完璧な作戦(前編)
天井に染みがある。
長雨の年にできた古い染みで、形は犬に似ている。もっとも、犬に似ていると言い張っているのは世界で私一人であり、階下の女主人は蕪だと言って譲らない。論争は三年目に入った。どちらでも構わぬ話ではある。肝要なのは、二十年前に魔王を斬ったこの私が、朝、目を開けて最初に拝むものが、女神の微笑でも栄光の残照でもなく、犬とも蕪ともつかぬ天井の染みであるという、この厳粛な一点に尽きる。
寝台の隣は空だった。
毛布に、人ひとり分の窪みだけが残っている。窪みというものは正直である。人間は嘘をつくが、窪みは嘘をつかない。ゆうべ確かにここに誰かが居て、いまは居ない。それだけの事実を、余計な感想をひとつも挟まずに報告してくる。私はかねがね、窪みのこの実直さを高く買っている。人間も見習うべきである。
頭蓋の内側では、小人どもが空の樽を転がしていた。ゆうべの酒が安物だった証拠である。よい酒は静かに去るが、安い酒は派手に居座る。その点で安酒は人間に似ており、つまりは私に似ている。
階下から、釜の蓋の音がした。
「起きな、英雄様。日が高いよ」
英雄様、ときた。
申し遅れたが、私は英雄である。二十年前、門から溢れた魔族の軍勢が国境の砦を三つ灰にしたとき、討伐に発った一行があり、私はその端に連なっていた。そうして決戦の日、魔王の心臓に剣を通したのは、壇の上で歌われているような気高いどなたかではなく、何を隠そう、この私の右手である。
この話を酒場ですると、十人のうち八人が笑い、二人が酒を奢ってくれる。奢られる酒の味で言うなら、嘘つき扱いも捨てたものではない。
私の名はヴァンス。爵位がひとつ、屋敷がひとつ、名義を貸した商売が十七、壁に貼られた似顔絵が零枚。以上が、魔王殺しの二十年後の全財産である。屋敷には住んでいない。あるという事実だけで貴族の体面は足りるのであって、だいたい広い寝室は、窪みが増えたぶんだけ侘しさも増える造りになっている。
私は染みに別れを告げ、階段を降りた。
階下は酒場である。女主人のグリニスが、帳簿を睨みながら竈の火を直していた。グリニスの朝の顔は、債権者の顔である。
私が卓に着くと、グリニスは何も訊かずに水を置いた。一杯目は水。これはこの店の、交渉の余地のない朝の法である。
「ゆうべの子なら、夜明け前に帰ったよ」と、グリニスは竈に向いたまま言った。「あんたが鼾をかき始めてすぐ。賢い子だ」
「会計は」
「払っていった。あんたの分までね」
「見上げた淑女だ。近頃の若い者には見どころがある」
「あんたのことを、ずっと別の名前で呼んでたけどね」
私は水を飲んだ。
「……誰の名前だった」
グリニスは火掻き棒を置いて、名前を言った。
二十年前に死んだ男の名前だった。広場の彫像の。記念硬貨の。今日の号外の一面の。我らが討伐行の顔にして旗、気高きかの御仁の名前であった。
なるほど、と私は思った。つまりゆうべの娘は、英雄に抱かれながら、頭の中ではちゃんと英雄に抱かれていたわけである。万事が丸く収まっている。世界のどこにも被害者がいない。強いて挙げれば一名いるが、その一名は、被害者を名乗るには昨夜の酒が過ぎた。
「光栄な話だ」と私は言った。「あの御仁は二十年前から土の下だぞ。墓から女の寝床までお勤めに出てくるとなれば、もはや敬服のほかにない。こちらは二階から降りるだけで膝が鳴るというのに」
グリニスは笑わなかった。笑わずに、私の杯に水を注ぎ足した。
私は二杯目の水を、ゆっくり飲んだ。それだけの話である。
「で、英雄様。今日はどうするんだい。表は朝から旗だらけだよ」
「うむ。ちょうどそれについて、軍議を開こうと思っていた」
