コンビニワープ(ロングバージョン)
その日は、朝からすべてが上手くいかなかった。
大事な商談に向かう途中で資料の不備が見つかり、空はどんよりとした鉛色。おまけに、目の前の国道は呪われているのかと思うほど、進みが遅い。
「ちっ、いつもこの信号長いんだよな!」
俺はハンドルを苛立たしく叩いた。
苛立ちはアクセルワークに現れる。信号が青に変わった瞬間、エンジンを唸らせて急加速し、前の車との車間を詰める。だが、運命というやつは俺を嘲笑うように、次の交差点でも無情な赤を突きつけてきた。
「こっちは急いでるんだよ!」
時計を見る。あと十分。普通に行けば間に合わない。
その時、交差点の左角にあるコンビニの駐車場が目に入った。
入り口から入り、そのまま駐車場を斜めに突っ切れば、信号待ちをしている車をごぼう抜きにして、左側の道路へショートカットできる。
俗に言う「コンビニワープ」だ。
マナー違反だとか、危険だとか、そんな綺麗事はどうでもいい。今の俺には一分一秒が惜しいのだ。
俺はウィンカーも出さず、ほとんどノンブレーキに近い速度でコンビニの敷地へと車を滑り込ませた。
タイヤが縁石の段差を乗り越え、ガクンと車体が揺れる。
その直後だった。
「――っ!?」
視界の端に、小さな、青い影が飛び込んできた。
ランドセルを背負った小学生らしき子供が、店から飛び出してきたのだ。
「危ない!」
俺は反射的にブレーキを蹴り飛ばし、ハンドルを右に力任せに切った。
ABSが作動し、タイヤがアスファルトを削る不快な音が響く。
ドンッ。
鈍い、重苦しい衝撃が車体に伝わった。
やった、と思った。
冷や汗が全身から吹き出し、心臓が口から飛び出しそうなほど激しく波打つ。
俺はバックミラーを覗き込んだ。
だが、そこには誰もいなかった。
コンビニの客も、店員も、誰一人としてこちらを指差したり、悲鳴を上げたりしていない。皆、何事もなかったかのように平然と歩いている。
「……なんだ、空耳か?」
車を降りて確認する余裕なんてない。俺はそのままアクセルを踏み、逃げるようにその場を後にした。
商談を終え、夜になって自宅に戻った俺は、恐る恐る車のフロントを確認した。
傷一つない。へこみも、血の跡も、何一つ。
翌日の地元の新聞やネットニュースを隅々までチェックしたが、あのコンビニ周辺での事故報告は一件もなかった。
「ギリギリ回避できていたのか……。それか、ゴミ袋か何かを引いたんだな。運が良かった」
俺は自分に都合のいい解釈をして、その出来事を脳の奥底に押しやった。
ある日、俺は気分転換を兼ねて、隣県まで少し遠いドライブに出かけていた。
知らない土地、慣れない道。だが、相変わらず俺の運転は荒いままだ。
またしても、長い信号待ちに捕まった。
「またかよ。どいつもこいつもノロノロ走りやがって」
イライラが頂点に達した頃、前方の信号が青に変わった。
だが、その先の交差点はすでに黄色から赤に変わろうとしている。
ふと左を見ると、あの日と同じような角地のコンビニが見えた。
「……一回できたんだ、今回も行ける」
俺は学習能力のない自分を正当化し、再びアクセルを踏み込んだ。
時速40キロ、50キロ。駐車場をただの「通路」として利用するために突っ込む。
その瞬間、デジャヴのように視界が歪んだ。
車の影から、あの日と同じ「青い影」が飛び出してきたのだ。
小さな体、揺れるランドセル。
今度は避ける間もなかった。
ドンッ!
先ほどとは比較にならないほどの凄まじい衝撃。
小学生の男の子は、まるで紙屑のように宙を舞った。
彼はそのままコンビニの正面ガラスへと突っ込み、激しい音を立てて硝子の破片と共に店内に消えていった。
「はっ……はぁ、はぁ、はぁ!!」
気がつくと、俺は自分の部屋のベッドの上で跳ね起きていた。
寝巻きはぐっしょりと汗で濡れ、心臓が喉の奥で暴れている。
「夢……か」
俺は震える手でサイドテーブルの水を飲み干した。
あまりにもリアルな感覚だった。あの肉体にぶつかった重み、ガラスが砕ける音。
俺は激しい動悸を抑えるためにスマホを手に取り、無意識にヤフーニュースを開いた。
地域ニュースのアーカイブを何気なく遡っていると、ある記事が目に止まった。
『数年前の今日、〇〇市内のコンビニ駐車場にて、ショートカットを試みた乗用車が小学生を跳ねる死亡事故が発生。運転手はそのまま逃走……』
記事に添えられた写真の現場は、俺が夢で見たコンビニと瓜二つだった。
そして、亡くなった男の子の特徴も。
「まさか……。あの時の俺に、注意を促してくれたのか?」
霊的な何かが、俺がこれ以上取り返しのつかない過ちを犯さないように、警告を与えてくれたのではないか。
俺は自嘲気味に笑った。
あんな危ない運転はもうやめよう。これからは安全運転を心がけよう。
そう心に誓い、もう一度眠りにつこうと枕に頭を沈めた。
「……違うよ」
耳元で、冷たい、湿った声がした。
「え?」
隣を見る。
そこには、夢で見たあの「青い影」がいた。
だが、それはもう「影」ではなかった。
頭部は異様にひしゃげ、右目は飛び出し、全身の至るところから赤黒い血を流した小学生の男の子が、俺の布団の中に潜り込んでいた。
彼は、バキバキと音を立てる顎を無理やり動かして、不敵に笑った。
「警告なんかじゃない。あの時、おじさんはちゃんとボクを殺したんだよ」
「何を……」
男の子の血まみれの手が、俺の首筋に触れた。
氷のように冷たい。
俺は叫ぼうとしたが、喉が固まって声が出ない。
「夢で見た事故は、これからの予告じゃない。おじさんが無かったことにした『記憶』。さあ、今度はどこのコンビニに行く? ボク、ずっと車の下に張り付いてるからね」
小学生の顔が、俺の鼻先まで近づく。
腐敗臭と鉄錆のような匂いが鼻腔を突いた。
俺は、恐怖のあまり意識が遠のいていくのを感じた。
次に目が覚めた時、俺は交番の前に立っていた。
手には車のキーが握られ、フロントガラスには、洗い流しても消えない「小さな手形」がびっしりと付着していた。




