上書き失敗
「探したぞ! ロイン!」
勢いよく開いた扉の向こうに立っていたのは、ジョミナーだった。
「…………ジョミナー?」
ロインが驚いたように振り返る。
「まったく……! 俺のそばを、あまり離れるなよ!」
「もう、心配しすぎですわ!」
ロインは困ったように笑った。
どうやら、ジョミナーはロインを探し回った末に、ここへたどり着いたらしい。
(……また、あなたなの?)
私は内心でため息をついた。
どうしてこうも勘がいいのだろう。
毎度毎度、私の計画を邪魔してくれる。
今だって、あと少し遅ければ――。
(……いえ)
私は、そっとナイフを隠した。
「おい、ロイン。こいつから離れろ」
ジョミナーが、私を睨みつけながら言った。
「…………」
その表情を見て、私は一瞬、言葉を失った。
明らかな敵意。
警戒どころではない。今にも私をロインから引き離そうとしているような顔だった。
(……何なの、その顔)
ゲームでも、こんな表情を見たことがない。
私の知っているジョミナーは、少なくとも、こんなふうに他人へ敵意をむき出しにする男ではなかったはずだ。それなのに。
フレンが傷つき、ロインが心を痛めている今、彼はロインを守ることに必死になっている。
その気持ちは理解できる。
理解できるけれど――。
(本当に、目障りね)
ロインを守ろうとするジョミナーの存在が、今はひどく鬱陶しかった。
「もう、ジョミナー。そんな怖い顔をしたら駄目でしょう?」
ロインが、二人の間に入るように口を開いた。
「エラーラ様は、ただケーキを作っていただけです。かわいいことだと思いませんか?」
「…………」
ジョミナーは、すぐには答えなかった。
けれど、ロインは彼の様子を気にすることもなく、にこにこと笑っている。
すると――。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
(……何なの、これ)
ロインが話すだけで、場の雰囲気が変わっていく。
ジョミナーの敵意が消えたわけではない。
それでも、先ほどまでの険悪さが、いつの間にか薄れていた。
(……これが、主人公というものなのかしら)
ゲームでは、私がロインを動かしていた。誰に話しかけるのか。
どんな選択肢を選ぶのか。誰と仲良くなるのか。
すべては、プレイヤーである私の操作次第だった。
だから、気づかなかった。
ロイン自身が持つ、この不思議な力に。
周囲の人間を自然と自分のペースに引き込み、険悪な空気さえも穏やかに変えてしまう。
本人は、ただ普通に話しているだけなのに。
「そうか。俺は、そんなに怖い顔をしていたのか」
ジョミナーが、ようやく口を開いた。
しかし、その視線はまだ私から離れない。
「だが……エラーラを見ていると、どうにも胸の中で抑えられない気持ちになる」
「…………」
何ですって?
私が眉をひそめるより先に、ロインがぱっと顔を輝かせた。
「まあ! それは大変ですわ!」
「…………」
「それって、もしかして恋なのですか?」
「「ふざけるな」」
私とジョミナーの声が、見事に重なった。
「…………」
「…………」
しまった。
思わず反応してしまった。
ロインは、そんな私たちを交互に見て――。
「ふふっ。お二人とも、やっぱり仲がよろしいのですね」
嬉しそうに笑った。
(……まずい)
完全に、ロインのペースに飲まれている。
落ち着け、私。
何をしにここへ来たのか、忘れたわけではないだろう。
「二人とも邪魔よ」
私は、できるだけ冷静な声で言った。
「私はケーキ作りに真剣に取り組んでいるの。用がないなら、出ていってちょうだい」
「あっ……そうでしたね。ごめんなさい、エラーラ様」
ロインは素直に頭を下げた。
「一人でケーキを作るのは大変だと思いますが、頑張ってくださいね」
「…………ええ」
「そういうことだ、ロイン。俺もあまり長居はしたくない」
ジョミナーはそう言うと、ロインの腕を取った。
「ちょ、ちょっと、ジョミナー! 自分で歩けますわ!」
「いいから、行くぞ」
「もう……!」
ロインは引っ張られながらも、最後までこちらを気にしていた。
「エラーラ様! 何かあったら、いつでも言ってくださいね!」
そう言って、笑顔で手を振る。
その隣では、ジョミナーが私を睨みつけていた。
まるで、私が少しでもロインに近づけば許さないとでも言いたげに。
――バンッ。
扉が閉まった。静寂が戻る。
「ふぅ……」
私は椅子に座り込んだ。
肩に入っていた力が、一気に抜けていく。
(……危なかった)
私は、そっと隠していたナイフを取り出した。
刃を見つめながら、先ほどの自分の行動を振り返る。
つい先ほどまで、これでロインを殺そうとしていた。
確かに、二人きりだった。チャンスだと思った。
けれど――。
(……その後は?)
