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魔王討伐後遺症  作者: 面茶々


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完璧な作戦(後編)

人波が壊れて流れ出し、お偉方は壇から掻き消え、楽隊は楽器を抱えて散った。その逆流のただ中を、鎧の音がまっすぐこちらへ来た。


若い騎士であった。兜の下が汗で光っていた。彼は人垣を肩で割り、私の前で踏み留まって、敬礼した。この状況で敬礼を省かないあたり、よく躾けられている。


「ヴァンス様!騎士団より急使です!」


本日二度目の「人違いだ」は、口の中で溶けて出てこなかった。世の中には、豆粒の似顔絵からでも私を探し当てる人間が、いるところにはいるのである。


「北の異変なら見えている。空の検分は騎士団の領分だ」


「違います——いえ、それも、です、が」若い騎士は息を呑み込んだ。「工場です。河向こうの精錬工場で、使役中の魔族が、首輪を引きちぎりました。複数です。騎士団が当たっていますが、止まりません。あの」


彼は一度言い淀み、それから伝令の正確さで言った。


「ヴァンス様の名義の工場です。それから、首輪を破った個体を斬れるのは、あなた様しかいないと、隊長が」


首輪を、引きちぎった。


その言葉の並びの異常さを呑み込むのに、数瞬かかった。あの首輪は、引きちぎれるようには出来ていない。出来ていないということに、私は名義を貸している。


工場。河向こうの。門に私の名が掛かっているという、月々の振込みだけで存在を確認してきた、あの工場である。私は一度も行ったことがない。署名をした。金を受け取った。それだけの間柄である。顔も見たことのない子供の名付け親になり、名付け料を二十年受け取り続けてきたようなものだ。


「……分かった」


と、私は言った。言ってから、自分の口の素直さに少し驚いた。


いや——考えてもみよ。これは断れる種類の用件ではない。名義人が駆けつけなければ、明日の号外は「英雄、逃げる」である。それは式典より遥かに性質の悪い英雄業である。ならば行って、さっさと片付けるに限る。暴れ牛の始末と大差あるまい。ああいう汚れ仕事の手順だけは、二十年経っても体のどこかが覚えている。片付けて、夕刻には店の奥の席だ。日暮れの酒には間に合う。間に合わせてみせる。むしろ働いた後の酒は格別と、昔から相場が決まっている。つまりこれは作戦の中止ではない。改良である。


私の頭脳は、本日二度目の天才であった。


算盤も弾いてあった。夕方には奥の席が売りに出る。河を渡って戻る時間を引けば、現場に割けるのは二時間。仕事の量を測って出した数字ではない。酒の都合から逆算した数字である。だが二十年、外れたことのない私の見積もりは、いつもこちら側の数字だけだった。


「案内しろ」と私は言った。「走るぞ。二時間で済ませる」


 


走り出してから、肝心なことに気づいた。


「剣を貸せ」


「は」


「丸腰なのだ。式典に剣を差していく男がいるか」


若い騎士は走りながら器用に腰の剣を鞘ごと外し、両手で捧げてきた。よく磨かれた官給の安物である。私は片手で受け取った。


英雄業二十年、得物は持たない主義である。名前を貸すだけで金になる商売に、刃を自前で揃える理由がない。入り用の日には、こうして誰かの腰から生えてくる。


河へ下る大通りは、逃げてくる人波と、見物に出ようとする阿呆の波が逆向きにぶつかって、奇妙な祭りの続きのようであった。私と騎士は、その隙間を縫って走った。


途中、揚げ菓子の屋台の前を通った。商売熱心なことに、売り子はまだ店を畳んでいなかった。日に焼けた娘で、走る私を目ざとく見つけ、声を張った。


「英雄様!帰りに一つどうですか!」


「帰りにな」


と、私は返した。


ああいう返事は小銭である。意味はないが、払わないと角が立つ。娘は満足げに手を振った。私は走った。


 


