ゲームオーバー
私の人生は、ゲームオーバーだった。
薄暗い部屋。
カーテンは閉めっぱなしで、昼なのか夜なのかも分からない。
部屋を照らしているのは、目の前にあるテレビ画面だけだった。
時計を見る気力すらない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
社会に出れば、何かが変わると思っていた。
新しい環境。新しい人間関係。
頑張れば、普通になれると思っていた。
だけど。現実は、そんなに甘くなかった。
会社に入って一年。毎日怒られた。
周囲に馴染めなかった。自分が何のために働いているのかすら、分からなくなった。
気付けば、私は退職届を書いていた。
親には、まだ辞めたことを話していない。
心配をかけたくなかったのか。
それとも、失敗した自分を認めたくなかっただけなのか。
自分でも分からなかった。友達もいない。
連絡を取る相手もいない。
何かを始めようと思っても、結局続かない。
「このままじゃ駄目だ」
そう思う。何度も思った。
でも。
思うだけで、一日が終わる。そんな時だった。
部屋の隅に置かれていた、一つのゲームソフトが目に入った。
『恋する姫と終わらない奇跡』
初めての給料で買った乙女ゲーム。
買った時は、まさかこのゲームが、自分を支えるものになるなんて思ってもいなかった。
最初は、ただの暇つぶしだった。
だけど、いつの間にか夢中になっていた。攻略ルートをノートに書き出した。
好感度の上昇条件を調べた。自分だけの攻略チャートまで作った。
あの頃の私は、このゲームを心から楽しんでいた。
けれど――。
今は違う。
何周したのかも覚えていない。
ゲームを起動する。
クリアする。
また最初から始める。
それだけ。現実では何一つ終わらせられない私が、唯一終わらせることができるもの。
それが、このゲームだった。
そんな私にも、一つだけ特別に好きな存在がいた。
主人公でもない。攻略対象でもない。
悪役令嬢――。
エラーラ・ウィスク。
婚約者に婚約破棄を告げられ、物語から消えていく少女。
何度見ても思った。
……少し、私に似ている。
誰にも必要とされない。
何かを残すこともできない。
最後には、物語から退場する。
まるで、自分を見ているようだった。
だから私は、このキャラクターが好きだった。
その日も、いつものようにゲームを起動する。
見慣れたイベント。王子のお茶会。
画面の中には、攻略対象の一人。
第二王子――セレブス・ノーブル。
そして、その隣には主人公がいた。
『ウィスク家の事情は、ロインから聞いた!』
その名前を聞いて、ふと思い出した。
そういえば、主人公の名前。
最初の頃は、自分で名前を決めていた。
でも、何周もするうちに入力するのが面倒になって、そのまま始めるようになった。
だから、これがゲームのデフォルト名。
ロイン・デルフォル。
『私は自分の意思で未来を選ぶ!』
『エラーラ・ウィスク。この婚約は――』
その瞬間だった。
ザァァァァァ……。
画面が砂嵐に変わった。
「……え?」
テレビの故障?ゲーム機の不具合?
リモコンを押しても、何も反応しない。
だけど。違った。
砂嵐は、画面の中だけではなかった。
白黒のノイズが、テレビから溢れ出してくる。
部屋を。壁を。床を。
少しずつ侵食していく。
「な、何これ……」
立ち上がろうとする。
でも、身体に力が入らない。
息が苦しい。視界が歪む。
ああ。そうか。
私は――。
ここで終わるんだ。
その時だった。
砂嵐の向こうから、少女の声が聞こえた。
「私は悪のために作られた存在」
彼女はそう言って、静かに微笑んだ。
その笑顔は悲しそうで、それでいて、どこか救われたようにも見えた。
「私は最後まで悪になれなかった」
「決められた運命の中で、ただ退場することしかできなかった」
彼女はゆっくりと私へ手を差し伸べる。
「だから――あなたに託したい」
「私の願いを」
私は、その手を見つめた。
どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。
初めて会ったはずなのに。
昔から知っていたような気がする。
気が付けば、私はその手を握っていた。
温かかった。生きている人の手のように。
エラーラは、嬉しそうに目を細める。
「私の悪を、最後まで貫いてほしい」
