる。
その先に、一人の人物がいる。
白髪。優しい笑顔。
その人物はしゃがみ込むと、幼いエラーラの頭を撫でた。
「おお、エラーラ。今日も元気だな」
「うん!」
幼いエラーラは嬉しそうに笑う。
「ねえねえ、今日は何して遊ぶ?」
「そうだな……」
その光景は、とても穏やかだった。
愛されている。それが、すぐに分かった。
幼いエラーラは、この人物を心から慕っている。
「トニックおじいちゃん、大好き!」
「私もエラーラが大好きだよ」
その声を聞いた瞬間――。
胸の奥が、妙に苦しくなった。
(……誰?)
知らない。
こんな人物、ゲームには出てこなかった。
名前すら知らない。なのに。
どうして私は、この光景を見ている?
そして。
なぜこんなにも懐かしいと感じる?
「……トニック……おじいちゃん……」
夢の中で呟いた瞬間。
景色が大きく歪んだ。
ザザザザザ――。
「……っ!」
目を開けた。
◇
「……朝?」
ぼんやりと天井を見つめる。
しばらくして、私はゆっくりと身体を起こした。
「…………」
夢。ただの夢。
そう思いたかった。けれど。
「……あれは記憶……」
妙に鮮明だった。
幼いエラーラ。
そして――。
「トニックおじいちゃん……」
その名前だけが、頭から離れない。
私はベッドから降り、鏡の前へ向かった。
鏡に映っているのは――。
私。
いや。正確には、エラーラの姿。
「……」
しばらく自分の顔を見る。
そして、小さく息を吐いた。
「……わかってはいたけど」
鏡に触れる。
「転生はしたのよね。このゲームに」
昨日までは、どこかゲームの延長線上にいるような気がしていた。
けれど。もう認めるしかない。
ここはゲームの世界ではある。
でも、ゲームそのものではない。
少なくとも。
私が知っているゲームそのものではない。
「……それに」
私は自分の顔を見る。
「さっきの記憶」
あれは。
私の記憶じゃない。
私が前世で経験したことでもない。
「元のエラーラの記憶……」
そう考えるのが、一番自然だった。
なら。
「トニックおじいちゃんって……誰なの?」
答えは出ない。
ゲームを何十回もプレイした私ですら知らない。
攻略本にも。イベントにも。設定にも。
そんな人物は存在しなかった。
「……まただ」
また。
私の知らない情報が出てきた。
私は鏡を見つめながら、さらに違和感を覚える。
「…………あれ?」
目。
自分の瞳をじっと見る。
「……赤じゃない」
そこに映っていた瞳は――。
赤ではなかった。
「紫……?」
淡い紫色。
光の加減で少し違って見えるが、少なくともゲームで見ていたエラーラの赤い瞳とは明らかに違う。
「……嘘」
私は鏡に顔を近づける。
ゲームのエラーラ。赤い瞳。
それが設定だった。
私は何十回も見てきた。
立ち絵も。設定資料も。何度も。
だから、間違えるはずがない。
「私……転生してから、一度もちゃんと確認してなかったの?」
今さらだった。
私は自分の瞳を見つめる。
そこに映っているのは――。
ゲームのエラーラとは少し違う少女。
「……紫の瞳」
そして。
昨日見たノイズ。ジョミナーの左目。
幼いエラーラの記憶。トニックおじいちゃん。
ウィクス家の借金。
「……何なのよ」
頭を抱える。
私はゲームを何十回もプレイした。
だから、この世界のことは誰よりも知っている。
そう思っていた。
でも。
違った。
私は――。
ゲームに描かれていた世界しか知らなかった。
「……知らないことだらけじゃない」
鏡の中の紫色の瞳が、私を見返していた。
「……とにかく」
私は鏡から離れた。
考えることが多すぎる。
昨日のこと。セレブスのお茶会の出来事。
ウィクス家のこと。
そして――夢に出てきた、トニックおじいちゃん。
「何かに書かないと……」
頭の中だけで整理しようとしても無理だ。
私は前世でも、何かを整理するときは紙に書き出すタイプだった。
「召使いは……」
部屋を出る。
廊下を歩く。誰かいないか探す。
「……いない」
別の廊下へ向かう。
「……いない」
階段を下りる。
「……いない」
さらに歩く。
気づけば、かなりの時間が経っていた。
「…………」
私は立ち止まった。
「この屋敷……広すぎる……」
前世の私の住んでいた場所なんて、ワンルームだった。
数歩歩けば壁。冷蔵庫まで数秒。
トイレだってすぐそこ。
それに比べて、この屋敷はどうだ。
廊下。
階段。
部屋。
また廊下。
そして、知らない部屋。
「……疲れた」
昨日の疲労が抜けていない。
それなのに、朝から屋敷の中を歩き回っている。
ようやく。廊下の向こうから人影が見えた。
「あっ」
あの馬車で一緒にいたメイドだった。
「エラーラ様!」
メイドがこちらを見る。
「エラーラお嬢様。どうかなさいましたか?」
「あなた……」
私は息を整える。
「召使いは……」
少しだけ間を置いて。
「あなた一人なのかしら?」
「……はい?」
メイドは不思議そうな顔をした。
「そうですけれども?」
「……やっぱり」
私は小さく呟いた。
この広すぎる屋敷。
なのに、働いている人間は彼女一人。
(借金を抱えている……)
(だから、人を雇う余裕もないってこと?)
