甘い交渉
アンラが、ゆっくりと口を開いた。
「実は、見てたんだよね」
「…………?」
どういう意味?私は首を傾げた。
「エラーラの気持ちとか、なんで私に食べさせたくなったとか、正直よく分かんないけど」
「…………」
あんなに恥ずかしい台詞を口にしたのに、この言われようである。
もう少しくらい、何かないのだろうか。
いや、アンラに期待する方が間違っているのかもしれない。
「でも」
アンラが、私を見る。
「エラーラが頑張ってるの、こっそり見てたよ」
「…………え?」
見ていた?
私がマフィンを作っているところを見ていたってこと?
そうなのか……。
まあ、アンラの生活時間を考えれば、十分あり得る話だった。
アンラは基本的に、放課後から自分の魔法の研究に励み、深夜になってから寮へ戻ってくる。
その途中で、私がお菓子作りに苦戦しているところを見ていたのだろう。
「……まったく気づかなかったわ」
私は小さく息を吐きながら、そう言った。
「まあ、もういいわ。とにかく食べなさい、アンラ」
「うん。言われなくても食べるよ」
アンラは、テーブルの上のマフィンを手に取った。
そして――。
パクッ。
「…………」
もぐもぐ。
「…………」
もぐもぐ。
「…………」
……なぜ何も言わないのだろう。
食べているのだから、感想くらい言ってくれてもいいじゃない。
私はじっとアンラを見つめた。
ナイナも、どこか緊張した様子でアンラの反応を窺っている。
部屋の中が、妙に静かだった。
「ど、どうなの……?」
我慢できず、私は尋ねた。
すると――。
「おいしい」
「…………!」
アンラが目を丸くしていた。
「これ、今まで食べた中で一番甘くておいしいかも」
「…………」
よかった。心の中で、ほっと胸を撫で下ろす。
けれど、それを顔に出すわけにはいかない。
「そ、そう。なら、よかったわ」
私は何とか平静を装った。
「じゃあ、あの件について――」
「これ、食堂にあるケーキより好きかも」
「…………え?」
「ねえ、まだある?」
「…………」
私は唖然とした。
まさか、ここまで喜んでもらえるとは思っていなかったのだ。
私は、ホールのチョコレートケーキを作ることができなかった。
何度も失敗して、結局、別のお菓子に変更することになった。
完成したのは、小さなチョコレートマフィン。
最初に思い描いていたものとは、まるで違う。
それでも――。
私は、自分の手でマフィンを作り上げた。
そして今。
アンラが、それを本当においしそうに食べている。
「…………」
自分が作ったお菓子を、誰かがこんなにも喜んでくれるなんて。
それだけのことなのに。こんなにも嬉しいものなのね。
「ふふっ」
思わず、口元が緩みそうになった。
……危ない。私は慌てて表情を引き締める。
別に、喜んでいるわけではない。
いや。喜んでいるのだけれど。
それを認めるのは、なんだか悔しかった。
「これに合う紅茶を入れますね」
そんな私の心境を知ってか知らずか、ナイナが微笑みながら紅茶の準備を始めた。
やがて、香りのよい紅茶がテーブルに並ぶ。
アンラはマフィンを頬張りながら、満足そうに紅茶を口に運んだ。
「…………」
私は、その光景を眺めていた。
……まあ。
今は、いいか。
ラベンのことも。アンラに頼みたいことも。
まだ、話さなければならないことは残っている。
けれど――。
(今は、この余韻を楽しみましょう)
なんたって。
これは、私が起こした――。
激レアCGなのだから。
◇
三人でマフィンを食べ終えた。
「ふー、おいしかったですね」
ナイナが満足そうに口元を拭きながら言った。
「ええ。そうね」
私は紅茶を一口すすった。
すると――。
「……もう、ないの?」
アンラが悲しそうな顔で、空になった皿を見つめていた。
口元には、チョコレートがついている。
「…………」
まったく。
どれだけ夢中で食べたのよ。
「……ナイナ」
私は顔を向けず、目配せだけで指示を出した。
「はい」
ナイナはすぐに察し、アンラの口元を丁寧に拭いてやる。
「…………」
まるで赤ちゃんね。
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「すごい面倒見のいいメイドだね、ナイナって」
口元を拭いてもらいながら、アンラが感心したように言う。
「そうでしょうか?」
「うん。エラーラにはもったいないよ」
「何よ。文句あるの?」
「別にー」
アンラは、あっさりと答えた。
「…………」
まったく、失礼な子ね。
……まあ、実際その通りなのだけれど。
ナイナはかなり優秀なメイドだ。
私にはもったいないという意見も、あながち間違いではない。
「よし。食べ終わったし、帰ろう」
「そうね……って、ちょっと待ちなさい!」
私は思わず声を上げた。
まさか、このまま帰るつもり?