工場は河向こうの低地に、黒い山脈のように寝そべっていた。


煙突が並び、鉱滓の山が並び、その奥の建屋のひとつから、悪い色の煙が立っていた。鉱滓の山の中腹には、柄の折れた箒が一本、挿さったままになっていた。門柱の上に看板が掛かっていて、私の名前がそこにあった。私の署名より、よほど立派な書体で。


門前は、野戦場の一歩手前の匂いがした。騎士団の馬、運ばれていく怪我人、誰かの怒鳴り声。その混乱のただ中に一人だけ、婚礼の受付のような顔をした小男が立っていて、私を見るなり、深々と腰を折った。


「これはこれは、ヴァンス様。ようこそお運びくださいました。当工場で監督官を務めております」


ようこそ、ときた。


監督官は揉み手こそしなかったが、揉み手の精神で全身が出来ていた。彼は歩きながら状況を述べた。曰く、北天の異変と同刻、使役中の魔族の首輪が複数同時に変調をきたした。曰く、数体が拘束を破り、建屋二号に立て籠もって暴れている。曰く、騎士団が包囲しているが、首輪を破った個体は規格の外で、手に負えない。


その途中で伝令が走り込んできて、監督官の耳に何かを囁いた。炉のあたりで人が死んだ、という囁きは、囁きにしては輪郭がはっきりし過ぎていて、私の耳にまで届いた。


監督官は頷いた。頷いて、私に向き直り、笑った。


「お聞き苦しいところを。——歩留まりの内でございます」


私は、その笑顔を見た。


悲報を聞いた直後に、これほど上手に笑える人間を、私は他に知らない。口角の高さ、目尻の皺の本数、声の湿り気、どこにも一切の無駄がなかった。あれは練習でどうにかなるものではない。生まれつきのものでもあるまい。長い歳月と、大量の悲報だけが完成させる、一個の職能である。私は素直に感心し、感心した自分の喉の奥が、少しだけ冷えた。


「魔族は、殺すより使うほうがずっと人道的でございましょう」と、監督官は歩きながら続けた。「処刑なら一度きりですが、生かして使ってさしあげれば、毎日が罪滅ぼしになりますからな」


罪滅ぼし。誰の、とは訊かなかった。訊かない技術なら、私も二十年かけて完成させてきた。


建屋二号の鉄扉の前で、騎士団の隊長が状況を寄越した。中に使役魔族がおよそ六十。うち首輪を破った者が四、すでに三を抑えて残りは一。逃げようとする者、暴れる者、暴れる仲間に取り縋って止めようとする者が入り乱れている。加えて、首輪が逆向きに暴走した個体が一、床に縫い付けられたようになって動けない、と。


「縫い付けられた?」


「鎖が、座金ごと床に食い込んで締まったのです。本人の首ごと。生きてはいます」


本人、と隊長は言った。魔族に「本人」という言葉を使う騎士は、いい騎士である。私はその言葉の趣味の良さと、その言葉が指す光景の趣味の悪さを、同時に受け取った。


「開けろ」と私は言った。「一時間半で済ませる」


道中で三十分を使ったからである。誰と交わした取引かは知らないが、私は二十年来、こういう帳尻にだけは律儀な男であった。


 


中は、熱と音で出来ていた。


炉の赤。鎖の音。誰かの叫び。魔族を、お伽噺でしか知らぬ人は牙と鱗の獣を思い描くのだろうが、実物は存外、人に似ている。角の形と目の色を除けば、グリニスの店の常連と見分けのつかない顔が、そこらじゅうで歪んでいた。逃げる顔。噛みつく顔。仲間の腕に取り縋って、何かを叫んでいる顔。首輪の赤い灯が、その全部を等しく照らしていた。


奇妙なことが、ひとつあった。


その半分が、逃げていなかった。割れた高窓の下に群れて、北の空——悪い色の名残りのほうへ顔を上げ、声にならない声で沸いていた。怯えの顔ではない。私はあの顔を、ついさっき見たばかりだった。広場で。布が落ちる、その瞬間の。


私は借り物の剣を抜いた。


本気で抜くのは二十年ぶりである。借り物の柄は、それでも、ひと振りで手に馴染んだ。私の手は初対面の剣とすぐに親しくなる。自慢にならない特技である。これは片付けである。私は二日酔いの残りを引きずったまま、いちばん手前で長椅子を振り回している一体から順に、淡々と無力化していった。


