攻略
翌朝。
「…………」
私は机の上に広げた帳簿を眺めていた。
「酒……酒……酒……」
昨日から、こればかりだ。
トニックおじい様が残した帳簿。
ウィクス家がかつて行っていた商売の記録。
取引先。仕入れ先。販売先。古い契約書。
どれを見ても酒の話。
「……本当に酒しかないのね、この家」
私は呆れながらページをめくる。
土地の権利書もない。隠された財産もない。
今すぐ借金を返せるような資産もない。
ならば――。
「別の方法を探すしかないわね」
私は帳簿を閉じた。
その時。
「エラーラ様!」
扉が勢いよく開いた。
「ただいま戻りました!」
「…………」
私は顔を上げる。
そこに立っていたのはナイナだった。
「……遅いわ」
「えっ」
「遅い」
「も、申し訳ありません……」
ナイナは肩を落とす。
「ヤーショル様が、なかなか隙を見せてくださらなくて……」
「言い訳はいいわ」
「うぅ……」
私は椅子から立ち上がる。
「それより、何か分かったの?」
「はい!」
ナイナはすぐに顔を上げた。
「まず、ヤーショル様は昨日一日、ほとんど人と会っておりません」
「……そう」
「ですが、一度だけ商人の方と話していました」
「何を?」
「お酒についてです」
「…………」
私は目を細めた。
「続けて」
「はい」
ナイナは記憶を辿るように話し始めた。
「『あの酒さえ手に入れば、あの土地や屋敷だけなら安いものだ』と」
「……!」
私は黙った。
「それから、『アルゴーという男は、今ある酒にどれほどの価値があるのか知らない』とも」
「なるほど」
私は机に指を置く。
なるほど。そういうこと。
「つまり、ヤーショルが欲しいのは土地でも屋敷でもない」
「はい」
「酒ね」
「そうだと思います」
私は昨日まで読んでいた帳簿へ視線を落とす。
酒。
酒。
酒。
昨日までは、ただの酒にしか見えなかった。
けれど――。
「ナイナ」
「はい」
「ヤーショルは、どうしてアルゴーが酒の価値を知らないと言っていたの?」
「それが……」
ナイナは少し考えた。
「昔は、トニック様の周りに酒について詳しい方がたくさんいたそうです」
「…………」
「ですが、トニック様が亡くなられてから、一人、また一人と使用人が辞めていったようで……」
「それで誰も価値を知らない、と」
「はい」
「……そう」
私は椅子に腰を下ろす。
アルゴーは知らない。
この家にあるものの価値を。
ヤーショルは知っている。
だから、土地や屋敷を餌にして近づいてきた。
安く手に入れたあと、本当の目的を回収するつもりなのだろう。
「……面白いわね」
「え?」
「何でもないわ」
私は立ち上がった。
「ナイナ」
「はい」
「よくやったわ」
「……!」
ナイナの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「少し休みなさい」
「いいのですか!?」
「貴方は私の武器よ。肝心な時に使えないとね」
そういうとナイナは私に一礼だけして部屋を出ていく。
「…………」
扉が閉まった。
私は一人になる。
「さて」
私は帳簿へ向き直る。
「ヤーショルがそこまで欲しがる酒……」
普通の酒ではない。
そうでなければ、土地や屋敷より価値があるなんて言わない。
私は古い帳簿を片っ端から開いていく。
「これでもない」
次。
「違う」
さらに次。
「……これも違う」
しばらくして。
「…………?」
私は手を止めた。
古びた帳簿の隅。
そこだけ、他の酒とは違う記述があった。
『月雫』
「……月雫?」
色々酒を調べたが、初めて出てきた酒の名前。
その下には、おそらくトニックの字で短く記されていた。
『試作』
『魔力との反応を確認』
『飲み手によって風味が変化する』
「…………」
私は眉を上げた。さらに読み進める。
『同じ樽から注いだ酒であっても、飲み手の魔力量によって味が変化する』
『月の満ち欠けのように味が変わることから、月雫と名付ける』
「……魔力で味が変わる酒」
そんなものが存在するの?
私は思わず前世の感覚で考えてしまう。
(いやいや……異世界だからって、酒まで魔法仕様なの?)
