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魔王討伐後遺症  作者: 面茶々


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完遂(前編)

指は、十本である。


何度数えても十本であり、爪は十枚、焼け跡は零である。私は寝台の上でこの検分を都合三度行い、三度とも同じ数字を得た。検分というものは、同じ数字が三度出たら打ち切るのが作法である。四度目を数える男は、数字を疑っているのではない。数字のほうに折れてほしがっているのである。


私は手を下ろした。


天井では、染みが犬の形をしていた。長雨の年にできた古い染みで、犬に似ていると言い張っているのは世界で私一人であり、階下の女主人は蕪だと言って譲らない。論争は三年目に入った——はずである。この「はずである」が、本日の私の全財産であった。


整理しよう。私は商人の端くれでもあるから、わからぬ事態はまず帳面につける。


貸方、昨日。魔王討伐二十周年の式典。膿んだ空。河向こうの工場。白い光と、熱と、口いっぱいの金物の味。以上をもって、私という勘定は閉じた。閉じたのである。あれを他の何かと取り違えるほど、私は粗忽な男ではない。


借方、本日。犬とも蕪ともつかぬ染み。十本の指。階下の釜の蓋の音。


差し引きが、合わない。


帳尻の合わない帳面を前にした商人のやることは二つある。帳面を疑うか、世界を疑うかである。帳面——つまり私の記憶——は、口の中にまだ金物の味の残り香を持っていた。あれは偽造できる類いの味ではない。ゆえに私は世界のほうを疑うことにした。疑うといっても、世界相手に取り立てに行く先を、私は知らない。知らないので、寝台の上で十本の指を眺めていた。それが今朝の私の、偽らざる営業内容である。


「起きなって言ったよ、英雄様。日が高い」


階下から二度目の声が来た。同じ節回しであった。昨日も——いや、この言い方がもう破産している。本日は昨日である。これを認めるのに、私は枕の上で存外長くかかった。本日は昨日であり、しかるに誰もそれを知らない。知っているのは、勘定を一度閉じて戻ってきた、この私だけである。


ならば、やることは決まっていた。


私は染みに目礼し、階段を降りた。


 


階下は酒場である。グリニスが帳簿を睨みながら竈の火を直していた。債権者の朝の顔である。この顔まで同じ寸法で揃えてくるあたり、やり直しにも手抜かりがない。


私が卓に着くと、グリニスは何も訊かずに水を置いた。一杯目は水。この店の、交渉の余地のない朝の法である。


「ゆうべの子なら、夜明け前に帰ったよ」と、グリニスは竈に向いたまま言った。「あんたが鼾をかき始めてすぐ。賢い——」


「賢い子だ」と私は言った。「会計も済ませていったろう。私の分まで」


グリニスの火掻き棒が、半拍だけ止まった。


「……聞いてたのかい」


「武人の耳は地獄耳と、昔から相場が決まっている」


「あんたのことをね、あの子——」


「名前は、いい」


と、私は言った。


自分でも思いがけないほど静かな声が出た。グリニスは振り向いて、私の顔を一秒だけ見た。哀れみか、面白がりか、それとも帳簿の検算か。読めなかった。読めないときのこの女は、何も書いていない頁と同じ顔をする。


私は水を干し、二杯目は手酌で酒にした。一杯目は水。この店の法だが、今朝はその法を守れるだけの余裕の在庫を切らしていた。グリニスは止めなかった。私が栓を戻すまで、ただ見ていた。


私は二杯目を、ゆっくり飲んだ。


弁明しておくが、聞きたくなかったのではない。あの名前は一度ですでに勘定済みであり、同じ請求書を二度払うのは商人の恥である。それだけの話である。それだけの話だと、二杯目を飲み終えるまでの間、私は自分に向かって都合四回言った。


「で、英雄様。今日はどうするんだい。表は朝から旗だらけだよ」


来た。同じ問いである。私は杯を卓に据えた。


「軍議を開く」


出席者は私一人である。私はこの編成を好む。ことに本日は、一人でなければならぬ理由があった。本日の軍議には、昨日の戦訓があるからである。戦訓を持つ将と持たぬ将では、軍議の格が違う。


議題。本日、魔王討伐より二十周年の記念日である。ここまでは昨日と同文。


作戦目標。この店の奥の席で、誰にも見つからず、日没まで静かに泥酔すること。これも同文である。よい作戦は二度立てても良い作戦である。問題は条文のほうにあった。昨日の作戦は、条文が甘かった。第一条から第五条まで無傷のまま作戦だけが死んだという、軍学の教本に載せたいような滅び方をした。ゆえに本日は改正版を起草する。