殺したあと、どうするつもりだったのだろう。
誰かに見つかったら?証拠をどう隠す?
そもそも、ここからどうやって立ち去る?
何一つ考えていなかった。
それに――心のどこかでは、分かっていたのかもしれない。
今ここでロインを殺すのは、無理だと。
それなのに、私はナイフを握った。
「…………」
私は、ゆっくりとナイフを置いた。
(……つまらない)
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。
ロインを殺そうとしたことを後悔しているわけではない。
むしろ、殺意は今も消えていない。
ただ――。
あんな行き当たりばったりの行動で、何かを成し遂げたつもりになるのは御免だった。
(……私らしくもない)
私は、このゲームを知っている。誰が主人公で。
誰が攻略対象で。どんな出会いがあり、どんなイベントが用意されているのか。
もちろん、完全にすべてを覚えているわけではない。
それでも、何も知らない人間よりは、この世界のことを理解している。
なのに、私は何をしていた?
ただナイフを握り、目の前の相手を刺そうとしただけ。
そんなことなら、この世界の知識など必要ない。
「…………」
ふと、あの光景が脳裏をよぎった。
ロインと一緒にケーキを作る私。楽しそうに笑うロイン。
そして、その隣にいるエラーラ。
まるで、最初からそうなることが決まっていたかのような一枚絵。
(……あれを否定したかった?)
考えてみれば、あの光景を見てから、私は妙に落ち着かなかった。
ロインと仲良くなる。ロインと笑い合う。
ロインと一緒に、幸せそうな時間を過ごす。
そんな未来を、世界が勝手に用意している。
……反吐が出る。
私はロインを殺すつもりなのだ。
彼女の物語を楽しむためでも、彼女の友達になるためでもない。
それなのに、この世界は私を彼女の隣に立たせようとする。
まるで、私が何を望んでいるのかなど、最初からどうでもいいと言わんばかりに。
「…………ふふっ」
私は、思わず笑った。
そう。気に入らないのだ。
ロインが主人公であることも。
彼女のために人々が集まることも。
そして、私にまで与えられた役割を、世界が勝手に決めようとしていることも。
ならば――。
壊してやればいい。
ロインを殺す。
それは変わらない。
けれど、ただ殺すだけでは足りないのかもしれない。
彼女が歩くはずだった物語。彼女の周りに集まる人々。
彼女が当然のように手にするはずの幸福。
そうしたものを、私は本当に何一つ考えずに壊してしまっていいのだろうか。
……いや。
考える必要なんてない。
何を壊すか。どこまで壊すか。
それを決めるのは、私だ。この世界でも。
この物語の中でも。
私は、与えられた役を演じるつもりなどない。
悪役令嬢だから悪いことをするのではない。
世界が私を悪役として扱うから、仕方なく悪になるのでもない。
私が、自分の意思で悪を選ぶ。
だって、私は悪だから。
そして――。
その結果に、誰の許しも必要としない。
「……ふふっ」
口元が、自然と歪んだ。
ナイフで刺すだけなんて、あまりにもつまらない。
私は、このゲームの世界を知っている。
ならば、その知識を使わない手はない。
普通の人間なら思いつかないことを。
この世界の人間が予想もしないことを。あんなノイズにだって、私の邪魔はさせない。
そして、物語そのものが想定していないことを。
私は、自分の意思で選んでやる。
「……悪なら、もっと非道にならなきゃね」
私は、にやりと笑った。
そのとき、ふと調理台の上に目が留まった。
使い終わったボウル。散らばった小麦粉。
まだ片付けていない調理器具。
「…………」
……まあ。
さすがに、これを放置して帰るわけにはいかない。
「……笑っても、ゲームのように次の展開にはいかないのよね」
ここはゲームではない。
笑ったところで画面が切り替わるわけでもなければ、都合よく次のイベントが始まるわけでもない。
自分で動かなければ、何も始まらないのだ。
「……今日はもう、片付けましょう」
私は袖を整え、調理台へ向き直った。
悪になるのも、楽ではない。
けれど――。
だからこそ、面白いのかもしれない。