「だって私は――悪だから」
そして。
彼女と私が重なり合う。
「「ゲームスタート」」
世界が白く弾けた。
◇
風が頬を撫でる。紅茶の香り。
鳥のさえずり。
「聞いているのか! エラーラ・ウィスク!」
目を開ける。
目の前には、第二王子セレブス・ノーブル。
隣には主人公、ロイン・デルフォル。
そして、姿見に映るのは――。
銀髪のツインドリル。悪役令嬢、エラーラ・ウィスク。
私は笑った。
会社もない。これまでの人生も、終わった。
そして。
ここにいる。
もう、失うものなんてない。
だったら。
「……ふふ」
自然と笑いが漏れた。
「ふふふ……」
自分でも分からない。嬉しいのか。
悲しいのか。それとも、壊れてしまったのか。
ただ。
笑うしかなかった。
「どうした? エラーラ」
セレブスが怪訝そうな顔をする。
私はゆっくりと彼を見る。
「何でもありませんわ」
そう答えながら、確信する。
私は転生した。
よりにもよって。一番好きだったキャラクターへ。
一番好きだった退場シーンに。
なら――。
このままゲーム通りに終わるなんて。面白くない。
記憶が完全に繋がっていく。
このイベントは、ロインが偶然、私とメイドの会話を聞くことから始まる。
ウィスク家は、家の利益のためにセレブスとの婚約を望んでいた。
その事実を知ったロインは、セレブスへ伝える。
そして、婚約破棄。それがゲームの流れ。
だけど。今回は違う。
なぜなら。
ここにいるのは――。
エラーラではない。
私だから。
視線を向ける。そこにはロインがいた。
優しい表情。迷いのない瞳。
誰かを疑うことを知らないような顔。
(この子が……ロイン)
胸の奥がざわつく。羨ましい。
眩しい。
そして――。
少しだけ。憎い。
(あなたは、何も知らないのね)
絶望も。孤独も。
何もかも。
その時だった。
「貴様とは婚約を破棄させてもらう!」
セレブスの声が庭園に響いた。
始まった。ゲームと同じ展開。
なら。
私は。ゲームには存在しなかった選択をする。
ゆっくりと顔を上げる。口元が緩む。
(そんな終わり方……)
(するわけないでしょう?)
一歩。前へ出る。
そして――。
パァンッ!!
乾いた音が庭園に響いた。
私の手が、セレブスの頬を叩いていた。
一瞬。世界から音が消えた。
誰も動かない。誰も声を出せない。
その瞬間。
ザッ――。
小さなノイズが、世界を走った。
(……一瞬、何?)
違和感。
まるで、この世界そのものが何かに反応したような感覚。
でも。
私は気にしなかった。
「……今、何をした?」
頬を押さえながら、信じられない顔で私を見る。
私は微笑む。
「婚約破棄?」
ゆっくりと言葉を続ける。
「ええ」
「そんなもの――」
一呼吸置いて。
「こちらからお断りいたしますわ」
言ってやった。
何十回もゲームをして。何度も思った。
どうしてエラーラは何も言わないのか。
どうして黙って消えるのか。
その答えを。
今。
私が出した。
そう言い残し、その場を去る。
テーブルに置かれたあるものを、袖へ忍ばせながら。
「待ってください!」
予想どおり、ロインが追いかけてくる。
主人公であるロインの性格は、私が一番理解している。
必ず追いかけてくると思っていた。
「エラーラ様!」
人気のない廊下。
誰もいない。私は立ち止まる。
「エラーラ様……どうしたのですか? さっきのは一体……?」
ロインは、私のさっきの行動に戸惑っている。
「エラーラ様……本当に、エラーラ様なのですか?」
ロインは、心配と同時に疑いながら聞いてくる。
「ロイン……」
「はい。なんでしょうか?」
戸惑うロインへ、一歩ずつ近づく。
「私はね」
テーブルから持ってきたものを手にする。
「どうせ退場するなら」
もう一歩。
「めちゃくちゃにしてやりたかったの」
そして――。
私は、ロインへ刃を向けた。
「これが今のエラーラよ」
ロインは震えながら私を見る。
「エラー……ラ様……」
私は静かに呟く。
「私は悪のために作られた存在」
世界が軋む。
「なら、最後まで悪を貫きましょう」
ノイズが空を覆う。
「だって私は――悪だから」
ザザザザザザザザッ――!!
白黒のノイズが世界を呑み込む。
空が割れる。
世界そのものが、書き換わっていく。
そして私は、小さく笑った。
「ゲームオーバー。」




