キルザ・アショル
私は扉を見る。
来た。そう思った。
ラベンも、ゆっくりと顔を上げる。
「……お兄ちゃん?」
「…………」
扉の向こうに、人影が立っていた。
暗くて、顔まではよく見えない。
けれど。私は知っている。
キルザ・アショル。
四人いる攻略対象の一人。
暗殺者。ゲームの中で、何度も見た。
「…………」
私は立ち上がった。
そして――。
振り返ろうとした。
その瞬間。
「…………っ」
背中に、冷たい感触が触れた。
「動くな」
低い声。
「…………」
私は固まった。
背中に、何かが押しつけられている。
ナイフ。間違いない。
「そのまま外へ出ろ」
「…………」
私は動かなかった。
「聞こえなかったか?」
刃が、ほんの少しだけ背中に食い込む。
「外へ出ろ」
「…………分かったわ」
私はゆっくりと歩き始めた。
後ろから、キルザがついてくる。
ラベンの前を通り過ぎる。
「…………」
私は一度だけ、彼女を見る。
ラベンも、不安そうにこちらを見ていた。
けれど。私は何も言わなかった。
そのまま家の外へ出る。
扉が閉まった。
ギィ……。
夜の冷たい空気が、頬を撫でる。
「…………」
私はゆっくり振り返った。
目の前に、一人の男が立っている。
黒い服。鋭い目。
そして――。
手にはナイフ。
ゲームで何度も見た。
攻略対象。
キルザ・アショル。
けれど。
ゲーム画面越しに見ていた時とは、まるで違った。
怖い。そう思った。
「…………」
キルザが私を見る。
「ラベンに何をした?」
「…………え?」
「答えろ」
低い声。
「妹に何をした?」
「何もしていないわ」
「なら、なぜここにいる?」
「…………」
「なぜ、この場所を知っている?」
キルザの目が細くなる。
「まさか――」
一歩。こちらへ近づく。
「追っ手か?」
「違うわ」
私はすぐに答えた。
「追っ手じゃない」
「なら何だ」
「…………」
私はキルザを見る。ここまで来た。
ずっと探していた。
だから――。
「あなたに会いに来たのよ」
「…………」
キルザの眉が僅かに動く。
「……は?」
「あなたに会うために、ここへ来たの」
「おい」
声が低くなる。
「あまり、俺を舐めるなよ」
「…………」
「俺の質問だけに答えろ」
キルザが一歩近づく。
「お前は何者だ?」
「…………」
「なぜ、この場所を知っている?」
「…………」
「ラベンに何をした?」
「何もしていないわ」
「なら――」
キルザの手が動いた。次の瞬間。
「…………っ!」
ナイフが――。
喉元に突きつけられた。
「…………」
冷たい。
ほんの少しでも動けば。
そう思わせる距離だった。
「質問に答えろ」
キルザの声は、冷たかった。
「答えないなら――」
「…………」
「殺すぞ」
「…………っ」
心臓が跳ねた。怖い。
初めてだった。ゲームの中では、どれだけキルザが危険な男でも。
私は画面のこちら側にいた。
何度失敗しても。
ロードすればいい。何度でもやり直せる。
でも――。
今は違う。
「…………」
喉元に当てられた刃が。妙に現実的だった。
私は息を飲む。声が出ない。
さっきまで。私は余裕だった。
ゲームの知識がある。
キルザのことを知っている。
ラベンのことも知っている。
だから大丈夫。
そう思っていた。
けれど――。
そんなもの。
ナイフ一本で、簡単に吹き飛んだ。
「…………」
怖い。そう思った。
その時だった。
「だめーっ!」
「…………!」
家の方から声が響いた。
「ラベン……?」
キルザが振り返る。見ると。
さっきまでベッドにいたはずのラベンが。
家の外へ出てきていた。
「エラーラさんに……」
ラベンが苦しそうに息をする。
「……何もしないで……!」
「ラベン!」
キルザが慌てて駆け寄る。
その瞬間。ラベンの身体が――。
「…………」
力を失った。
「ラベン!」
キルザが倒れかけた身体を抱き止める。
「…………」
私は呆然と、その光景を見ていた。
キルザはラベンを抱えたまま、私を見る。
「…………」
さっきまでの殺気が、少しだけ薄れていた。
「……話は」
キルザが低く言う。
「家の中でしよう」
「…………」
私は一瞬だけ迷った。
けれど。
「……そうね」
頷いた。
キルザはラベンを抱えたまま、家の中へ戻っていく。
私はその後ろをついていった。
◇
キルザはラベンをベッドへ寝かせた。
布団をかける。
その手つきは――。
驚くほど優しかった。
「…………」
私は黙って見ていた。
しばらくして。
ラベンの呼吸が落ち着いたことを確認すると。
キルザはゆっくりと立ち上がった。
「…………さて」
こちらを見る。
「本当なら――」
キルザの目が細くなる。
「お前を殺すところだった」
「…………」
「だが」
キルザはラベンを見る。
「なぜかは知らないが」
「ラベンがお前を気に入ったらしい」
「…………」