少しだけ笑いそうになる。
けれど、すぐに表情を戻した。
これは笑い事ではない。
ヤーショルが欲しがっているもの。
それが本当に月雫なら――。
「……使える」
私は呟いた。続きを探す。
だが、記録はそこで終わっていた。
「…………」
私は別の帳簿を探す。
そして、一つの記述を見つけた。
『月雫は樽ごと保管』
「樽……」
私はすぐに書庫を出た。
地下。倉庫。酒蔵。古い保管庫。
屋敷中を探し回る。
そして――。
「……あった」
埃をかぶった古い樽。
表面に、薄く文字が刻まれている。
『月雫』
「…………」
私は樽を見つめた。
これが。
ヤーショルの欲しがっているもの。
土地でも。屋敷でもない。
この一本の樽。
「トニック……おじい様……」
私は静かに笑った。
「最後に、とんでもないものを残してくれたわね」
◇
その日の午後。
私はナイナを部屋に呼んだ。
「ヤーショルの狙いは、月雫よ」
「……月雫ですか?」
「ええ」
「では、それを売るのですか?」
「売らないわ」
「では……?」
「交渉する」
私は即答した。
「相手が欲しいものを持っているなら、それを使えばいい」
ナイナは少し驚いた顔をする。
「でも、ヤーショル様は土地や屋敷を買うつもりなのでしょう?」
「違うわ」
私は冷たく言う。
「土地や屋敷を餌にしているだけよ」
「……!」
「本当に欲しいものが分かっているなら、こちらが怯える必要なんてないでしょう?」
私は月雫の樽を思い浮かべる。
交渉とは、相手の欲しいものを知ること。
そして――。
それを簡単には渡さないこと。
(……まさか)
私は少しだけ苦笑する。
(前世でブラック企業相手に身につけた交渉術が、こんなところで役に立つなんてね)
前世では、いつもこちらが頭を下げていた。
無理を押し付けられ。無茶な要求をされ。
どうすれば相手が譲歩するのか、嫌というほど考えさせられた。
けれど――。
今は違う。
「ナイナ」
「はい」
「ヤーショルの前では、私に任せなさい」
「……分かりました」
「あなたは余計なことを言わなくていいわ」
「はい」
「ただし――」
私はナイナを見る。
「私が何を言っても、驚かないこと」
「……?」
「いいわね?」
「は、はい……」
ナイナは不思議そうに頷いた。
私はそれ以上、何も言わなかった。
必要なことは決まっている。月雫を交渉材料にする。
(ヤーショル攻略のルートは、これで決まった)
◇
そして翌日。
約束の日。応接室。
私は椅子に座り、ヤーショルを待っていた。
隣の部屋には月雫の樽。ナイナは私の後ろに控えている。
やがて。
「失礼するっす」
扉が開いた。ヤーショルが入ってくる。
「お待たせしました、エラーラ様」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「こちらも、ちょうど準備ができたところです」
ヤーショルが席につく。
「では」
ヤーショルが口を開く。
「ウィクス家の今後について、改めてお話ししましょう」
「ええ」
私は頷く。
「交渉を始めましょうか」
ヤーショルが笑う。
だが――。
その笑顔の裏にある欲望を、私はもう知っている。
だから私は、余裕を崩さなかった。
(利用できるものは、何でも利用する)
それが悪だというのなら――。
(私は、喜んで悪になってあげる)
ヤーショルとの交渉が、始まった。
「…………」
私はヤーショルを見つめる。
向かいに座る彼は、いつものように余裕のある笑みを浮かべていた。
「さて、エラーラ様」
ヤーショルは机に手を置いた。
「先日もお話しした通り、ウィクス家の借金についてですが――」
「その話はいいわ」
「……はい?」
「今日は別の話をしましょう」
私はそう言って、隣に視線を向ける。
「ナイナ」
「はい!」
私の後ろに控えていたナイナが返事をする。
「例のものを」
「かしこまりました!」
ナイナは元気よく部屋を出ていった。
「…………」
ヤーショルが不思議そうな顔をする。
「何かあるんですか?」
「ええ」
私は微笑む。
「あなたが本当に欲しがっているものよ」
「…………」
その瞬間。
ヤーショルの表情が、ほんの少しだけ変わった。
やはり。間違いない。
そして――。
「エラーラ様! 持ってきました!」
扉が勢いよく開いた。
「…………」
私は目を向ける。
そこには――。
大きな樽。
そして、その樽を必死に転がしているナイナがいた。
「よいしょ……! よいしょ……!」
ゴロゴロゴロゴロ。
「…………」
私は無言で見つめる。
ゴロゴロゴロゴロ。
ナイナは樽を押しながら部屋の中央までやってきた。
「つ、着きました!」
「…………」
私は眉間を押さえた。
「ナイナ」
「はい!」
