完遂(後編)
説明しておく。広場の楽隊の音は、昼前からずっと、遠い潮騒のように店まで届いていた。景気の良い、調子はずれの、祭りの音である。私はそれを、聞かないように聞いていた。あの音が崩れる順番を、私は知っていた。端から崩れるのである。太鼓が先にやめ、笛が一拍遅れ、最後に間延びした角笛が一本だけ残って、それも途中で折れる。
その通りに、崩れた。
私の膝が、卓の下で落ちかけた。口の中に、古い味が湧いた。鉄と、焦げた甘いような何か。窓の外の日射しの色が、ほんのわずか、誰も気づかぬほどわずかに、悪くなった。
それから、北の塔の鐘が鳴った。
一つではない。続いて東。街の魔導計が——祭りの飾りに点っていた愛想のいい青い灯が——一斉に赤へ裏返っていく頃合いである。見なくても分かる。私は昨日、広場のただ中でそれを見た。本日は、奥の席で、杯の中身が小さく波打つのを見ている。それだけの違いである。それだけの違いのために、私は今朝、第七条まで条文を立てたのである。
マレンは敷居の上で立ち止まったまま、三秒、外の音を読んだ。それから回れ右をした。出ていくためではない。店のいちばん大きな卓——ついさっきまで私の軍議が開かれていた、あの卓へ、まっすぐ歩いてきたのである。
「この卓、借ります」
グリニスに向かって言った。私にではない。グリニスは帳簿から目を上げ、「時間貸しだよ」と言った。マレンは頷いて、小銭を一枚、卓の端に置いた。この二人の取引は三秒で済んだ。世界が傾き始めた日に、私の店——私の店ではないが——でいちばん正気だったのは、この取引であった。
最初の伝令は、鐘から五十数えるうちに来た。
若いのが、転がり込んできたのである。敷居で足をもつれさせ、それでも敬礼だけは省かなかった。騎士団というところは、つくづく敬礼だけは仕込む。
「報告! 北天に異変、魔導計、全数振り切れ。隊長より、マレン様に——式典の、中止の決裁を」
「中止。群衆を大路から南へ。壇上のお歴々は裏から」と、マレンは言った。言いながら、卓の上のものを動かし始めた。私の水差しが卓の中央へ。塩の壺がその北へ。グリニスの帳簿の文鎮が西の端へ。「これが広場。これが北の塔。伝令、お前は走る前に水を一杯飲んでいけ」
若いのは水を飲み、走り出ていった。入れ替わりに二人目が来た。広場の群衆規制の報せ——に、付け足しがあった。壇上のお歴々が、退避に馬車と護衛の随伴を求めている、と。
「裏から歩けば済みます」と、マレンは言った。「その分は橋へ回す。渡すのは年寄りと子供が先。荷車は最後」
伝令が復唱して、走った。私は、切られた側の顔ぶれを思い浮かべた。後日、彼女の上役に苦情が何通届くか、勘定の立つ顔ぶれであった。彼女はその勘定を、秤に載せもしなかった。
三人目は、それから間を置かずに来た。
「河向こう、精錬工場より急報! 使役魔族の首輪が複数同時に変調、数体が拘束を——」
三人目の声は続いていたが、私は途中から、音としてしか聞いていなかった。
マレンの手が、卓の上の私の杯を取り、卓の南東——河向こうの位置に、置いたからである。
「工場はここ。河はこの線」と、彼女は言った。私の杯が、工場になった。今朝がた私が先約だの信義だのと言って掲げてみせた、あの杯がである。先約の相手は、いまや河向こうの低地で、黒い山脈のように寝そべっている。
四人目の伝令は、血の気のない顔で来た。工場の続報であった。首輪を破った個体が四。三は抑えた。残る一は規格の外で、騎士団の一個隊で止まらない。隊列の言葉の合間に、床に、と聞こえた。床に縫い付けられたようになって動けない個体が一、検めの手が回らない、と。
床に頬を付けたまま、まっすぐに伸ばされていた腕を、私は思い出した。思い出しただけである。誰にも言わなかった。
五人目は、北西の観測所からの数字を運んできた。空の滲みの中心は、街の上ではない。北西の山向こう、距離は読み切れず、観測の数字は割れている、と。
「出たものは」と、マレンが訊いた。
伝令は、一拍詰まった。「……報告が、ありません。斥候からも、街道筋からも。出てきたものを見た者が、どこにもいません」
マレンは何も言わなかった。何も言わずに、卓の上の北西の端——文鎮より、もっと外——を、少しの間だけ見た。
ついでのように、山際の里から、周縁に潜む流民どもの動きが妙だという急使も来ている、と五人目は付け足した。