いや、確かにマフィンを食べることが目的だったなら、それで終わりなのだろう。
けれど――。
「このまま帰すわけないでしょ!」
「……やっぱり、そうだよね」
アンラは少しも驚かず、椅子に座り直した。
私も向かいの席に腰を下ろす。
楽しいお茶会は、ここまで。
ここからが本題だ。
「それじゃあ――」
私はアンラをまっすぐ見つめた。
「本題に入りましょうか」
「…………」
「私が、こんなにも頑張ってあなたのためにお菓子を作った目的。それは知っているでしょ?」
「……うん。あれでしょ?」
アンラは頬杖をつきながら答えた。
「知り合いの女の子が魔力過敏症かもしれないから、見てほしいって話だよね」
「そうよ。よく覚えているじゃない」
「うん……」
アンラは少しだけ視線を落とした。
「実は、エラーラがお菓子作りを頑張っているのを見ていてさ」
「…………?」
「どれだけ私に来てほしいんだろうって考えたんだよね。それで、ちょっと改めて魔力過敏症について調べてたんだ」
「……え?」
「前から気にはなってたし」
「そ、そうなのね」
私は思わず、曖昧に頷いた。
……なんだか意外だ。
アンラが、他人のことを考えていたなんて。
自分の興味があること以外には、驚くほど無関心。
それが、私の知っているアンラだった。
ゲームでも、そんな印象が強かった。
もちろん、完全に他人に無関心というわけではないのだろう。
けれど、少なくとも自分から誰かのために動くような人物だとは思っていなかった。
(……もしかして)
私はアンラをちらりと見た。
(私が、何かしら影響を与えたのかしら?)
転生してから、私はゲームの筋書きとは違う行動ばかり取っている。
そもそも、ゲームのエラーラは序盤で退場するだけの存在だった。
学園に通うこともなければ、その後の物語に関わることもない。
けれど――。
今の私は、こうして学園に通い、ゲームでは接点のなかったアンラと関わっている。
本来なら、あり得なかったはずの関係。
その関係が、アンラの考え方に何かしらの変化を与えたのだろうか。
それとも、私が知らなかっただけで、アンラはもともとこういう一面を持っていたのだろうか。
「…………」
今の段階では、何とも言えない。
ただ、一つ確かなことがある。
ゲームで決められていた筋書きから外れた行動を取れば、そこから先の展開も変わっていくのかもしれない。
……それは、少しだけ興味深いことだった。
「エラーラ様?」
「……え?」
ナイナに呼ばれ、私は顔を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、ううん。ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたわ」
「そうですか?」
「ええ」
私は軽く息を吐く。
今は、このことについて考えるのは後回しだ。
それよりも――。
「アンラ」
「なに?」
「調べていたということは……来てくれるってこと?」
「…………」
アンラは、しばらく考え込んだ。
「……うーん」
「…………」
「めんどくさいな」
「…………え?」
私は固まった。
……まだ迷うの?
そこまで外に出るのが嫌なの!?
魔力過敏症について気になっていたんじゃないの?
自分で調べるくらいには興味があったんじゃないの?
それなのに、面倒くさいの一言で片づけるつもり!?
「…………」
いや、待って。
ここで怒っても仕方がない。
相手はアンラだ。普通の人間と同じ感覚で考えてはいけない。
私は何とか気持ちを落ち着かせた。
すると――。
「じゃあさ」
アンラが顔を上げる。
「条件を出してもいい?」
「…………」
この期に及んで、条件!?
わがまますぎるでしょう、この子!
「……何よ。言いなさい」
私は半ば諦めながら答えた。
すると、アンラは迷うことなく言った。
「またマフィン作って」
「…………」
…………。
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
もっと無茶な条件を出されると思っていたのに。
まさか、それだけ?
「……それでいいの?」
「うん」
アンラは、こくりと頷いた。
「おいしかったから」
「…………」
私はアンラを見つめた。
そして――。
「……ええ。もちろんよ」
小さく笑った。
「じゃあ、行く」
「…………え?」
「マフィン、また作ってくれるんでしょ?」
「ええ。約束するわ」
「なら、いいよ」
アンラは、いつもの気の抜けた調子で頷いた。
こうして。
アンラとの交渉は、成立したのだった。




