奇譚の章
調薬を終え、板間に正座したりんは、受け取った薬代を懐に仕舞い、改めて蕨爺に向き直る。
「それでは、どのような話からいたしましょうか」
蕨爺は板敷の隅に積まれた頑丈そうな櫃の一つから、何十本もの細い縄束を取り出すと、
「吾が聴きたいのは奇談だ。と言って、ただの真贋怪しい話が知りたい訳じゃなくてね。真のある、神様や神様に選ばれた者、珍しい生類の話があれば、それをお願いしたい」
「――承知いたしました」
りんが語り始めた。
雨神に選ばれた娘の顛末。失せもの探しの術を伝える一族。泥より生じる狼。拳ほどもある飛虫と岩を穿つ蝙蝠の戦い。
語られる異譚に頷きつつ、蕨爺が結び目のある縄を選んでは、時折、そこに結び目を足していく。
りんの細い目が、蕨爺の手元に向けられる。
「蕨様は先程から、何をなさっていらっしゃるのでしょう」
「こいつは物語を閉じ込める為の仕組みさ。吾は字を知らないんでね、縄の色や結び目の場所、数を見れば、どんな話だったか解るようにしてるんだ。黒の縄なら、方角や獣の種やらその数なんかが結んであるって具合だよ」
「成程。遠国ではそういった規模が用いられる、と聞き及んだことがございます」
頷く薬売りに蕨爺が笑ってみせた。
「皆、似たようなことを考えるんだな。尤も、吾のは我流だから、この世に読み解けるのは吾しかおらんがね」
「勿体のうございますね」
「ははっ。なら、吾が死んだら、りんさんに全て差し上げるんで、読み解いてみておくれ。もしもまた此処に立ち寄る事があったらだが」
「ではいずれ、ありがたく頂戴いたします」
飄々とした物言いに、老人が破顔する。
「例え言承けでも嬉しいね。娘にも孫にもそんなものは要らないって言われたよ。誰にも託せないと思うてた」
老父を案じ、嫁ぎ先の隣村から年に二、三度、娘が孫達を連れて訊ねて来るのだが、奇譚を強請られたことは一度も無い。
「それじゃあそろそろ、吾も何か話そうか……そうだ、この櫃の中から好きな縄束を取っておくれ」
蕨爺が、先程縄束を取りだしたのとは別の櫃をりんの前に置く。
「この中には、吾が聞いた話の中でも特に気に入ったものを入れてある。それをお聞かせしよう」
りんが藁束の幾つかを櫃から取り出す。蕨爺はそれを受け取ると、縄に目を落とし、こほんと咳払いの後に、語り始めた。
海中に棲むという角虫の話。とある村で行われているという、神様への供え物を決める為の呪。沼に祀られた神と神官の恋物語。どれも、りんの話に劣らない奇談たちだった。
湊からそれ程離れていない村には、遠方からの旅人が立ち寄る事もある。そんな旅人たちから聞き及んだ話を長いこと結びためていたのだと、蕨爺が笑う。
りんは細い目を更に細め、
「なんとも興味深いお話の数々でございました。お聞かせいただきありがとうございます」
「なんの。それじゃ、この縄束をあげるよ。こいつは海に棲む角虫の話の束だ。これを読み解いて、いずれの時の縄目を読む頼りにしておくれ」
「ありがたく頂きます」
差し出された縄束を受け取り、りんは成程……と呟きながら、縄の結び目を細い指で辿る。その顔が、ふと明かり取りに向けられた。
気付けば、橙に薄紫を纏い始めた空に円い薄月が浮かんでいる。
「申し訳ございません、随分と長居をしてしまいました」
「こっちこそすっかり引き留めてしまって、済まなかったね」
りんの口角が上がった。
「お暇前に、もう一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
頷く蕨爺に、
「蕨様は何故、このような話を集めていらっしゃるのでしょう」
蕨爺の眉がぴくりと動く。
「……ただ惹かれるから、ってことじゃ、おかしいかな?」
「いいえ。ですが、蕨様のお集めになった話には、全てどこかしら似通った筋が感じられます。わたしくに望んだ話もそうでした。ですからなにか故がおありなのでは、と」
蕨爺は口元を引き結んで俯いた。やがて、思い切ったように顔を上げ、
「りんさんの言う通りだ。吾はずっと、あるものの意味を知りたいと願ってた」
「あるもの、でございますか」
蕨爺が頷く。
「忘れられないから、縄結びに閉じ込めることはしなかった……いや、違うな。あれを縄結びしたら、現と認めたことになってしまいそうでさ。そうしたら、吾の身に起きたことも認めなきゃならない。それが怖ろしかった……」
沈黙が降りた。蕨爺の眼が、何処ともなく遠くに向けられる。
「吾はさ、十にもならない内に捨てられたんだ。その時の話だよ」