卓の上が、街になっていた。
水差しと塩壺と文鎮と杯の間に、伝令たちの言葉が線を引いていく。北に異変、河向こうに工場、西に避難の人波、山際に流民、そして滲みの中心はそのどれでもない、もっと遠くのどこか。
私は奥の席から、それを見ていた。
昨日の私は、この盤面の上を走ったのである。広場から河まで、人波を縫って、借り物の剣で。あのとき私が見ていたのは、前を走る騎士の背中と、足元の石畳と、屋台の娘の振る手だけであった。私は、自分の死んだ日の地図を、知らなかった。杯一つ分の枠の中で死んだのだ。本日、店の奥の席に座って、初めて全図を見ている。見たかったわけではない。世界のほうが、卓一つ分に畳まれて、押し寄せてきたのである。
「マレン様、隊長より伝言です」
四人目の伝令が、最後に付け足した。彼は言いにくそうに、しかし伝令の正確さで言った。
「『首輪を破った個体を斬れるのは、あの方しかいない』と。……あの方が、その、ご酒場におられるなら、と」
店の中の音が、変わった。
グリニスの火掻き棒の音が、止んだ。長椅子の下の寝息は、もとから止んでいたのかもしれない。朝の三人の常連は、とうに表へ飛び出して野次馬の列にいる。残っているのは、酒場の女主人と、長椅子の下の居候と、戦況板になった卓と、その向こうの、私である。
マレンが、こちらを向いた。
彼女は何も飾らなかった。膝も折らず、声も作らず、卓の上の街に片手を置いたまま、言った。
「ヴァンス殿。行っていただけますか」
私の右手は、杯の——いや、杯はもう工場である——私の右手は、卓の上で、所在を失っていた。私は左手を重ねて、それを押さえた。二十年前から、私の手は時々、私に断りなく英雄をやる。本日は、やらせない。やらせないために、今朝の私は第六条と第七条を立法したのである。河を渡らない。誰の腰からも、剣を借りない。
「……休業だ」
と、口が言った。
言ってから、その言葉が店の空気のどこに落ちたか、私は耳で確かめた。朝、番頭に言ったときには、あの言葉は笑いの形に落ちた。昼、この女に言ったときには、事務の形に落ちた。いま、同じ言葉は、どの形にもならずに、ただ床に落ちた。落ちて、転がりもしなかった。
マレンは、三秒、私を見た。
その目を、私は読んだ。読みたくなかったが、読んでしまうのが私という男である。侮蔑はあった。あったが、それは新顔の侮蔑ではなかった。仕入れて長い、棚で熟成された侮蔑であった。本日が初対面のはずの女が、なぜ年代物を持っている。簡単である。私が二十年かけて、市場に出回らせたからである。彼女はそれを、ただ定価で買っただけだ。
「そうですか」
と、彼女は言った。それだけであった。彼女は卓の上の街に向き直り、伝令に何かを命じ始めた。私はもう、計算の外であった。盤面から、杯一つ、取り除かれたのである。
頭の中で、弁護人が立ち上がろうとした。
立たせなかった。口を開く前に、議場ごと閉めた。何を言うつもりだったのかは、聞いていない。聞けば、弁護の体を成す。弁護が体を成すということは、裁かれるべき何かがそこにある、ということである。
閉廷である。本日の要塞は、身内にまで開かない。
代わりに、と言ってはなんだが、私は一つだけ口を開いた。開く気はなかったのである。だが、伝令が走り出ていく直前、気がつけば声が出ていた。
「——名義人として、一つ言っておく」
マレンが、手を止めた。
「炉だ」と私は言った。「あの工場は古い。数字が荒れている日に、あの炉を信用するな。鎮圧より先に、誰かに火を落とさせろ」
二十年ぶんの図面を送りつけられれば、名義を貸すだけの男でも、炉の癖くらいは覚える。覚えたところで、見に行ったことは一度もないが。
マレンは私を見た。値踏みの目ではなかった。聞いた言葉を、使えるか使えないかの順に並べ直している目であった。
「炉を、先に」と、彼女は復唱した。「——以上ですか」
「以上だ」
「伝えます」
伝えます、とだけ言った。礼は言わなかった。礼を言われる筋の話でもない。名義人が自分の看板の心配をしたまでである。それ以上の何かであったかどうか、私は知らない。知らないことに、しておく。
マレンは卓の上の街を一瞥し、グリニスに「卓、戻せませんでした」と言い、扉へ向かった。鎧の音が敷居で一度止まり、彼女は振り向かずに言った。
「式典は中止です。——よかったですね」