爽快さは、どこにもない。あるのは段取りである。得物を落とさせ、腱を断ち、騎士に渡す。床は滑る。煙は目に染みる。剣は重い。四十を越えた体は三体目で息が上がり、四体目には突き飛ばされて、空の鉱車に尻から突っ込んだ。引き起こしてくれたのは剣の持ち主の若い騎士で、つまり本日の私は、剣も借りれば立たせ方も借りている。五体目で肘が痺れた。英雄業の実態とは、要するに、誰もやりたがらない肉の事務処理である。


そのときであった。


奥の炉の陰から、大きいのが出た。


千切れた首輪の残りを首に下げた、頭ひとつ抜けた体格の男だった。受け止めようとした騎士が二人、まとめて弾かれて転がった。規格の外、と言われていた最後の一体であろう。


男は、走らなかった。


転がった騎士たちの間に立ったまま、首だけを回して、割れた高窓の向こう——北の名残りを、見た。それから、人の言葉で、ひとことだけ言った。


「……はやすぎる」


誰に言ったのでもなかった。だが、窓の下の沸騰が、すこしだけ引いた。


男が、動いた。鎖の音が、半歩遅れて追いかけた。


進路の先に、私が立っていた。


勝てるか、と頭が算盤を弾きかけ、その答えは出なかった。


体が、先に動いた。


速い。


踏み込みは一歩で足りた。剣は最短を通った。狙いは確かで、迷いがなく、無駄というものが、どこにもなかった。二日酔いが消えていた。肘の痺れが消えていた。二十年が、消えていた。音が遠のき、世界は薄く、明るく、単純になった。そこには帳簿も似顔絵も貴賓席もなく、ただ一本の正しい線だけが引かれていて、私の剣はその線の上を、誂えたように走った。


相手が膝から崩れたときには、すべてが終わっていた。


完璧だった。


私は——笑っていたと、思う。


それから、倒れた男の体が最後に向いていた方角を、見た。


出口では、なかった。


私でも、なかった。


男の体は、爪の先までまっすぐに、床の一点を向いて倒れていた。その視線の先、炉の手前に、鎖で床に縫い付けられた一体が、いた。


男の右手は、まだ何かを握っていた。剣ではなかった。炉場の鏨——鎖の座金を断つための、ただの道具だった。


左の足首には、千切れ損ねた足枷が残っていた。そこから伸びた鎖が、床の継ぎ目に噛み込んで、ぴんと張っていた。


顔は、年の頃、私と変わらなかった。


こいつは、逃げようとしていなかった。私に向かってきたのでもなかった。ただあそこへ行こうとして、その進路の途中に、たまたま私が立っていただけだった。


世界でいちばん正しかったはずの一本の線が、誰から見て正しかったのか、急に分からなくなった。手の中の柄が、ただの濡れた革になった。


「——さすが英雄様!」


声は横から来た。さっき弾き飛ばされた若い騎士のほうが、頬を上気させて駆け寄ってきたのである。目が、少年の目をしていた。


「自分、子供の頃から、お話だけはずっと——あの、サインを!いただけますか!」


彼は懐から、折り畳んだ紙と炭筆を引っ張り出した。紙は、工場の出荷伝票の裏であった。


今か、と私は思った。床はまだ濡れている。倒れた男はまだ温かい。世界には、時と場合がある。


そう数え上げている口の下で、手が、炭筆へ伸びた。


伸びた、のである。私はその手を、他人の手のように眺めた。


「——下がってくれ」


思ったより低い声が出た。「片付けの最中だ。見世物じゃない」


少年の頬から上気が引いた。敬礼が途中で形を失い、彼は伝票を畳み直し——畳み方を二度間違え——列へ戻りかけた。


そこで、頭の中の弁護人が、そっと耳打ちした。ひとことだった。


——剣の、借り賃。


完璧な理屈であった。


「待て」と私は言った。「剣の借り賃だ。それ以上の意味はない」


私は、サインをした。書く手は我ながら素直で、書き上がった名は堂々として、門の上の看板とそっくり同じ形をしていた。少年は伝票を、勲章のように胸の隠しへ仕舞った。


私は剣を拭いた。拭く必要のないところまで、拭いた。


 