第一条、店から出ない。


第二条、窓に近寄らない。


第三条、「英雄様」と呼ばれたら他人の顔をする。


ここまでは旧法を踏襲。以下、新設。


第六条、河を渡らない。


第七条、誰の腰からも、剣を借りない。


我ながら惚れ惚れする立法であった。第六条と第七条が何に備えての条文か、説明できる相手はこの世に一人もいないが、構わぬ。第四条と第五条はどうしたと問われそうだが、第四条(英雄の意匠を視界に入れない)は本日不可能と判明しているので削除、第五条(本日の私は英雄ではなくツケで飲むただの中年である)は憲法に格上げした。憲法は条文に数えない。


「決議する。異議は」


「ありません」と、床が言った。


壁際の長椅子の下から、脚が二本生えていた。サンカクであった。昨日と同じ位置に、同じ角度で畳まれている。私はその脚を眺めて、奇妙な安堵を覚えた。世界がやり直しに手を抜いていない証拠が、もう一つ転がっていたからである。


「異議がないなら寝ていろ」


「はい。おやすみなさい」


二度目だが、初めてである。この言い方も破産しているが、ほかに言いようがない。


そこへ、扉が鳴った。


来た。


私は杯の酒を一口含み、ゆっくり飲み下した。開戦である。


 


身なりのいい男が入ってきた。胴回りに豊かな貫禄、揉み手の形のまま生まれてきたような手。私が名義を貸している商会の番頭である。


「ヴァンス様。お迎えに上がりました。本日、広場にて——」


「二十周年の式典が、だろう」


番頭の揉み手が、わずかに調子を狂わせた。


「は。さようでございます。亡き英雄様の御彫像の——」


「除幕がある。御生前を知る方々が壇に上がる。生き残りの皆様も、ぜひお揃いで」


私は番頭の口上を、献立を読み上げる給仕の正確さで先回りした。番頭は揉み手の形のまま、二歩目を踏み出しかねていた。場数の男である。場数の男がいちばん苦手とするのは、自分より場数を踏んでいる客である。気の毒だが、この口上に関する限り、私は貴様より一周ぶん場数が多い。


「お断りだ」と私は言った。「英雄業は本日休業。次の営業日は未定。ここまでが回答だ。この先、貴様はお偉方の名を三つ並べ、献花の段取りを述べ、貴賓席の位置を述べる。述べてもよいが、回答は変わらん。互いの一時間を節約しないか。私はこう見えて、時間には律儀な男だ」


番頭は口を開け、閉じ、それから本当にお偉方の名を三つ並べた。聞いた通りの三つであった。手順を飛ばせない男なのだ。私はその律儀さに敬意を表して最後まで拝聴し、しかるのちに「断る」と申し渡した。


ここで昨日の私であれば、長椅子の下から飛んでくる流れ弾に倒れたのである。本日の私は備えていた。サンカクが這い出すより先に、私は立ち上がり、店の中へ向き直り、ぱん、と両手を打った。


「諸君、お知らせする」


朝の客は、まばらに三人いた。昨日と同じ三人である。世界がやり直しても、この三人はここで飲むらしい。奥の一人は、欠けた遊戯盤の駒をひとつ、布で磨いていた。盤は、どこにもない。


「本日この私は、この奥の席にて、誰にも見つからずに泥酔する計画である。諸君はどうか、お気づきにならぬよう。声援は心の中だけで頼む」


店内が、しんとした。


客の一人が気を利かせて目をそらし、残る二人は遠慮なくこちらを見た。グリニスは帳簿に何かを書き込んだ。どうせ碌な科目ではない。長椅子の下から、サンカクが半分だけ顔を出して、私を見上げていた。


「……ヴァンスさん。それは私の」


「先に使った者が持ち主だ。商いの基本である」


サンカクはしばらく私を眺め、それから「なるほど」と言って、長椅子の下へ戻っていった。納得したのかしないのか、あの男の「なるほど」は、相槌というより天候に近い。


番頭だけが、納得しなかった。彼は揉み手を再起動し、お迎えの口上を頭からもう一度始めようとし、私が杯を掲げて「先約がある。相手はこの杯だ」と宣言するに及んで、ようやく敗北を認めた。認め方が、また年季であった。彼は深々と腰を折り、「では、手前はこれにて」と言い、これにて、の続きを言わずに出ていった。


