悪の道は甘くない
翌朝。
「…………」
眠い。
とにかく、眠い。
昨日は放課後から、初めてのケーキ作りに挑戦した。
結果は惨敗。
おまけに、散らかったキッチンの掃除まで待っていた。
おかげで、部屋に戻った頃にはすっかり疲れ果てていた。
当然、十分に眠る時間もなかった。
「……これ、腕が筋肉痛ね」
私は腕を軽く回した。
確かに、昨日は色々なものをかき混ぜた。
けれど、たかがケーキ作りだ。
それだけで筋肉痛になるなんて。
「…………」
改めて、自分の腕を見る。
……貧弱すぎない?
普段から力仕事なんてしないのかもしれない。
そう考えると、妙に納得できてしまった。
「…………はぁ」
私はため息をつく。
なぜ、ゲームの世界なのに、こういうところだけ妙に現実的なのだろう。
ゲームなら、料理スキルがゼロでも、
アイテムを選んでボタンを押せば完成してくれてもいいじゃない。
「……まあ、いいわ」
私は鞄からノートを取り出した。
昨日の失敗を、いつまでも引きずっているわけにはいかない。
今日は今日で、やるべきことがある。
私は朝の準備を済ませ、三階にある教室へ向かった。
◇
教室には、まだ教師の姿はなかった。
生徒たちはそれぞれ友人と話したり、授業の準備をしたりしている。
いつもと変わらない朝の光景。
けれど、私だけは少し違った。
「…………」
机の上には、二冊のノート。
一冊は普段の授業で使っているもの。
もう一冊は――。
昨日のケーキ作りで使ったレシピと、私が書き込んだ記録をまとめるためのものだった。
私はレシピを開く。次に、自分のノートを開く。
そして、交互に見比べた。
「…………」
どこで失敗したのか。
何が悪かったのか。レシピの手順を間違えたのか。
材料の分量を間違えたのか。それとも、火加減や焼き時間に問題があったのか。
「…………」
考え始めると、次々に疑問が浮かんでくる。
私はペンを手に取り、ノートに書き込んだ。
失敗したこと。上手くいったこと。
自分が覚えている限りの手順。思い当たる原因。
そして、次に試すべきこと。
とにかく、書く。思いついたことは、何でも書く。
必要かどうかなんて、後から考えればいい。
私は昔から、そうしてきた。
ブラック企業に勤めていた頃。
私は、とにかく何でもノートに書き残していた。
上司から言われたこと。仕事で必要な情報。
その場では意味が分からなかった指示。
いつか必要になるかもしれない知識。
今思えば、どうでもいいことまで書いていた気がする。
けれど――。
何を聞かれても答えられるように。何か問題が起きても、すぐに対応できるように。
そうやって、必死に書き続けていた。そのおかげで、身についたこともある。
情報を整理すること。原因を探ること。
そして、分からないことを分からないまま放置しないこと。
「…………」
私は、自分のノートを見下ろした。
前の世界で身につけた、数少ない実用的なスキル。
それが――。
今も役に立っている。
実際、私はゲームを攻略する時も、同じことをしていた。
『恋する姫と終わらない奇跡』。
あのゲームをプレイしていた頃、私は独自の攻略ノートを作っていた。
イベントの発生条件。選択肢による好感度の変化。
攻略対象ごとのイベント。期間限定のイベント。
細かい条件や、見落としやすい情報まで。
とにかく、分かったことを片っ端から書き込んでいた。
攻略サイトの情報と照らし合わせることもあった。
けれど、最終的には――。
自分のノートの方が、ずっと詳しくなっていた。少なくとも、私が知りたい情報については。
「…………」
何でも書いていくうちに、見えてくるものがある。
一つひとつの情報は、些細なことかもしれない。
けれど、それらを並べてみると、思いがけない共通点が見つかることもある。
だから今回も、同じようにすればいい。
私はノートに、新しく見出しを書いた。
――チョコレートケーキ攻略。
その下に、昨日の失敗を一つずつ書き出していく。
卵を混ぜすぎた。小麦粉を勢いよく入れすぎた。
チョコレートを焦がした。焼き上がりを何度も確認した。
生地の状態も、思っていたものとは違った。
「…………」
そして、レシピと照らし合わせる。
本当に分量は合っていたのか。手順は間違っていなかったのか。
次は何を変えるべきなのか。
キルザに会いに行くまで、あと三日。
その間に、アンラを攻略しなければならない。
そのためには、チョコレートケーキを完成させる必要がある。
「…………」
間に合うのだろうか。
そもそも、私は本当にケーキを作れるようになるのだろうか。
不安は尽きない。
けれど、ペンを動かしているうちに、少しずつ頭の中が整理されていく。
ノートは文字で埋まり、余白には簡単な図まで描き込まれていった。
気がつけば、私は夢中になっていた。
「…………」
……うん。
いい。この感じ。
バラバラだった情報が、少しずつ形になっていく。
原因を探し、可能性を考え、次に試すことを決める。
私は、この作業が好きだった。ノートが文字や図でいっぱいになっていく。
それを見ると、不思議と満足感が湧いてくる。
胸の奥が、少しだけ高揚する。
まるで、攻略の糸口を掴んだような気分になる。
……けれど。
「…………」
私は、ふとペンを止めた。
ノートを見下ろす。そこには、びっしりと文字が並んでいた。
失敗の原因。改善案。
次に試すこと。考えられる可能性。
これだけ書けば、きっと何か分かるはずだ。
そう思っていた。
けれど――。
「……チョコレートケーキは、所詮チョコレートケーキなのよ」
そう。
いくらノートを埋めたところで、ケーキが完成するわけではない。
結局のところ。私は、料理が下手なのだ。
「…………」
さっきまでの高揚感が、急にしぼんでいく。
……正直に言えば。
ノートに書き込んでいた時間は、ただのストレス発散だったのかもしれない。
もちろん、無駄ではないと思う。
けれど、どれだけ分析したところで、実際に作る技術がなければ意味がない。
「…………はぁ」
私はペンを置いた。その時だった。
「なに書いてるの?」
「うわぁっ!?」
突然、耳元から声がした。
私は思わず肩を跳ねさせた。
「ちょっ……! びっくりした! それ、やめなさいよ!」
「…………?」
隣には、いつの間にかアンラが立っていた。
相変わらず、何を考えているのか分からない顔。
私の反応を気にする様子もなく、アンラは机の上のノートを覗き込んだ。
「…………」
そして、文字で埋まったページを眺める。
「もしかして、ケーキ作ってるの?」
「……まあ、そんなところよ」
私はノートを閉じようとした。
けれど、アンラはそれより先に、別のページへ視線を移した。
「へえ。いっぱい書いてるね」
「…………」
「失敗したところとか?」
「……そうよ」
「ふーん」
アンラは、特に感心した様子もなく頷いた。
そして――。
「ウィクス家だから用意できるって言ってたのに、できなかったんだね」
「…………」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
……この子。今、何と言った?