鎧の音が、雑踏に呑まれて消えた。
番頭が、まだ店の隅にいたことに、私はそのとき初めて気がついた。彼は壁際の樽に腰を預け、揉み手の形のまま固まった両手を、所在なげに眺めていた。式典が死んで、彼の本日も死んだのである。彼はやがて立ち上がり、誰にともなく「ようございます、ようございます」と言い、帽子を忘れて出ていった。帽子は、夕方まで卓の隅にあった。
それからの数刻を、どう書いたものか。
何も、起きなかったのである。私の身の上には。
鐘は鳴り続け、やがて間遠になった。表の通りを、避難の人波が西へ流れ、続いて野次馬の波が東へ流れ、夕方が近づくと、どちらの波も引いた。伝令はもう来なかった。戦況板の主が乱の中へ出ていったからである。報せというものは、人に付く。場所には付かない。
表で犬が二度吠えて、やんだ。誰かが走っていく足音がして、しばらくして、同じ足音が戻ってきた。竈の火が落ちると煮炊きの匂いが薄くなって、外の埃の匂いが入ってきた。グリニスが窓を一つ閉めて、それからまた開けた。
グリニスは店を開けたままにした。「こういう日は、開いてる扉が一枚あるだけで、誰かの役に立つ」と言ったのは彼女ではない。私でもない。誰も言わなかった。彼女はただ、いつも通りに竈の火を落とし、いつも通りに勘定場を拭き、卓の上の街を片付けた。水差しが水差しに戻り、塩壺が塩壺に戻り、文鎮が帳簿の上に帰った。
私の杯だけが、河向こうに残っていた。
彼女が手を伸ばす前に、私は立っていって、それを取った。河向こうから、私の杯を回収した。本日この手が成し遂げた、唯一の救出作戦である。
「……始めるのかい」と、グリニスが言った。
「始める」と私は言った。「奥の棚の、いちばん古い樽を頼む」
グリニスは私を見た。それから何も言わずに奥へ行き、樽の栓を抜く音をさせた。あの樽は、昨日の夕方、私が選びかけて、選び終わらなかった樽である。文章は、途中で千切れると、続きが妙な場所で待っているものらしい。
酒が来た。グリニスは新しい杯を出さなかった。私が河向こうから取り返した杯に、黙って注いだ。
私は奥の席に座り直し、樽の一杯目を飲んだ。
味が、しなかった。
正確に言う。味はあったのだろう。値段ぶんの味が。だが私の舌の上には先客がいた。鉄と、焦げた甘いような何かである。あれは図々しい客で、二十年前から、招かれもせぬ日に限って席に着く。私は二杯目を注いだ。先客に、勘定を払わせるつもりであった。
飲みながら、私は本日の戦果を検分した。
第一条、店から出ない——遵守。第二条、窓に近寄らない——遵守。第三条、他人の顔——適用機会なし。本日、誰も私を「英雄様」と呼ばなかった。グリニスの朝の一声と、伝令の「あの方」を除けば、である。「あの方」は呼称ではない。在庫の照会である。第六条、河を渡らない——遵守。第七条、剣を借りない——遵守。誰も貸しに来なかったから、遵守というより、市況であるが。
全条項、無傷で日没を迎えつつあった。
作戦は、完遂されたのである。
奥の席で、誰にも見つからず、泥酔へ向かって順調に航行している。隠れて飲むの何が難しいものか。世界の側に、私を探す暇さえなければよいのだ。本日の世界は多忙であった。北天に穴、河向こうに乱、山際に流民、観測の数字は割れ、騎士団は走り回り、布を被ったままの石像だけが広場で立ち往生している。そのどの帳面にも、私の名は載っていない。
三杯目あたりで、私は気がついた。本日の私は、一勝目のあとで「昨日の私より頭が良い」と胸を張り、二勝目のあとで「二勝目である」と数えた。三勝目を、数えていない。
数える者が、頭の中にいなかったのである。軍議は開かれなかった。弁護人は、口を開かせてもらえぬままである。勝鬨は誰かが上げるから勝鬨であって、無人の議場では音にもならない。
私は四杯目を注いだ。
そのとき、窓が光った。
西日であった。
それ以外の何かであったかどうか、私は知らない。日没どきの光が、表の窓硝子に一斉に入り、店の床に長い橙の梯子を架けた。遠くで、音がしたような気もする。鐘ではない、もっと低い、床から来る類いの。気のせいかもしれない。酒場の床は夕方になると鳴るものである。誰も顔を上げなかった。グリニスは勘定場で帳簿を繰っていた。長椅子の上では——いつの間にか下から上へ引っ越していた——サンカクが、壁を向いて寝ていた。