私は卓上に杯を据え、軍議を開いた。出席者は私一人である。私はこの編成を好む。会議というものは出席者が増えるほど莫迦になる。一人ならば、莫迦は一人分で済む。
議題。本日、魔王討伐より二十周年の記念日である。広場では式典が催され、楽隊が鳴り、お偉方が壇に並び、亡き英雄の彫像が除幕され、街じゅうが「英雄」の二文字を頭上に放り投げて騒ぐ。
作戦目標。その一切から逃げ切り、この店の奥の席で、誰にも見つからず、日没まで静かに泥酔すること。
作戦要綱。第一条、店から出ない。第二条、窓に近寄らない。第三条、万一「英雄様」と呼ばれた場合は他人の顔をする。第四条、彫像、楽隊、号外、その他英雄の意匠を持つ一切を視界に入れない。第五条、本日の私は英雄ではなく、ツケで飲むただの中年である。第五条は普段と変わらないので、訓練の必要がない。
完璧な作戦であった。漏れがない。敵がいない。何より、私が今日いちばんやりたいことと寸分違わず一致している。二十年前の決戦の朝ですら、これほどの確信はなかった。
「決議する」と私は言った。「異議は」
「ありません」と、床が言った。
見ると、壁際の長椅子の下から脚が二本生えていた。脚の先をたどると男がひとり、ゆうべからそこに畳まれていたものらしく、長椅子の陰で器用に丸くなっている。サンカクであった。
サンカクはこの店の景色である。いつから居るのか、グリニスも正確には知らないという。働いている様子はなく、困っている様子もなく、私のツケで飲む。一度問い詰めたところ、「ツケというのは樽と同じで、どうせ一杯ずつしか減りません」という、反論の形をしていない反論が返ってきた。以来この男の会計は、私の帳簿の中で「友人分」という勘定科目になっている。書いたのはグリニスである。彼女の帳簿に、冗談の項目はない。
「異議がないなら寝ていろ」
「はい。おやすみなさい」
サンカクは目を閉じた。世界がひとつ片付いた。
そこへ、扉が鳴った。
身なりのいい男が入ってきた。胴回りに豊かな貫禄を蓄え、揉み手の形のまま生まれてきたような手をしている。見覚えがあった。私が名義を貸している商会のひとつで、番頭をしている男である。
グリニスが目で私を指した。客あしらいの目ではなく、帳簿の目であった。この店では、私宛ての客を追い返さない。客の中には、ツケの返済が進む種類の用件が混ざっているからである。
「ヴァンス様。お迎えに上がりました」と番頭は言った。「本日、広場にて二十周年の式典が」
「休みだ」
「は」
「英雄業は本日休業と、たったいま決議された。次の営業日は未定だ。帰って皆にそう伝えろ」
「そうおっしゃると思いまして」番頭は揉み手のまま一歩踏み込んだ。場数の踏み方が違う。「ですが本日は、亡き英雄様の御彫像の除幕がございます。御生前を知る方々が壇に上がられます。生き残りの皆様も、ぜひお揃いで」
生き残りの皆様も、ぜひ。
世間の正直さは、こういう助詞の選び方に出る。主賓は石でできた死人であり、生きて剣を振った男は「も」である。私は「も」のために、今日いちばんやりたいことを諦める気はなかった。
「見ろ」私は杯を掲げてみせた。「飲んでいる最中だ。見れば分かるだろう。本日の私には先約がある。相手はこの杯だ。武人は信義を重んじる」
「中身は水でございますね」
「水から始める流儀なのだ」
番頭は引かなかった。お偉方の名を三つ並べ、献花の段取りを述べ、貴賓席の位置を述べた。上着の胸には、朝餉の卵がひとつぶ付いたままだった。貴賓席。すなわち衆目のただ中の席である。隠れて飲むの正反対、衆目の中で素面という、人生に起こりうる事態の中でも最悪の部類である。
「断る。壇の上は飾りが足りているだろう。石像に旗に楽隊だ。そこへ二日酔いの中年を足して、誰の得になる」
