遭逢の章
ふらふらと山の細道を行く小さな影があった。藪に紛れた獣道同然の細い筋を、やつれ、汚れた衣を纏った子供が行く。
子供の身体から獣のような臭いが漂う。手持ちの水は疾うに尽き、道すがら、僅かな山菜と朝露で飢えと渇きをしのいではいたが、それもそろそろ限界だった。
ほんの数日前の満月の夜。
村の全てが寝静まった頃、子供は身体をゆすられ、目を覚ました。月明かりに、父母の立っている影がぼんやりと浮かぶ。
眠気にぐずり始めた子供の頬を、父が強く張った。痛みと驚き、恐ろしさで泣くことも出来ずにいる我が子に、
「静かにしろ」
と、乱暴な手で口に布をかます。強張った小さな身体が抱え上げられる。
子供が助けを求めるように母に手を伸ばすと、指先に温かな手がそっと触れた。直ぐに離されたその手が、小さな頬を、頭を撫でる。父が「行くぞ」と囁く。母は何事も無かったように横になり、そっぽを向いた。
父は子供を抱え急ぎ家を出ると、村の皆で飼っている馬に子を乗せ、その後ろに己も跨る。
馬が走りだし、子供の眼から涙が溢れた。
――怖い。それ以上に、訳が分からない。
どうして父は何も言ってくれないのか。母は、何故父の乱暴を止めてくれなかったのか。背に感じる大きな体の温みは、本当に父なのか。
どれくらい奔ったか、漸く馬の脚を緩めた父は子供の口を覆っていた布を外し、
「夜明けまでまだある。少し寝ろ」
硬い声音に、それでもいつもの穏やかな父を感じ、ずっと強張っていた子供の身体から力が抜けた。
なぜ突然連れ出されたのかも、どこに行くのかも分からないが、父のする事に屹度間違いはない。穏やかになった馬の背の揺れが眠りに誘う。子供は父に背を預け、目を閉じた。
次に子供の意識が戻ったのは、いつの間にか馬から降ろされ、父に背負われていた時の事だ。
目も開けられない程の眠気に再び眠りに落ちかけた耳に、父の微かな声が刺さった。
「厭わしい」
寝たふりをするのが精一杯だった。
これまでずっと、そう思われていたのか? 穏やかで寡黙な父の胸の内を聞いたことはない。信じられなかった……信じたくなかった。
温もりが離れていく。
父の背から降ろされ、そっと横たえられた。草の匂いに包まれる。腹に何かが置かれた。
声を掛けるなら今だ。そう思うのに、先程の父の呟きが繰り返し聞こえるようで、声をあげることも、目を開けることも出来ない。
父は、吾が目覚めてることに気付いてないのだろうか? どうしたらいい? 怖い。声をあげるのも、父がどんな顔をしているのか知るのも、怖い。
やがて、走り去る足音。漸く瞼を開けると、明け始めた空の色が目に飛び込んだ。父が戻ってくる気配はない。
薄黄を帯びた雲が滲む。子供は声も無く涙を零し、悟った。
(吾は、捨てられたんだ)
腹の上に置かれた竹の水筒は、精一杯の哀れみだったのかもしれない。
涙をぬぐい、あてどなく彷徨っていた子供は、深く茂る樹々とこれまでに覚えのない地に、真面な道も見つけられずにいた。
ふと。
右手の藪がかさりと震えた。獣にしてはかそけき音だったが、小さな肩がびくりと竦められる。怯えた目が藪に向けられた刹那、
ざぁっ
飛び出した蝶の群れが、子供の目の前を過った。
奇妙な光景だった。この時期に山里で見掛けるあらゆる種の蝶が何頭と舞っている。足を止め、大きく目を見開いた子供の前で、群れが一斉に向きを変えた。
その先頭には、見慣れない、一際大きな胡蝶が一頭。
妙に長い胴をくねらせ、その左右には鱗柄の浮いた翅が蒼碧に煌めく。前翅の真ん中で、ひどく生々しい蛇の目柄が金色に光った。
射すくめられたように、子供が身を縮める。
どれ程そうしていたか。僅かだったようにも、永久にも思えた光景はいつの間にか過ぎ去り、独り、山道で途方に暮れる自分だけが取り残されていた。
(夢?)
腹が減り過ぎて、在りもしないものを見たのだろうか。いや、そこここの葉に鱗粉が光っている。ならばあれは、山神様の御遣いなのかもしれない。そうだ、屹度、見てはいけないものを見てしまったのだ。ならば己には、それ相応の罰がくだるのだろう。
ここまで歩いてはみたが、いよいよ終いなのかもしれない……子供がへたり込んだ。もう立ち上がる事も出来ない。涙すら流れない。
がさっ
藪の一部が震えた。生気の抜けた子供の目が、ぼんやりとそちらに向く。
今度こそ獣だろうか。せめて、惨い最期だけは迎えたくはないが仕方がない。それが山神様のお望みならば。
「…………」
藪から現れたのは猪でも熊でもなく、しかし、細身ながら、立ち上がった大熊よりも上背がありそうな修験装束の男だった。
男が足を止め辺りを見回す。
修験者にしては、何ともちぐはぐな男だった。
数珠も錫杖も携えず、身に纏っている白衣と結袈裟は古びて見えるものの、山で修業をしているにしては汚れやほつれは見当たらない。装束の首元にしっかりと巻かれた布は何処にも隙間が無く、恐らく全身そうなっているのだろうと思われた。ざんばらに伸びた黒髪に縁どられた男らしく整った顔にはどのような心も見いだせず、まるで美しい木彫りの面のようだ。
そして、におい。山道の更に奥山を思わせる青々としたにおいが、男から漂ってくる。
「山……神、様?」
かさついた声に、初めて修験者の目が子供を捉えた。僅かに細められた目は、すぐにあさってに向けられる。
何事も無かったように周囲を見渡す修験者の脚に、子供が縋る……いや、縋りかけた。
「――俺に触れるな」
怒りと拒絶を纏った葉擦れのような声に、子供の手が止まる。その目から枯れたと思っていた筈の雫が頬を伝った。
怯えからではなかった。数日ぶりに耳にしたひとの言葉への安堵に、ぜいぜいとした息と涙が溢れる。
「触れ……ません。だから、置いて、いかないで……」
「知らん」
にべもなく突っぱねる修験者の足元でへたり込んだまま、子供が掠れた嗚咽をあげていると、
「お前、五月蠅いな。気が散る」
と言いながら再び周囲を探る様に辺りを見回す修験者の様子に、子供はふと思った。
――このお坊さんは、もしかしたらあの、蒼い胡蝶を探しているのでは。
「知って、ます」
「……何?」
「あの胡蝶が、どっちに去ったか」