あの背中は、諦めた男の背中ではなかった。上役に泣きつきに行く男の背中であった。ああいう手合いは、説得が尽きると、もっと大きな説得を呼びに行く。それでよい。呼んでくるがいい。本日の私は、要塞である。


私は奥の席に陣取り、勝利の酒を飲んだ。一勝。本日の私は、昨日の私より頭が良い。この調子だ。この調子で日没まで転がせば、今日は無事に終わる。終わって、明日が——


明日、という言葉の上で、思考が一度つまずいた。


私は酒で蓋をした。


 


さて、ここで白状せねばならぬことが一つある。


要塞には、開けてはならぬ門が一つあった。私はそれを、昼前に自分で開けた。


きっかけは、長椅子の下から聞こえてきた寝息であった。規則正しい、商売物のように上等な寝息である。私はそれを聞くともなしに聞きながら、奥の席で酒を舐め、本日の戦況を点検していた。点検は三度行い、三度とも異常なし。異常がないと、私は余計な戸棚を開け始める。


「おい。寝てるのか」


「寝ています」


「寝ている奴が返事をするか」


「寝言です。お気になさらず」


私は気にしないことにして、しかし口のほうが勝手に戸棚へ手を掛けていた。


「……サンカク。一つ訊くが」


「寝言でよければ」


「魔王復活保険というものがある。大通りの角の。月々銅貨三枚で、再来の暁には金貨百枚」


「知っています。あの窓口の男、釣り銭を数えるとき唇が動きますね。三回見ましたが、三回とも動きました」


「その八十年だ」と私は言った。言ってから、杯の縁を親指でなぞった。「魔王の周期は百年。前回から二十年。次は八十年先。——あの勘定は、固いのか」


長椅子の下で、寝息が止まった。


いや、寝息だけではない。あの男は寝ながら何かしらやっている男である。指で床板の節を数えるとか、埃を吹いて転がすとか、そういう、誰の役にも立たぬ細かい営みが、長椅子の下から絶えず微かに聞こえている。それが、止まった。手が止まったのである。


「……固い、というのは」と、サンカクの声がした。丁寧なままであった。「利回りの話ですか。暦の話ですか」


「暦の話だ」


「暦ですか」サンカクは長椅子の下で、何かを思い直すように一拍置いた。「八十年先のことを訊く人は、初めてです。明日の天気を訊く人と、今夜の献立を訊く人なら、たくさん知っていますが」


「で、固いのか、固くないのか」


「今夜は芋だそうです」


「献立の話はしていない」


「では暦の話をしましょう」と、サンカクは言った。「百年というのは、待つほうの数え方です」


私は、杯の縁をなぞる指を止めた。


「……どういう意味だ」


「さあ。寝言ですから」


寝息が、再開された。今度のは、さっきまでの上等な品ではなかった。同じ織りに見せた別物である。私は商人の端くれだから、そのくらいの目利きはできる。


私はそれ以上、訊かなかった。訊けば、こちらの戸棚も開けねばならなくなる。昨日——と言いかけて、私は頭の中で言い直した。仮に、の話だ。仮に空が膿む日が来るとして、それが八十年先でないとして、それを私が知っているとして。その「知っている」を言葉にした瞬間、私は何かを認めることになる。何を認めることになるのか、そこまでは考えなかった。考えなかった、というのは嘘である。考える手前で、毎回引き返した。引き返した回数なら、数えてある。


仮の話を、もう一つ。二十年前、あの色は三日消えなかった。私は三日眠らなかったから、よく覚えている。色の下から軍勢が溢れ、砦が三つ灰になった。門はああいう開き方をするものだと、頭ではなく体が覚えている。だが昨日の色は——仮の話の中の、昨日の色は——夕暮れを待たずに薄れていた。三日のはずのものが、数刻で引いた。そのあとに来るはずのものを、私はまだ何も見ていない。来る前に私が終わったのか、来なかったのか、それとも——やめだ。仮の話は、二つで打ち止めである。


サンカクの返事には、いつも中身がない。樽と同じで、叩けば音だけ良いのである。だがこの日初めて、中身のなさに、手間が掛かっていた。空にしておくために、何かを退かした音がした。


私はその音を、聞かなかったことにした。本日の私は要塞であり、要塞の仕事は、開かないことである。開けてはならぬ門を自分で開けた要塞が言うことではないが、だからこそ、戸締まりには詳しくなった。