「皆様がお待ちなのです」
「待たれているのは私ではない。刷り物の真ん中の顔だ」
番頭が黙った。意味が通じたからではない。意味の分からぬ拗ね方をする中年への対処法を、頭の中の帳面から探している沈黙であった。
そのとき、長椅子の下から声がした。
「ヴァンスさん。あなた、今日はその席で隠れて飲むつもりでしょう」
「そうだ」
「無理ですよ。あなたは隠れるのが下手だから」
「ほう」私は鼻で笑った。「二十年前、魔王の本陣まで気取られずに歩いた男に向かって言うことか」
「あれは隠れるのが上手かったのではありません。見つけた者が、みんな死んだだけです」
サンカクは長椅子の下から這い出し、埃を払いもせずに立ち上がった。そうして店の中へ向き直り、ぱん、と両手を打った。
「皆さん、お知らせします」
朝の客は、まばらに三人いた。三人と、グリニスと、番頭が、一斉にこちらを見た。
「こちらの英雄様は本日、この奥の席にて、誰にも見つからずに泥酔なさる計画です。皆さんどうか、お気づきになりませんよう。ご声援は心の中だけでお願いします」
店内が、しんとした。
客の一人が気を利かせて目をそらした。残る二人は遠慮なくこちらを見ていた。グリニスは帳簿に何かを書き込んだ。番頭は揉み手の速度を上げた。
私は理解した。隠れて飲むという作戦は、いままさに、骨組みから崩壊した。隠れるとは見られないことである。しかるに私はすでに、本日ぶんの注目をこの席で使い果たした。第一条から第五条まで無傷のまま、作戦だけが死んだ。軍学の教本に載せたいような滅び方であった。
「……サンカク。貴様、何の得があってそういうことをする」
「得はありません。得のあることなら、もっと丁寧にやります」
私は天を仰いだ。あいにく階下の天井には、染みのひとつもなかった。座れば晒し者、立てば作戦の放棄。座る地獄と立つ地獄が出揃ったなら、酒に近いほうの地獄を取る、というのが古来の兵法である。
そこで私は、天才的な打開策を見出した。
顔だけ出す。一時間で帰る。
これは作戦の中止ではない。延期である。むしろ良い。式典に顔さえ出してしまえば、本日の私は世間に対して一片の借りもない。借りのない男の酒ほど旨いものはこの世にない。完全な泥酔は、完全な義務の後にこそ来る——どうだ、この理屈の美しさは。私は自分の頭脳に惚れ惚れした。二十年前にこの冴えがあったなら、彫像になっていたのは私である。
「一時間だ」と私は番頭に言った。「顔は出す。壇には上がらん。献花はする。一時間経ったら煙のように消える。引き留めた者は末代まで呪う」
「ようございます、ようございます」番頭の揉み手が再起動した。
立ち上がった私に、グリニスが言った。
「行ってらっしゃい、英雄様。奥の席は取っといてやる。——今日は祭りだ。夕方には売り物になるけどね」
「一時間で戻る」
「はいはい」
サンカクはもう長椅子の上に登って、横になっていた。
「お帰りをお待ちしています。この席は私が守ります。主に、私が飲むことによって」
「守るな」
私は店を出た。一時間である。たかが一時間。——あの朝の私は本気でそう信じていたのだから、人間の頭脳は、自分に惚れ惚れしている時がいちばん危ない。
表に出ると、街は英雄で出来ていた。
軒という軒に旗が下がり、窓という窓に花が飾られ、子供は木剣を振り回し、号外売りが声を張り、揚げ物と焼き菓子の匂いが大通りの端から端までを占領していた。二十年前、この街の半分は燃えていたのである。それがいまでは揚げ菓子の匂いがする。大変に結構なことだ。結構なことであるからこそ、私は本日、店の奥で静かに潰れていたかったのである。