ゲームでは。
ウィクス家はそれなりに裕福な貴族だと思っていた。
少なくとも、エラーラが貧乏だなんて設定はなかった。
なのに。実際のウィクス家は、使用人すらほとんど残っていない。
「……ノートはあるかしら?」
「ノート……?」
メイドが首を傾げる。
「ええ。ノート……」
「?」
「そう」
そこで私は気づいた。
「あ……」
この世界に「ノート」というものが存在するとは限らない。
「失礼。少し書き物をしたいの。本はあるかしら?」
「本でしたらございますが……」
メイドは少し驚いたような顔をした。
「書き物なんて珍しいですね」
「そう?」
「はい。お嬢様がそのようなことをなさるとは……」
「……」
エラーラ。
あなた、普段何してたのよ。
少しだけ不安になった。
「何冊必要ですか?」
「とりあえず三冊。私の部屋に置いて頂戴」
「かしこまりました」
「それと」
私は思い出した。
「ウィクス家の歴史について書かれた本はある?」
「歴史……ですか?」
「ええ。家の歴史が分かるものなら何でもいいわ」
「それでしたら、いくつかございます」
「それもお願い」
「かしこまりました」
私は自室へ戻った。
しばらくすると、机の上には数冊の本が置かれていた。
「……よし」
私は椅子に座る。
ペンを握る。
「まずは、昨日のことから」
紙の一番上に、大きく書く。
――現在の状況。
そして、その下に一つずつ書き始めた。
『私はエラーラ・ウィクスに転生した』
『ここは乙女ゲーム――『恋する姫と終わらない奇跡』の世界』
『ただし、ゲームと完全に同じ世界ではない』
ペンを止める。
そして、続きを書く。
『セレブスのお茶会イベントをめちゃくちゃにした』
『本来存在しない行動を自分が取った』
『ロインを刺そうとした』
「……」
そこを書くと、少し手が止まった。
でも、書く。
『ジョミナーが止めた』
『ジョミナーの左目にノイズが発生』
『ジョミナーはロインを守るために私を止めた』
『しかし、なぜあの場所にいたのか本人にも分からない』
そして――。
『ロインを殺したが、ノイズが走り、殺す前に戻された』
「……ここも重要ね」
本来なら。
ゲームには存在しない。
私自身が変えた未来。
だから、もうゲームの攻略情報だけでは先を読めない。
そして――。
『ウィクス家には多額の借金がある』
昨日、アルゴーから聞いた話を思い出す。
ウィクス家は、もともと酒の事業で成功していた。
貴族としての地位だけではない。事業によって財を築いた家だったらしい。
ところが。
ある時を境に、その事業が少しずつ傾いていった。
「……その原因が」
私は歴史書を開く。
ページをめくる。
家系図。事業の歴史。
過去の当主。
そして――。
「……トニック」
その名前を見つけた。
手が止まる。
「トニック・ウィクス……」
エラーラの祖父。アルゴーの父親。
そして。
昨夜、夢に出てきた人物。
『トニックおじいちゃん』
「…………」
偶然?
そんなわけがない。
私はさらに読み進める。
トニックが当主だった頃。
ウィクス家の事業は、まだ順調だった。
酒の事業を広げ。商人との取引を増やし。
ウィクス家は大きく発展していた。
だが――。
「トニックが亡くなった後……」
私はページをめくる。
そこで、流れが変わっていた。
事業の縮小。相次ぐ損失。
借金。
そして――。
現在のウィクス家。
「…………」
ペンを置く。
昨日、アルゴーが言っていた。
ウィクス家には多額の借金がある。
その借金を返済するために、セレブスとの婚約が必要だった。
つまり。
エラーラがセレブスとの結婚に執着していた理由は――。
「……単にお金が欲しかったから、だけじゃない」
私は呟く。
ゲームの中では。
エラーラはただの欲深い悪役令嬢だったと思っていた。
金。地位。権力。
それらを求めてセレブスに近づいた。
私はずっと、そう思っていた。
でも。
この世界のエラーラには。家があった。
父がいた。祖父がいた。
そして――。
守らなければならない家があった。
「…………」
私は夢を思い出す。
幼いエラーラ。笑顔。
そして、優しく頭を撫でていた老人。
「トニックおじいちゃん……」
どうして私は、あなたのことを知らない?
ゲームを何十回やっても。一度も名前を見たことがない。
なのに。
この身体には、あなたと過ごした記憶が残っている。
「……ゲームに描かれていなかっただけ」
そう呟いてから、私は首を振る。
「いや……」
それだけじゃない。もっと根本的な問題がある。
私はゲームを知っている。
でも――。
エラーラの人生を知っているわけじゃない。
ゲームに描かれていたのは。
エラーラという少女の人生の、ごく一部しか描かれていなかったのかもしれない。
私は新しい紙を一枚取り出した。そして、その一番上に書く。
『ゲームに存在しない情報』
その下に。
『ジョミナーの異変』
『ウィクス家の借金』
『トニック・ウィクス』
『幼少期のエラーラの記憶』
『紫色の瞳』
最後の項目を書いたところで、ペンが止まった。
「……まだある」
きっと。
これからも増える。私の知らない「エラーラ」が。
そして――。
「……調べないと」
私は歴史書を閉じる。
ゲームを攻略するように。この世界を攻略する。
そうしなければ。
私は――。
本当に何も知らないまま、この世界で生きていくことになる。