それから小一時間で、片は付いた。


逃げた者は捕えられ、暴れた者は転がされ、首輪は順に検められ、建屋二号は静かになった。静かになってしまえば、そこはただの、煤けて濡れた大きな部屋だった。


引き上げる支度の途中で、私は、見た。


床に縫われた一体が、まだそこにいた。鎖はまだ外れていなかった。座金が床ごと噛んでいて、検めの順番が後回しになっているのだった。


その魔族は、私を見ていなかった。騎士団も、首輪の灯も、何も見ていなかった。床に頬を付けたまま、片腕だけを、まっすぐに伸ばしていた。


伸ばした先に、布を掛けられた死体があった。私が終わらせた、あの大きい男の死体であった。


腕は、届いていなかった。半端な距離で宙に浮いたまま、降りなかった。指の先まで開いた、人と何も変わらない形の手であった。誰もその腕を降ろさせなかった。降ろさせ方を、誰も知らなかったのだと思う。私も知らなかった。


私は何か言いかけて、やめた。ああいう場面に持ち合わせる言葉があるような人生を、私は送ってこなかった。


外はもう、夕方の色をしていた。北の空の悪い色はいつの間にか薄れ、警報の鐘も止んでいた。


終わった、と私は思った。


これで帰れる。河を渡って、大通りを戻って、屋台で揚げ菓子をひとつ買ってやって、奥の席からサンカクを退かして、グリニスの水に一杯だけ付き合って、それから先は誰にも見つからず、約束の泥酔である。ほら見ろ。結局のところ、作戦は完遂されるのだ。多少の延期はあった。だが中止ではなかった。私は歩きながら、今夜の樽を選び始めた。奥の棚の、いちばん——


炉が、変な音を立てた。


音、と書いたが、あれは音というより、その場の空気の値段が一斉に変わるような、何かであった。建屋の奥で誰かが叫んだ。数字を。それから、臨界、という言葉を。


振り向いたときには、世界は白くなりかけていた。


私は考えなかった。考えるより先に、いちばん近くに立っていた首輪の男の——検めを待って並ばされていた、名前も知らない、顔もろくに見ていない捕虜の——胸ぐらを掴んで、突き飛ばしていた。なぜそうしたのかと問われても困る。手が勝手にやったのだ。二十年前から、私の手は時々、私に断りなく英雄をやる。


白い光が来て、熱が来て、口の中いっぱいに金物の味が広がって、


それきりだった。


死というものは、もっと長いものだと思っていた。


 


天井に染みがある。


長雨の年にできた古い染みで、形は犬に似ている。犬に似ていると言い張っているのは世界で私一人であり、階下の女主人は蕪だと言って譲らない。


寝台の隣は空だった。毛布に、人ひとり分の窪みが残っていた。窪みは、嘘をつかない。


頭蓋の内側では、小人どもが空の樽を転がしていた。


階下から、釜の蓋の音がした。


「起きな、英雄様。日が高いよ」


私は、動かなかった。


それから、両手を顔の前に持ち上げた。指は五本ずつあった。焼けていない。爪の先まで、退屈なほど無事である。昨日——昨日?——白い光の中で、確かに消えたはずの手である。


私は死んだ。


それは確かである。初めての経験ではあったが、あれを他の何かと取り違えるほど、私は粗忽な男ではない。熱にも、終わりにも、ちゃんと金物の味がした。


その私が、いま、犬とも蕪ともつかぬ染みの下に寝ている。


階下ではグリニスが竈の火を直している。ゆうべの娘は夜明け前に帰り、私を別の名前で呼んだはずである。表には旗が下がり、刷り物の私は左から二番目で、屋台の娘は釣り銭を数え、八十年先の災厄に、人々は月々銅貨三枚を払っている。


何だ、これは。


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