号外売りの少年が、記念の刷り物を一枚押し付けてきた。
中央に、かの御仁の顔が大きく刷られていた。気高い眉、まっすぐな目、迷いのない顎。二十年経っても若い。死者は老けない。老けず、借金もこさえず、寝過ごしもせず、女に別の名前で呼ばれることもない。生者に対するこの圧倒的な優位を、かの御仁は二十年間、ただの一日も休まずに行使し続けている。
その絵の下段に、豆粒ほどの顔がいくつか並んでいた。生き残りの我々である。私は左から二番目にいた。
私は、まじまじと見た。
似ていない。誰だこれは。眉は手違いのように垂れ、顎にいたっては、留守であった。言っておくが、実物の私はもう少し顎が締まっている。少なくとも三割は締まっている。
忘れられたい、というのは私の二十年来の悲願である。だが、それはそれとして、忘れられ方にも作法があるだろう。私は丁寧に忘れられたいのである。似てもいない顔を豆粒に刷られ、誰にも気づかれぬまま揚げ物の包み紙になり、油を吸って捨てられる——いや待て。それは考えようによっては、ほぼ理想の忘れられ方ではないか。私は自分の理屈に自分で追い詰められ、ひとまず刷り物を畳んで懐に入れた。捨てる気にはならなかった。理屈と気分は、別の役所が司っている。
広場へ向かう道すがら、子供らが英雄ごっこをやっていた。
木剣を持った子が、壇に見立てた荷車の上で名乗りを上げる。名乗られるのは無論、かの御仁の名である。魔王役は押し付け合いになり、いちばん小さいのが泣きながら魔王にされていた。世界はいつも、そうやって配役を決める。
ちなみに、左から二番目の役は存在しない。ごっこ遊びは、遊びであるだけに、現実よりも配役に正直である。
大通りの角に、ひときわ立派な幟が立っていた。
曰く——「魔王復活保険」。
新商売である。偉業より二十年、されど備えは末代まで。月々銅貨三枚より、魔王再来の暁には遺族様へ金貨百枚、という趣旨の口上が表になって貼り出され、窓口には行列ができていた。祭りの日に、災厄の掛け金を払う行列である。私は人間のこういうところが好きだ。
私は足を止め、掛け金表を、我ながら思いのほか真剣に検討した。
魔王の復活はおよそ百年周期と相場が決まっている。前回の討伐から二十年。次のお勤めはおよそ八十年先、どう転んでも孫の代の話である。八十年先の災厄に月々銅貨三枚。馬鹿げた商売に見える。が、待て。馬鹿げた掛け金とは、すなわち安い掛け金ということである。相場は、誰も信じていないうちに張るのが定石ではないか。
それに、と私は考えた。万一、周期とやらが読み違いで、明日にでも魔王が出たとしよう。その場合、真っ先に駆り出されて真っ先に死ぬのは、職業柄この私である。私が死ねば掛け金は宙に浮き、宙に浮いた金貨百枚は、私の顔も知らぬどこかの誰かの懐に落ちる。誰かが百枚拾って喜ぶ。悪くない。死んだ後の話は、総じて気前がいい。
——お分かりだろうか。魔王を斬った男が、魔王の再来に、こっそり賭け金を置こうとしているのである。人類の存亡を、利回りで眺めているのである。どこからどう見ても下衆である。ただし下衆は、本人に自覚がある限りにおいて、かろうじて愛嬌の範疇に踏みとどまる。私は自覚だけなら人一倍ある。ゆえに本日も、私は愛嬌の男である。
行列は長かった。貴重な一時間を行列に食わせる訳にはいかない。祭りが済んだら入ろう、と私は決めて窓口を後にした。なにせ八十年先の話だ。急ぐ理由は、どこにもない。
広場の手前の路地口に、徽章売りの台が出ていた。記念日に、古い従軍徽章だの肩章だのを磨いて売る、よくある商いである。台の主は白髪の大男で、左の袖が肘から先、綺麗に畳んで留めてあった。
通り過ぎようとした瞬間、男と目が合った。