私の膝だけが、卓の下で、落ちた。
この刻限である。
昨日の私が終わったのは。布の掛かった死体と、伸ばされたままの腕と、検めの列と、夕方の色をした外光。終わった、これで帰れる、と思った。樽を選び始めていた。奥の棚の、いちばん——そこで、白くなった。
私は手の中の杯を見た。中身が、橙色に光っていた。半分まで飲んだ古い酒が、窓の光を受けて、嘘のように綺麗な色をしていた。こういうとき、酒は外連を知らない。
杯を持つ右手の甲が、光の中にあった。
筋が、見えた。
火に炙った蝋を、薄く引いたような。指の股から手首へかけて、走っている。光り方が、皮膚のそれではなかった。
私は、息を止めていたらしい。吸い直したとき、肺が痛んだ。
左手の指が、甲をこすった。一度、二度。蝋なら、これで取れる。取れなかった。といって、皮膚かと訊かれれば、皮膚のような気もしなかった。
私は手を回した。角度が変わると、見えなくなった。戻すと、見えた。もう一度回しかけて、やめた。
検分は、しない。
あれは、結果を知りたい者のやることである。私は手を窓の光から引き抜いて、卓の下に仕舞った。仕舞ってから、左手で五杯目を注いだ。左手は不器用で、少しこぼれた。こぼれた分も、ツケである。
ゆうべ——いや、昨日の朝——いや、もうどちらでもよい——屋台の娘に、帰りにな、と言ったのを思い出した。あの「帰りに」は、どこへ行ったのだろう。あの娘は今日、私の前を走り過ぎる客の一人も持たなかった。声を張る相手もないまま、早仕舞いをしたはずである。私は彼女に、揚げ菓子一つぶんの借りがある。ないのかもしれない。あの貸し借りごと、世界が引き取ったのだとすれば——引き取られた借金ほど、利息の高いものはない。返す先がないのに、減らないのである。
日が、落ちきった。
橙の梯子が床から消え、グリニスが灯りを二つだけ点した。こういう日の灯りは二つでいい。それが彼女の経済である。樽の酒は確かに減っていた。減らした覚えのある減り方ではなかったが、帳簿は正直である。私は泥酔の予定地のだいぶ手前で、杯を置いた。
灯りを点し終えたグリニスに、私は訊いた。
「今日、誰か私を訪ねてこなかったか」
グリニスは、布巾の手を止めずに言った。
「あんたが朝、見つけるなって触れを出したろ」
「……そうだった」
触れの通りになっただけである。触れの通りになったかどうかを、夜に確かめる男が、ここに一人いるだけである。
作戦は完遂された。
完遂、というのは妙な言葉である。完、も、遂、も、終わるという意味しか持っていないくせに、二つ重ねても、終わった気がまるでしない。
夜半、私は寝台に上がった。
毛布に、窪みがあった。けさの私の形である。ゆうべの娘の窪みは、今朝の時点ですでに私の窪みであった。世界は几帳面に巻き戻るくせに、窪みの貸主だけは替えてくる。どういう帳簿の付け方だ。
天井は、闇であった。
染みは、闇のどこかにいる。犬か、蕪か。見えない間、あれが何の形をしているのか、私は知らない。論争三年目にして初めて気づいたが、夜の間の染みについて、我々はまだ一度も争ったことがない。
眠っていない。
念のため記すが、私は眠っていない。眠らないのである。眠るというのは、今日という日を、枕の下に預けるということである。預け先の信用を、私はまだ調べていない。今日という日は——死ななかった、この一日は——まだ私の手の中にある。手の中にある間は、誰にも巻き取られない。
階下で、錠の音がした。グリニスが店を仕舞ったのである。長椅子の軋む音が一度。サンカクが寝返りを打った。遠くで、鐘。数えるのをやめた頃に一つ、思い出したように鳴る。乱は、まだどこかで燃えているらしい。河向こうか、山際か、もっと遠くか。卓の上の街は片付けられて、もう、ない。
私は半身を起こし、闇の中で上着を手繰り寄せた。胸の内側から、紙包みを出した。
階下の音が止んでいるのを、耳で確かめてから——誰に見られる気遣いもないのに、確かめてから——包みをほどいて、口に空けた。昼より苦い気がした。同じものである。苦くなったのは、たぶん時刻のほうだ。
娯楽ではない。歩哨が、交代しないだけの話である。
夜明けまで、鐘いくつ分だ。
私は目を開けたまま、闇の天井に向かって言った。
「犬だ」
誰も、言い返さなかった。
言い返されるまで、寝ないことに決めた。




