月雫
火のついたマッチを見つめたまま、私はヤーショルの反応を待った。
「…………」
ヤーショルは何も言わない。
ただ、私の手元にある小さな炎を見つめていた。
先ほどまでの余裕は、もうどこにもない。
「……分かったっす」
やがて、ヤーショルがゆっくりと口を開いた。
「そう」
私はマッチの火を吹き消した。
小さな煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
「話が早くて助かるわ」
「……ただし」
ヤーショルの声が低くなる。
「条件があります」
「聞きましょう」
「月雫を十本」
「…………」
私は目を細めた。
「十本?」
「ええ」
ヤーショルは指を十本立てるようにして笑った。
「十本いただけるなら、ウィクス家の借金はすべて帳消しにするっす」
「今は五本しかないわ」
「だから、何か問題でも?」
「なら、無理でしょう」
「ええ」
ヤーショルは平然と言った。
「十本は絶対っすね」
「…………」
「十本は絶対。それができないなら――」
ヤーショルはちらりと樽を見る。
「その樽、燃やしても構わないっすよ」
「…………」
今度は私が黙る番だった。
(……やられた)
まさか。私が使った脅しを、そのまま返してくるなんて。
ヤーショルは、月雫そのものだけではなく、この樽に価値があることも理解している。
だからこそ、私が樽を燃やせないと思っている。
(……でも)
私は樽を見た。
(残り五本なら……作れると思う)
トニックが残した製法。
月雫を作るためには、この樽が必要になる。
時間はかかる。
けれど――。
(十本なら、間に合う)
私は顔を上げた。
「いいわ」
「……え?」
「十本、用意する」
ヤーショルの目が僅かに見開かれた。
「ただし、一日ちょうだい」
「一日……」
「それ以上は待たせないわ」
ヤーショルはしばらく私を見つめていた。
そして――。
「分かりました」
口元に笑みを浮かべた。
「楽しみにしているっすよ」
◇
翌日。
私はトニックおじい様の残した製法を使い、月雫を仕込んだ。
簡単な作業ではなかった。
けれど、幸いにも残された記録には必要な工程が細かく記されていた。
トニックは熟成に時間をかける必要のない製法を残していた。
そして――。
「十本」
机の上に並べられた瓶を見つめる。
「これでいいわね」
ナイナは目を丸くしていた。
「本当に十本になりました……」
「当然でしょう」
「でも、一日で……」
「私を誰だと思っているの?」
「エラーラ様です!」
「……そういうところは素直ね」
私は小さく笑った。
そして約束通り、十本の月雫をヤーショルへ渡した。
「これで、借金は?」
「すべて帳消しっす」
ヤーショルは約束通り答えた。
「これでウィクス家の土地も屋敷も、こちらから手を出す理由はありません」
「そう」
私は椅子に座った。これで終わり。
ウィクス家の借金問題は解決した。
――普通なら、そう思うだろう。
「……ところで」
私はヤーショルを見た。
「もう一つ、契約をしない?」
「契約?」
「ええ」
私は微笑む。
「あなたに、毎月月雫を渡すわ」
「…………」
ヤーショルの表情が変わった。
「毎月?」
「数本程度だけどね」
「それは……」
ヤーショルは少し考えた。
「私にとって、かなり魅力的な話っすね」
「でしょう?」
「ですが――」
ヤーショルは首を傾げた。
「あなたに、なんのメリットが?」
「…………」
私は待っていた。この質問を。
月雫を渡すだけなら、私に利益はない。
だからこそ。私は次のカードを切る。
「ヤーショル」
「はい」
「カリバー学園って知ってるかしら?」
「…………!」
ヤーショルの顔から、笑みが消えた。
この世界で知らない者などほとんどいない。
勇者の名を冠した、魔法と剣の学園。
そして――。
私がこれから向かわなければならない場所。
「……まさか」
「ええ」
私は椅子から立ち上がる。
「私を、カリバー学園へ入学させてほしいの」
「…………」
「正確には――」
私はヤーショルを真っ直ぐ見つめた。
「入学するための手助けをしてほしい」
「それは……」
ヤーショルが考え込む。
「簡単な話じゃないっすよ」
「分かっているわ」
「カリバー学園は身分だけで入れる場所じゃない」
「だから、あなたに頼んでいるのよ」
私は微笑んだ。
「こんな商売をしている、あなたなら、何か方法を知っているでしょう?」
ヤーショルは黙って私を見る。
しばらくして――。
「……なるほど」
その口元に、再び笑みが浮かんだ。
「あなた、本当に欲深いお嬢様っすね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