男の顔が、ゆっくりと変わった。商人の顔が剥がれて、下から別の顔が出てきた。二十年前の冬、北の壁の下で篝火を囲んでいた側の顔である。私は思い出してしまった。決戦の前夜、眠れずにいる新兵たちに、酒を黙って回してやったことがある。回した相手の顔まで、いちいち覚えてはいない。だが向こうは、覚えている側の顔をしていた。
「……あんた」男は徽章をひとつ握ったまま、立ち上がった。残った右手が震えていた。「あんた、ヴァンスの旦那だ。北の壁の。俺は、あの晩——」
「人違いだ」
と、私は言った。
考えるより速かった。我ながら惚れ惚れするような即答であった。二十年前の戦場でも、これほど速く抜いた覚えはない。
男の口が、開いたまま止まった。徽章は、握られたままになった。
私は歩いた。歩きながら、頭の中で弁護人が立ち上がった。曰く、あれでよいのだ。あの男が会いたいのは二十年前の若い武人であって、似顔絵の顎すら留守の中年ではない。思い出は徽章と同じで、磨いて飾っておくのが互いのためである。つまり私はいましがた、あの男の二十年を守ったのだ。守ったとも。これは防衛戦である。
弁護人は雄弁であった。雄弁であったが、私の足は勝手に速くなり、広場に着くまで一度も緩まなかった。せめて徽章の値段くらい訊いてやればよかった、と思いついたのは、もっとずっと後のことである。
広場は人で煮えていた。
壇の上にお偉方が並び、その背後に、布を被った大きなものが立っていた。布の下からでも分かる。剣を天に掲げている。かの御仁は生前、あんなふうに剣を掲げたことは一度もない。剣は掲げるものではなく、人に刺すものである。刺す係だった私が言うのだから、間違いない。
私は群衆の尻尾のあたりに陣取った。番頭が「もそっと前へ、せめて貴賓席へ」と袖を引いたが、「ここから先は人間で出来た沼だ。私の足では渡れん」と言い張って動かなかった。顔は出した。出席である。出席とは魂の問題ではなく、頭数の問題である。
壇上で誰かが演説をしていた。風向きの加減で、言葉は三つにひとつしか届かない。「誇り」「礎」「永遠に」。届いた三語だけで全文が再現できる種類の演説であった。
やがて楽隊が鳴り、布が落ちた。
石のかの御仁が、剣を天に掲げて立ち上がった。群衆が、地鳴りのような歓声を上げた。二十年前、本物の彼がどこに立ってどう死んだかを知る者が、この広場に何人いるだろう。歓声は、知らない者の声のほうが大きい。いつだってそうだ。
私は懐の刷り物に手をやって、一時間の残りを数え始めた。
そのときである。
空の色が、変わった。
青が、膿んだ。
ほかに言いようがない。雲ではない。雲なら流れる。空の高いところに、流れのない色が滲んで、見る間に広がった。楽隊の音が端から崩れて止んだ。歓声が止むのは、それより一拍遅かった。広場いっぱいの人間が、申し合わせたように首を上へ折り、黙った。
祭りの只中の沈黙ほど、大きな音はない。
私は、あの色の名前を知っていた。
頭が思い出すより先に、膝が思い出した。膝が落ちかけ、口の中に古い味が湧いた。鉄と、焦げた甘いような何か。二十年前、あの色の下で私は三日眠らず、戻らぬ者を数えるのを途中でやめた。あれは門の色である。世界の布を、向こう側から何かが押しているときの色である。
八十年先のはずだ、と頭のどこかで誰かが言った。掛け金表の数字が、意味もなく明滅した。話が違うではないか。私はまだ、入ってもいないのだぞ。
遠くで、警報の鐘が鳴り始めた。一つではない。北の塔。続いて東。街の魔導計が——祭りの飾りに点っていた愛想のいい青い灯が——一斉に赤へ裏返った。
群衆の煮え方が、変わった。歓声の煮えから、悲鳴の煮えへ。




