修験者の章
修験者の目に、僅かに興味の色が湧いたのを子供は見逃さなかった。掠れ声で、必死に言葉を繋ぐ。
「吾は、見て、ました。知りたい、ですか」
修験者はまだ涙の残る小さな顔を見詰め、暫くして腰に下げていた水筒を手に取り、
「水だ。飲め」
子供の目の前に放った。子供は夢中で飛びつき、水筒を傾ける。ごくごくと何度も喉を鳴らし、ようやく落ち着くと、
「お水、ありがとうございます。あれの行方は教えます。だから、吾にも教えてください……何処に向かえば麓に、村に辿り着けますか」
先程よりも力を取り戻した声に修験者は応えず、
「腹が減っているなら食い物もやる。その代わり、俺が一つ問うたら、一つ答えろ。余計な口は叩くな。俺の言葉に従うと誓え」
一方的に告げる。戸惑う子供に、
「道は教える」
と、一言。それだけで子供の心が落ち着いた。このお坊さんは怖ろしげだが、屹度嘘はつかない……そう思えた。
「誓います」
「お前が見たあれは、群れを率いていたか」
「はい」
「どれくらいの群れだった」
「分かんない……でも、十頭よりかは飛んでた。二十近くいたかもしれない」
修験者が子供を見つめる。気不味さに子供が「あの……」と口を開きかけると、
「俺の問うたことだけに答えろと言った筈だ」
子供が首を竦める。
「どっちから来て、どっちに行った」
「こっちの藪から出て、あっちに行きました」
「お前はどの方角から来た」
「夜だったし、わかんない」
「お前は何故この山に居る」
「……………………わかんない」
修験者は背に結わえていた布から、竹の皮に包まれた拳ほどの荷を取り出すと、子供の前に置いた。
「食え」
包みを開けると、中には握り飯が二つ並んでいた。丸呑みする勢いで一つ貪った子供が、手と口を止める。唾を呑み込みながら修験者を見上げ、もじもじと残った握り飯を差し出す。
「構わん。それも食え」
「でも……」
「勝手に口をきくなと言った。何度も同じことを言わせるな」
熱の無い声に八の字に眉を下げ、それでも空腹に耐えかねた子供が、残りの握り飯に手を伸ばす。
漸く腹が落ち着いた子供が、指に付いた麦の滓を舐めとりながら、
「ねえ、吾はちゃんと答えたよ。村への道を教えてください」
「知らん」
「そんな!」
今にも泣きだしそうな子供に、
「俺はただ『道を教える』と言った。お前がどこから来たのか分からなければ、村とやらに辿り着く道を答えようがない。一番近い里村への道を教える。まずはそこに行くがいい。後のことは、俺のあずかり知らんことだ」
考えてみたら、自分は馬に乗せられてここまで来て、捨てられたのだ。子供の脚では、いつ帰り着けるか分からない。修験者の言う通り、まずは人里に行って、助けを請おう。もしかしたら、馬を借りられるかもしれない。だが、帰ってどうする?
父は、母は、己を受け入れてくれるのか。そもそも、何処に村があるのかも分からないのに、馬を借りたところで、どうやったら帰れるというのか?
喉の奥がぐぅっと鳴る。子供は歯を食いしばった。
泣くな。泣いたら、この気の短そうなお坊さんは、今度こそ自分を見捨てるかもしれない。子供は無理矢理に涙をのみ込み、
「分かりました。その里村へは、どうやって行ったらいいですか」
「付いてこい」
修験者は子供に背を向け、蝶の群れが飛び去ったのと反対の藪へ踏み出した。あるかなしかの獣道を黙々と歩き続け、一刻も経った頃。
「このまま下れば道に出る。それを右に行くがいい。半刻も歩けば里がある」
樹々に遮られて薄暗かった獣道はいつの間にか所々が刈り入れられ、人気の感じられる明るさを帯びていた。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとうございました」
深々と頭を下げる子供の耳を、葉がさざめくような声が撫でる。
「あれを誰ぞに訊ねるのはお前の勝手だ。だが、俺と会った事は決して口にするな。お前達の言種にされるなど、考えただけで気分が悪い」
よく分からないが、このお坊さんは噂になるのが嫌なのだろう。修行してるのを見られるのが恥ずかしいのかな、それとも、とても綺麗な顔をしているから、それで何かあったのかしら……子供なりに考え、頷いた。
「一つだけ教えてやろう。元の村に戻ろうとするな」
「え?」
修験者に問い返そうとしたその時、一陣の風が吹いた。まともに顔に受けた子供が思わず目を瞑る。次に目を開けた時には、修験者の姿には何処にも無かった。