こうして。
月雫十本から始まった交渉は――。
私を、カリバー学園へと繋ぐ新たな取引へ変わった。
◇
それから数日後。
「……これが?」
私は机の上に置かれた一枚の書類を見つめていた。
「学園書っす」
ヤーショルが答える。
「ただし――」
「偽物ってことかしら」
「……はい」
私は紙を手に取った。見た目だけなら、本物とほとんど変わらない。
カリバー学園の紋章。入学者の名前。
必要な項目。どれも精巧に作られている。
けれど。
「本物は作れなかった、と」
「ええ」
ヤーショルは肩をすくめた。
「カリバー学園の門は、この学園書があれば通れるでしょう」
「でしょう?」
「門にはかなり厳しい確認がありますが、書類自体の確認なら通せるはずっす」
「なるほど」
「ただし――」
ヤーショルは人差し指を立てる。
「先生や、長年あの学園に勤めている者には注意してください」
「……見破られる可能性がある」
「その通り」
私は書類を眺める。
「本物には、何か違いがあるの?」
「あります」
ヤーショルは少し声を落とした。
「カリバー学園の女校長――ケイン」
「……ケイン」
「彼女が本物の学園書に、特殊な魔法を施しているらしいっす」
「魔法……」
「ええ。詳しいことまでは分かりません。ただ、本物にはケインの魔力が残っている」
私は書類を裏返した。当然、何も感じない。
「つまり、この偽物では完全には誤魔化せない」
「そういうことっす」
「……構わないわ」
私は学園書を懐へしまった。
「門を通れるだけでも十分よ」
「本当に行くんですか?」
「もちろん」
私は学園書を懐へしまった。
ヤーショルは、そんな私を見て小さく笑った。
「……分かりました。」
「ええ」
「それじゃあ――」
ヤーショルは、どこからか二つのグラスを取り出した。
「私たちの契約に、乾杯でもしましょうか」
「……乾杯?」
「せっかく月雫を取引したんですから。一杯くらい、いいでしょう?」
そう言ってヤーショルは、月雫の瓶を一本開けた。
透明な液体が、グラスへと注がれていく。
「…………」
私はその様子を黙って見つめていた。
そして。
「はい、どうぞ」
差し出されたグラスを受け取る。
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
「どうしました?」
「いえ……」
私はグラスの中身を見る。
月雫。
さっきまで、私が交渉材料にしていた酒。
それを今、飲む。少し妙な気分だった。
「では」
ヤーショルがグラスを掲げる。
「これからも、良いお付き合いを」
「……そうね」
私もグラスを掲げた。
そして――。
口をつける。
「…………」
私は目を瞬かせた。
「……?」
もう一口。
「…………」
何も感じない。甘くもない。
苦くもない。香りすら、ほとんど感じない。
(……水?)
私はグラスを見つめた。
どう考えても、ただの水だった。
「これはすごい……」
向かいでは、ヤーショルが目を細めている。
「私も微力ながら魔力は流れますからね」
「…………」
「なかなかうまい。少し甘みがあって、それでいて後味が――」
ヤーショルが楽しそうに語る。
「どうですか、エラーラ様?」
「…………」
私は答えなかった。
もう一度、口をつける。やっぱり同じ。
何の味もしない。ただの水。
「…………そういうこと」
私は小さく呟いた。
「え?」
「何でもないわ」
けれど、すぐに分かった。
月雫は、飲む者の魔力によって味が変わる。
ならば――。
(私には魔力がない)
当然だ。私はエラーラではない。
この世界の人間ですらない。
前世では、魔法なんて存在しなかった。
私の身体に、この世界の人間と同じような魔力があるはずもない。
(だから……味がしない)
妙に納得してしまった。
この世界に来てから、私は何度も思っていた。
鏡に映る自分の姿。知らない魔法。知らない家。知らない人々。
それでも私は、エラーラとして生きている。
けれど――。
こういう瞬間だけは、思い知らされる。
(私は……この世界の人間じゃない)
目の前では、ヤーショルが月雫を味わっている。
「いやぁ……これは確かに、価値がありますね」
「そう」
私はグラスを置いた。
「気に入ったなら何よりよ」
そして、何事もなかったように笑う。
今さら、それを気にするつもりはない。
私はこの世界で生きる。エラーラとして。
そして――。
利用できるものは、何でも利用する。たとえ、自分には味わえない酒であったとしても。
「改めて」
私はヤーショルへグラスを向ける。
「契約成立ね」
「ええ」
グラスが小さく触れ合った。
――乾杯。




