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戦胡蝶  作者: 遠部右喬
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戦胡蝶の章

「一体、あの蝶は何だったんだろう。あの坊さんは、なぜあんなことを言ったのか……」


 知りたかった。だが、怖ろしくもあった。

 珍かな話を集め、知るも知らぬも運に任せるのが精一杯だった。元の暮らしに戻るどころかずるずると里に居続け、あのことに想いを馳せれば、親に捨てられた絶望と怒りに目が眩みそうになる。村への道を探る気力も湧かず、胡蝶についても、引き取ってくれた養父母には勿論、誰にも直截に問うことも無かった。


 長く、目を背けることも受け止めることもなく来てしまったが、漸く二心なく「知りたい」と思えるようになったのは、己の先が見えてきたからかもしれない。


 だが。


 これまで数多の話を集めても、答えを知る日は来なかった。いっそ知らぬままがいいのかもしれない。ようやく諦めがついた、というべきだろうか。


「まあ、この歳まで生きてりゃ、おかしなことの一つ二つを抱えることだってあるわな」


 苦笑いを浮かべ、縄束を片付け始めた老人の耳を、風のような声が撫でた。


「それは『(いくさ)胡蝶(こちょう)』のことでございましょう」


 蕨爺の動きが止まる。大きく見開いた目がゆっくりと、笑みを浮かべる薬売りを捉える。


「……いくさ……こちょう……」

「蝶の(おう)とも呼ばれる、争いごとを強く嫌う質の蝶でございます。行きかう周囲に諍いの気配があれば、安住の地を求めて逃げ去ります。時期によっては戦胡蝶に付き従う群れがいるでしょう。その数は、争いの大きさを表しているそうです。まさかこちらで、あれのことを耳にするとは思いませんでした」


 無法者の群れには十、二十程、村同士の争いや大きな戦なら数十から数百も従うことがあるのだ、と。

 薬売りが続ける。


「こちらの村に参るまでに聞き及んだ話でございます。蕨様はご存じでいらっしゃるでしょうか。あの峰を越え馬で二刻も行った先に、かつて、豊かな村があったことを」

「かつて?」


 訝し気な老人に、りんが頷く。


「今では荒れ地になっております。豊かさ故に野盗の群れに襲われ、村人の殆どが命を落としたそうです」


 どくん


 蕨爺の心臓が跳ねる。


「僅かに生き延びた村人の話が、今に伝わっています。野盗に通じていた裏切り者の一家が居たのだ、と。裏切り者の末路は、とても惨いものだったそうです。ただ、その家には子供と老母がいた筈ですが、二人は何処にも見当たらなかったとか。後に、野盗の隠れ家で見つかった骸がその老母では、とも言われておりますが」


 老人が呆然と、手の中の縄束に目を落とす。


 もしも己が、野盗の襲来や戦の気配を知る事の出来る立場だったら? 逃げ出そうにも、他の身内を質に取られていたら? 

 どうにもならない状況で、幼い子供がいたなら、自分ならどうしただろう?

 真夜中、人目をはばかる様に馬に引き上げられた時の父親の息遣い。母が最後に頭を撫でてくれた手は、震えていなかったか。

 暖かな父の背で聞いた声は、「(いと)わしい」ではなく、「いとおしい」だったのだとしたら?

 この村に己を引き留めた大人達の痛まし気な眼。過保護なまでに、野盗などの怖ろしい話を聞かせたがらない養父母。


 これまで過ごしてきた全てが繋がる。長く抱えていた蟠りが揺らぎ、蕨爺の目に、涙が盛り上がる。


(わあ)は……捨てられたんじゃ、ない……? 皆、知ってい……」


 言葉が途切れた。


「おや。蕨様、どうされましたか?」

(?)


 老人の乾いた手が、己の喉を包む。

 声が出ない。息苦しさはないが、どうしたことか、声の出し方が判らない。胸を掻きむしり、叩いてみても、僅かな掠れすら出てこない。


「ああ、成程」


 弓型に撓んだりんの目に、ぞわり、と老人が総毛だつ。

 水面を啄む魚のように口をぱくぱくとさせる老人に、薬売りは細い眼を二日月にまで細め、


「よく思い出してくださいませ。貴方様は、修行僧に誓いを立てませんでしたか」


 誓い……一つの問いに一つの答えって、あれか?


(……あっ)


 老人が目を見開く。そうだ。


『俺のことは口にするな』


 別れ際の修験者の言葉に、自分は確かに頷いたのだ。


「いけませんね。どのような立場でどのような相手であっても、交わした言を軽んじるのはお勧めいたしかねます」


 呆然とする蕨爺に、


「残念ですが、蕨様はこれから先、どなたとも言葉を交わすことは叶わないでしょう」

(……? どう、いうことだ……?)

「誓いの反故には相応の報いがある、ということでございます。今はまだ、言葉に合わせた口の動きや頷きは表せましょう。が、すぐにそれもお出来にならなくなります。新たに文字を覚えることも出来ません。縄結びはどなたも読み解けないとのことですから、これまで通りに行えましょう。それが何かを伝えることは永遠に叶わないかと存じますが」

(あんたが吾の身に、何かしたのか? 修験者の(のろい)なのか?)


 薬売りの撓む眼に、血の気の失せた唇を震わせた老人が映る。


「わたくしは、何も。呪とも言えません。先程申しましたでしょう。言を軽んじた因が、不言という果を結んだのです。ですが、ご安心くださいませ。それ以外の暮らしはこれまでと変わらず過ごせる筈です。あの方も、存外お優しいこと」


 あの方とは、修験者のことか? 微かに親しさを潜ませた言葉に、老人は混乱する。あの修験者が今も生きていたとしたら、己よりも年嵩の筈だ。まだ若いだろう目の前の薬売りと交わりがあるとは思えなかった。顔立ちも、身ごなしも、まるで違う。血脈(けちみゃく)とも思えない。


 なのに何故、修験者と薬売りの眼が、やけに重なる?


(わざとじゃなかったんだ。つい、言い漏れてしまって……呪じゃないなら、どうにか……りんさんの薬で、どうにかなるんじゃないのかい?)


 老人が薬売りににじり寄り、縋るように腕を伸ばす。りんはその手を躱し、柳行李に手を置くと、


「お気の毒でございますが、わたくしにもどうすることも出来ません。仮に出来たところで、わたくしが手を出したらあの方は酷くご立腹されましょう。そう多くは無い同胞(はらから)気色(けしき)を損ねるのは、御免でございます」


 大きな商売道具をひょろりとした背に負った。


「すっかり刻を過ごしてしまいました。そろそろお暇させていただきます。薬をお買い上げいただきありがたく存じます。素晴らしい奇譚の数々、大変楽しゅうございました」

(待っておくれ! 助けてください! 二度と言を違えたりしないから)

「戦胡蝶の(まこと)にはご満足いただけましたでしょうか。それでは失礼いたします」

(待っ……!)


 一陣の風が屋に吹き込む。面を叩くそれに老人が思わず目を瞑る。

 強い樟脳の匂いに老人が薄目を開けると、既に薬売りの姿は消えていた。

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