「もっと丁寧に運びなさい! 何か荷台とかあったでしょう!」
「え?」
「それ、トニックおじい様が生涯をかけて作ったものよ」
「す、すみません!」
ナイナは慌てて樽を止めた。
だが――。
樽は止まらなかった。
「え?」
ゴロ……。
「えっ」
ゴロゴロ……。
「わっ、待ってください!」
ナイナが慌てて樽を追いかける。
「ナイナ!」
「はいぃ!」
どうにか樽を捕まえたナイナが、息を切らしながら戻ってくる。
「……置きます」
「最初からそうしなさい」
「はい……」
ナイナはそっと樽を置いた。
ようやく部屋が静かになる。
「…………」
ヤーショルは、樽を見つめていた。
先ほどまでの余裕が消えている。
「……それは」
低い声だった。
「まさか月雫……ですか?」
「ええ」
私は答える。
「よく知っているわね」
「…………貴方こそ、ただのお嬢様ではないようっすね」
ヤーショルは黙った。やはりそうだ。
この男は月雫の価値を知っている。
「この酒があれば――」
ヤーショルが口を開く。
「ウィクス家の借金なんて、簡単に片付くでしょう」
「そうね」
「ならば――」
ヤーショルは少し身を乗り出した。
「この樽を私に譲っていただけませんか? いい値で買いますよ」
「嫌よ」
「…………」
即答した。
ヤーショルの眉が動く。
「……理由をお聞きしても?」
「簡単よ」
私は樽に手を置いた。
「これは、おじい様が残したものだから」
「ですが、ウィクス家には借金が――」
「だから?」
「…………」
「借金があるなら、何をしてもいいと?」
私は冷たく笑う。
「ずいぶん都合のいい話ね」
ヤーショルの笑顔が少しずつ消えていく。
「……エラーラ様」
「何かしら?」
「あなたは、この酒の価値を本当に理解しているのですか?」
「もちろん」
「では、なおさら――」
「売らないと言っているでしょう」
私は言葉を遮った。
「この酒を使えば、もっと大きな利益を得られることも分かっているわ」
「…………」
「だからこそ、あなたには渡さない」
沈黙。しばらくして、ヤーショルがため息をついた。
「……困りましたね」
そして。
先ほどまでとは違う目で私を見る。
「エラーラ様。あなたはまだ若い」
「それが?」
「交渉というものを、少し甘く考えているようだ」
私は笑った。
「そうかしら?」
「ウィクス家には借金がある。土地も屋敷も、いつ失ってもおかしくない」
「ええ」
「ならば、この樽を手放し、その樽を売って今を保つのが最善でしょう」
「あなたにとっては、ね」
「…………」
ヤーショルの顔から笑みが消えた。
「……では、こうしましょう」
声が低くなる。
「その樽をこちらに渡していただけるなら、借金を帳消しにし、更に金を上乗せし、こちらで――」
「交渉は決裂ね」
「…………!」
私は立ち上がった。
「え?」
ヤーショルが目を見開く。
「エラーラ様?」
「あなた、勘違いしているわ」
私は樽の前まで歩いていく。
「私が欲しいのは、あなたの提示する条件じゃない」
「…………」
「私が欲しいのは――」
樽に手を置く。
「あなたが、この酒を欲しがっているという事実よ」
ヤーショルの顔色が変わった。
私は懐から小さな箱を取り出す。
中に入っていたのは――一本のマッチ。
「エラーラ様……?」
ナイナの声が震える。
私はマッチを一本取り出した。
シュッ。
小さな火が灯る。
「…………」
ヤーショルが立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何?」
「それを……どうするつもりですか」
「見れば分かるでしょう?」
私は火のついたマッチを、樽へ近づける。
「やめてください」
初めてだった。ヤーショルが、余裕を失った。
「それだけは……!」
私は横目で彼を見る。
「それは、トニック様が生涯をかけて作ったものです!」
「…………」
「それを燃やすなんて……正気ですか!?」
私は一瞬だけ、樽を見る。
(……エラーラには悪いわね)
(トニックおじい様にも)
けれど――。
(私は本当のエラーラじゃない)
この世界に転生してしまった以上。
私は私のやり方で生きる。利用できるものは、何でも利用する。
それが人でも。財産でも。
そして――この酒でも。
(悪役令嬢なら……これくらいできなくっちゃね)
私は静かに笑った。
「どうする?」
ヤーショルは答えない。
「もう一度だけ聞くわ」
マッチの火を見つめる。
「交渉を続ける?」
「…………」
「それとも――」
私は樽へ一歩近づいた。
「ここで終わりにする?」
火が、ゆらりと揺れる。
「なぜ、貴方はそんなことできる!?」
ヤーショルが焦る。
「だって、私は――」
私は笑った。
「悪ですから」