「…………」
いや。落ち着きなさい、エラーラ。
アンラに悪意があるとは限らない。
おそらく、ただ事実を口にしただけだ。
そう。この子は、たぶん天然なのだ。
「…………」
だからこそ、余計に腹が立つ。
「……何が言いたいのよ」
私はアンラを睨んだ。
「チョコレートケーキのホールなんか、もう期待できなくなっちゃったって思って」
「…………」
……この子。
やっぱり、わざと言っているのではないだろうか。
いや。アンラの表情を見る限り、どうやら本気で言っているらしい。
それが余計に腹立たしい。
「それはどういう意味よ」
「うーん……」
アンラは少し考えるように首を傾げた。
「だって、エラーラって見るからに料理したことなさそうだし」
「…………」
「それに、エラーラって貴族でしょ?」
「……そうだけど」
「だったら、普段は使用人に何でもやらせてるんじゃないの?」
「…………」
「なんていうか、面倒なことは全部、人に押しつけるタイプ?」
「…………」
……違う。
いや、元のエラーラなら、あながち間違いでもないのかもしれない。
けれど、今の私に向かって言うことではないだろう。
私は拳を握りしめた。
この子、どこまで言えば気が済むのだろう。
すると――。
「なんていうか……」
アンラが、私の顔をじっと見つめた。
「『悪役の令嬢みたい』なんだよね」
「…………」
その瞬間。
さっきまで胸の中で膨らんでいた苛立ちが、ふっと消えた。
「…………え?」
私は思わず聞き返した。
悪役の令嬢。
悪役令嬢。
「…………」
……なんだろう。
どうして、今の言葉がこんなに引っかかるのだろう。
私は、自分が何者なのかを知っている。
少なくとも、普通の人間ではない。
この世界で、私はエラーラ・ウィクスとして生きている。
そして――。
私は、悪になると決めた。
「…………」
なのに。
アンラの言葉を聞いた時、なぜか怒る気が失せてしまった。
むしろ、少しだけ。
笑いそうになった。
「…………?」
アンラが不思議そうに首を傾げる。
「あれ?」
「…………」
「ちょっと言い過ぎちゃった?」
アンラは、ようやく自分の発言を振り返ったらしい。
「怒ってない?」
「…………」
私はアンラを見つめた。
この子は、私を怒らせるつもりだったのだろうか。
それとも、本当に何も考えていないのだろうか。
……たぶん、後者ね。
「……別に」
私はノートを閉じた。
「怒ってないわよ」
「ほんと?」
「ええ」
「そっか」
アンラは、あっさりと頷いた。
「なら、よかった」
「…………」
……本当に、調子が狂う。
私は小さく息を吐いた。
けれど――。
さっきの言葉が、まだ頭の片隅に残っていた。
悪役の令嬢。
「…………」
私は、閉じたノートに目を落とす。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
……悪役令嬢、ね。
確かに、私は貴族だ。
料理なんて、できなくても生きていける。
使用人に任せればいい。
わざわざ自分で作る必要なんてない。
――普通なら。
「…………」
でも。
私は、アンラにチョコレートケーキを食べさせると決めた。
それも、ホールで。ここで失敗したまま終わるなんて、あり得ない。
だって――。
私は、悪なのだから。
この程度のことで、引き下がるわけにはいかない。
その時だった。
キーン、コーン――。
授業開始の鐘が鳴り響いた。
そして、鐘の音に重なるように。
「ケーキ、完成させて見せるわ」
「……え?」
アンラが目を瞬かせる。
「何か言った?」
「…………」
私は、ゆっくりとアンラを見た。
「何も」
「ふーん?」
アンラは不思議そうに首を傾げたあと、あっさりと自分の席へ戻っていった。
「…………」
……よし。
明日こそ、絶対に成功させてみせる。
チョコレートケーキ攻略、二日目。
今度こそ、勝つわ。