それからの小半時を、私は賭けで潰した。相手は例によって、私である。賭場は窓の外、遠い広場であった。次の拍手はいつ来るか。演説はもう一本あるか、ないか。私は張って、当てた。また張って、また当てた。胴元も札も全部この手の内にあるのだから、外れようがない。


五度目を当てたあたりで、勝ちの味が変わった。この時刻表には、先のほうの頁がある。楽隊がどの順で崩れるか。鐘がどの塔から鳴り始めるか。読んである。読んだ上で、張らないと決めている頁が、先のほうに何枚も綴じてある。


私は賭けをやめた。静かに席を立ち、二階へ上がった。


寝台の下の旅嚢の、底の縫い目のところに、紙包みがいくつかある。指は迷わなかった。


私は一包みをほどいて、中身を口に空けた。苦い。残りを胸の内側に移し、上着の上から一度、押さえた。


階段を降りると、グリニスがこちらを見なかった。見ないという見方であった。


 


昼の鐘が鳴ってしばらくした頃、扉が開いて、鎧が入ってきた。


鎧、とまず思ったのである。人より先に、音が入ってきた。革と金属の、手入れの行き届いた、無駄のない音。続いて女が一人、敷居の上で店内を一度だけ見渡し、迷わず私のほうへ歩いてきた。背後に、番頭がくっついていた。揉み手が、戻ってきた自分の説得力に満足げであった。なるほど、呼んできたのはこれか。


騎士団の制式鎧であった。磨きは式典の顔をしていたが、剣の柄だけは仕事の顔をしていた——革が、握る形に黒く育っている。黒髪は肩のあたりで切り落とされて、飾りの寸法ではない。目つきは、刃物の手入れをする者のそれであった。物を見るのではない。欠けと曇りを見る目である。


私は、座り直した。


今朝からこちら、この店に来る用向きも、表の音の順番も、私はあらかた先に知っていた。この女のことだけは、何も知らなかった。


「ヴァンス殿」


と、女は言った。様、ではなかった。殿、である。役所の言葉だ。距離を測って打ってくる言葉である。


「騎士団のマレンと申します。式典警備の任に就いております。本日の除幕式について、ご足労を願いに参りました」


「断る」


と、私は言った。即答は失礼かと思ったが、考えてみれば向こうも前置きをしていない。礼儀は等価交換である。


マレンは、頷いた。


頷いた、のである。食い下がるでもなく、眉をひそめるでもなく、了解事項を一つ消化した者の頷きであった。そして彼女は言った。


「そうですか。では」


では。


回れ右をしかけた鎧の音に、番頭が悲鳴を上げた。「マレン様!? あの、もう少々こう、お言葉を尽くしていただいて」


「嫌がる男を縛って壇に上げる予算は、もらっていません」


「し、しかしですね、皆様が」


「待っているのは石像でしょう」と、マレンは言った。「除幕は、布を引けば済みます。布を引くのに英雄は要りません」


私は、この女の経済学に少なからず感心した。感心しながら、同時に、奇妙に腹を立てていた。追われれば逃げたくなり、引かれれば追いたくなる。我ながら度し難い。二十年逃げ続けた挙句、引き際の良すぎる相手に出会うと、自分の値札を確かめたくなるのである。私の値札は本日、布を引く手間より安かった。


「……ずいぶんあっさり引くのだな」と、口が言った。「番頭は朝から三十分粘ったぞ」


「商人は説得が商売ですから」と、マレンは言った。「私の商売は別です」


そう言って彼女は、出口へ向かう前に、一度だけ私を見た。


顔を、ではない。


右手を、であった。


卓の上の、杯に添えた右手。彼女の視線はそこへ落ち、一拍とどまり、それから何事もなかったように上がって、敬礼に変わった。型どおりの、美しい敬礼であった。


私は知っている。人が私を見るとき、見るのは顔である。似顔絵と似ていないと言うために顔を見て、年を取ったと言うために顔を見る。番頭は私の顔の向こうに印章を見るし、グリニスは私の顔の向こうにツケを見る。手を見た者は、二十年で、数えるほどしかいない。手を見るのは、あの夜の決戦が「物語」ではなく「作業」だったと知っている人間だけである。


この女は若い。決戦の年には、せいぜい竈の前で乳歯を数えていた頃合いだろう。なのに、手を見た。


どこで覚えた目だ、それは。


訊かなかった。訊く筋でもない。マレンは敬礼を解き、回れ右をし、番頭が泡を食ってその後を追った。鎧の音が敷居をまたぐ——


その手前で、止まった。


楽隊の音が、止んだからである。


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