図書室で(ロングバージョン)
夏の放課後の図書室は、特有の静寂に包まれている。
西日が窓から差し込み、無数の塵が光の筋の中で躍っている。
扇風機の生ぬるい風だけが、古い紙の匂いをかき混ぜていた。
私は図書委員として、夏休み前の特別整理に追われていた。
「うんしょ……。もう、なんでこんな奥まで本が突っ込まれてるのよ。埃っぽいなぁ。あてっ!」
普段は誰も立ち入らない、郷土資料のさらに奥にある薄暗い本棚。
そこを整理していると、棚の隙間から一冊の奇妙な物体が滑り落ち、私の頭を直撃した。
「いたた……。なにこれ」
床に落ちたのは、市販の本ではなかった。
画用紙を雑に切り抜き、厚紙を糊で貼り合わせたような、手作りの「本」だった。
表紙には何も書かれておらず、ただ古びたセロハンテープが黄ばんで剥がれかけている。
その時だった。
『だれ?』
「……えっ?」
心臓が跳ねた。図書室には私一人しかいないはずなのに、すぐ耳元で、変声機を通したような、感情の欠落した機械的な声が響いた。
「もしかして、変質者……?」
声に出さず、頭の中でそう思った瞬間。
『もしかして、変質者?』
全く同じ言葉が、あの不気味な合成音声でリピートされた。
(誰かいないかな……先生とか……)
『誰かいないかな』
「やめて!!」
私は悲鳴を上げ、手に持っていたその本を床に投げ捨てた。
すると、ピタリと音声は止まり、図書室にはまた重苦しい沈黙が戻ってきた。
「……もしかして、これが原因?」
私は震える手で、足元の本を見つめた。素手で触るのが恐ろしくなり、たまたま胸ポケットに差していた三角定規を使って慎重にページをめくった。
そこに描かれていたのは、小学生が「僕の父親」と題名をつけそうな、稚拙で巨大な顔の絵。
肌色の大きな丸。
その中央に、焦点の合わない黒い点が二つ。
そして口元には、クレヨンを引きずったような、どす黒い赤の線が一本引かれている。
左のページには、筆圧が強すぎて紙が破れんばかりの勢いで、こう書かれていた。
『いうことをきくから、たたかないで』
『いうことをきくから、たたかないで』
『いうことをきくから、たたかないで』
ページをめくるたび、その言葉が羅列されている。
「これ……虐待されている子供が描いた絵……?」
あまりの禍々しさに眩暈がした。
だとしても、なぜこんなものが学校の図書室に?
誰にも見つからないように、この世界の隅っこに隠されていたのか。
そう思って、本を元の棚へ戻そうとした時、背後で床が軋む音がした。
「なんだい? その本は。こんなに遅くまで熱心だね」
振り返ると、担任の木村先生が立っていた。
爽やかな笑顔、生徒想いで有名な数学教師。
「あっ、これは……たまたま、棚の奥で見つけたもので」
「ほう。見せてごらん」
先生は私の手から、ひょいと本を取り上げた。
中身をパラパラと捲る先生の横顔を、私は不安な気持ちで見つめていた。
すると、またあの声が聞こえてきた。今度は私の思考じゃない。
『なんだ、ただのガキの落書きか』
先生の口は動いていない。けれど、あの変声機のような声が、はっきりと先生の頭から漏れ出している。
『それはそうとこの女子生徒、やはりかわいいな』
「え……?」
私は息を呑み、先生の顔を凝視した。
先生は笑顔のまま、本を閉じようとしている。
「ん? どうしたんだい?」
先生の言葉が重なるように、あの声が響く。
『いつか襲いたい』
『抵抗する姿を想像すると、たまらないな』
「先生……何を……」
恐怖が全身を駆け巡った。
この本は、接触している人間の「本音」を、あるいは「心の深淵」を音声化しているのだ。
いつも優しく進路相談に乗ってくれる先生の頭の中にある、どす黒い欲望。
先生は、私が自分の本心に気づいたことを察したのか、その笑顔をゆっくりと歪めた。
「……ミユさん、君は少し、勘が良すぎるね」
先生が本を床に捨て、一歩近づいてきた。
私は慌てて逃げ出そうとしたが、ここは図書室の最奥。
出口は先生の背後にある。
本棚に囲まれた閉鎖空間で、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
先生の手が、私の肩に伸びる。
その時、図書室の空気が一変した。ガタガタガタッ!!
地震でもないのに、周囲の本棚が激しく震え始めた。
「なんだ!? 何が起きている!」
狼狽する先生の足元。先ほど投げ捨てられた「本」から、黒い泥のような影が溢れ出していた。
『いうことをきくから』
『たたかないでって』
『いったのに』
その声はもはや機械的ではなく、何百人もの子供が泣き叫んでいるような轟音となった。
ドォォォォォン!!
先生のすぐ横にあった、古い鉄製の巨大な本棚が、まるで意思を持っているかのように先生の方へ倒れ込んだ。
「ぎゃあああああ!!」
凄まじい衝撃音と共に、先生の身体は大量の蔵書と鉄の塊の下に押し潰された。
埃が舞い、静寂が戻る。
私は腰を抜かしながら、倒れた本棚の向こう側を見た。
そこには、半透明の小さな男の子が立っていた。
男の子は、あの本に描かれていた「赤い線の口」を三日月形に吊り上げ、私を見ていた。
彼は本を拾い上げると、私に向かって小さくお辞儀をした気がした。私はそのまま、意識を失った。
気がつくと、私は保健室のベッドの上にいた。
先生は、古い本棚の腐食による「不慮の事故」で大怪我を負い、そのまま学校に戻ることは無かった。
さりげなく聞いたところ、あの本は現場からは見つからなかったらしい。
今でも、図書室で古い本の匂いを嗅ぐと、あの無機質な声が聞こえる気がする。