「だから、止めた」
キルザは椅子に座る。
「……話だけは聞いてやる」
「…………」
私はキルザを見る。
そして――。
(……うまくいった)
心の中で、そう思った。ここまで来れば。
あとは話をするだけ。
私は最初から。
ここに来ればキルザに会えると思っていた。
そして。
この家に――。
病弱なラベンがいることも知っていた。
だから。先にラベンに会った。
話をして。少しだけ仲良くなって。
もしキルザに殺されそうになっても。
ラベンが止めてくれる。
そう考えた。もちろん。
確証なんてない。
ゲームでは、そんな場面はなかった。
私が勝手に推測しただけ。
ゲームの知識と――。
私自身の賭け。
「…………」
正直。
ナイフを喉元に突きつけられた時は。
本当にどうしようかと思った。
ラベンが出てきてくれなかったら。
私は――。
「…………」
私は小さく息を吐く。
そして。キルザを見る。
彼は、まだ私を警戒している。
当然だ。
突然現れた女。
自分の妹と話していた女。
しかも、自分の居場所を知っていた。
怪しまない方がおかしい。
「…………」
でも。ここからだ。
私はキルザに会うために来た。
そして――。
ようやく。その機会を手に入れた。
「…………」
心臓はまだ、バクバクとうるさい。
さっき喉元にナイフを突きつけられた恐怖が、完全に消えたわけじゃない。
けれど――。
今は、怯えている場合じゃない。
私は背筋を伸ばした。落ち着いて話そう。
これ以上、相手を怒らせる必要もない。
「簡単な話よ」
私はキルザを見る。
「仕事を頼もうと思って」
「…………」
キルザは少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
そして、納得したように呟く。
「そういうことか」
「ええ」
「俺の仕事を知っているということだな」
「そうね」
私は頷いた。
「あなたは暗殺者なんでしょ?」
「ああ」
キルザはあっさりと認めた。
「だが――」
キルザは私を見る。
「こんな女に、俺の顔を知られているとはな」
「…………」
「暗殺者失格だ」
「そんなこと言われても困るわね」
私は肩をすくめる。
キルザは少しだけ黙った。
「……まあいい」
そして、淡々と話し始める。
「俺は基本的に、依頼人と直接やり取りはしない」
「依頼の手紙が届く」
「そこに書かれた内容に従い、標的を殺す」
「そして、依頼主が標的の死を確認すれば報酬が支払われる」
「そういう仕組みだ」
「…………」
「直接やり取りをする時は――」
キルザが懐へ手を入れる。
「こうする」
取り出されたのは、白い仮面だった。
そこには――。
赤い目が一つだけ描かれている。
キルザは、それを顔につけた。
「…………」
私は、その仮面を見つめる。
知っている。ゲームの中でも何度も見た。
「……隻眼の仮面」
「…………」
キルザの動きが止まる。
「そう」
仮面の奥から、低い声が響いた。
「そこまで知っているか」
「ええ」
「お前は本当に……」
キルザは少しだけ黙る。
「……まあいい」
仮面を外す。
「仕事の話をしようか」
「ええ」
私は頷いた。
ここからが本題だ。
「ある学生を殺してほしいのよ」
「…………」
キルザの目が細くなる。
「誰だ?」
「…………」
一瞬だけ。私は黙った。本当なら。
ここで言いたい名前は決まっている。
ロイン・デルフォル。
私が殺すと決めた女。
この世界に来てから。
ずっと。その名前を追い続けてきた。
けれど――。
ロインだけは。
他人に殺させるつもりはない。
あの女は。私自身の手で殺す。
誰にも譲らない。
だから。
キルザに頼むのは――。
別の人間。
「私が殺してほしいのは――」
私はキルザを見る。
「ジョミナー・オーサーという人物よ」
「…………」
キルザは何も言わない。
ただ、私を見ている。
「…………」
私は、その視線を受け止めた。
ジョミナー。ロインの幼馴染。
そして、攻略対象の一人。
今の私にとっては――。
ロインを殺すために、邪魔になる存在。
ロインのそばにいる。
ロインを守る。
そんな人間を残したまま、ロインを狙うのは面倒だ。
だから――。
先に消えてもらう。
それだけ。
「…………」
私は、それ以上何も言わなかった。
キルザも何も聞かなかった。
ただ、しばらくの間。
静かな部屋に沈黙だけが流れる。
やがて――。
「…………分かった」
キルザが、短く答えた。
「…………」
私は、静かに頷いた。
これでいい。
ロインは――。
私が殺す。
そのために。
まずは、ジョミナーを消す。
「…………」
キルザが黙った。
「…………」
私は表情を変えない。
心臓は、まだうるさい。
けれど。
今度は、さっきとは違う。
これは恐怖だけじゃない。
――賭けだ。
私はキルザという新しい駒を。
私は手に入れようとしている。




