貸家で(ロングバージョン)
立ちはだかる湿った空気と、重厚な瓦屋根。俺と妻の直美は、都会の喧騒と狭苦しいアパート暮らしに終止符を打つべく、この辺境の村を訪れていた。
「ここなら、誰にも邪魔されずに二人で静かに暮らせそうね」
直美が少し浮足立った声で言う。目の前にあるのは、築百年は優に超えているであろう古民家だ。市が「移住促進事業」として提供しているこの貸家は、驚くべきことに5年間家賃無料という破格の条件だった。
市役所の担当者は「とにかく管理してくれる人がいれば、それだけで助かるんです」と、どこか必死な面持ちで鍵を渡してくれたのを覚えている。
「お好きに見て回ってください。私はあちらの車で待機していますので」
担当者の男は、玄関の鍵を開けるなり、逃げるように外へ出ていった。奇妙な態度だと思ったが、俺たちは気にせず中へ足を踏み入れた。
玄関を抜けると、ひんやりとした古い木の匂いと、微かな埃の混じった空気が鼻をつく。広々とした畳の一室に入ると、壁際の一角にひときわ異彩を放つ一画があった。黒光りする漆塗りのような重厚な観音開きの扉だ。
「ねえ、あれは仏壇かしら?」
直美が不思議そうに指さす。確かに場所としては仏壇があってもおかしくないが、普通の家にあるものより一回り大きく、何よりその「黒さ」が、周囲の光を吸い込んでいるかのように暗い。俺はゆっくりとその扉に手をかけ、左右に開いた。
……中は空洞だった。仏像も、位牌も、遺影もない。ただの闇がそこに居座っているかのような、奇妙な空間。
「何もないな。掃除すれば収納にでも使えるか」
俺はそう言って扉を閉めた。パタン、という乾いた音が部屋に響く。その直後だった。――スゥ……。どこか遠くで、ふすまが滑るような音がした。
「担当者の人も来たのかしら?」
直美が玄関の方を振り返る。だが、重い引き戸が開くガラガラという音は聞こえなかった。家全体が、まるで巨大な生き物の胃袋の中にいるように静まり返っている。
「風だろう。古い家だからな」
俺は自分に言い聞かせるように答え、さらに奥の部屋へと向かった。
縁側に面した部屋の障子に差し掛かったとき、俺の足が止まった。障子の薄紙越しに、誰かが立っているような「濃い影」が見えたのだ。
「誰かいるのか?」
声をかける。返事はない。しかし、その影がわずかに揺れた気がした。俺は意を決して、勢いよく障子を開け放った。
そこには、荒れ果てた庭が広がっていた。そして庭の中央には、不自然なほど枝を広げた一本の巨大な榎が立っていた。
「……なんだ、木の影か」
俺は胸をなでおろした。障子のすぐ外に枝が伸びており、それが逆光で人の姿に見えたのだろう。
「階段があるわ。二階へ行ってみましょう」
直美の明るい声に促され、俺たちは古い階段を昇った。
一段踏み出すごとにギシ、ギシと家が鳴く。
二階の窓からは、絶景が広がっていた。左手には深い緑をたたえた山々、右手には輝く紺碧の海。
「いい景色ね。本当にここ、借りてもいいのかしら」
直美は満足そうに目を細めている。俺もその景色を眺めていたが、ふと視線を落とした。さっきの庭の榎だ。上から見下ろすと、その木の太い枝に、何かが「ぶら下がっている」のが見えた。
最初は、古い縄か何かだと思った。あるいは、誰かが吊るした案山子か。だが、それは風もないのに、ゆらり、ゆらりと不規則に揺れている。
「あれはなんだ?」
俺が指さすと、直美は目を凝らして庭を見た。
「どれ? 何も見えないわよ。あ、あの鳥の巣のこと?」
「いや、違う。あの枝から……」
言いかけて、言葉が詰まった。目が慣れてくると、その「何か」のディテールがはっきりと脳に突き刺さってきた。
それは、ボロボロに汚れた白い着物を着た、一人の人間だった。
首に太い縄が食い込み、不自然な角度で首が折れている。顔は髪で隠れているが、その足先は地面から数十センチ浮いたところで、無機質に揺れ続けている。俺の全身から血の気が引いた。
「……気のせい、か」
俺は無理やり視線を逸らし、荒い息を整えながら窓をピシャリと閉めた。その瞬間。ドサリ、という、重い肉の塊が地面に叩きつけられるような音が響いた。
「何の音だ!?」
俺は飛び上がった。
「え? 何も聞こえなかったわよ? 窓を閉めた音じゃないの?」
直美は不思議そうな顔で俺を見ている。俺はもう一度、窓の外を覗いた。榎の枝には、もう何もかかっていない。
ただ、その下の地面に、踏み荒らされたような跡だけが残っていた。
それから数年の月日が流れた。俺たちは予定通り、この家に居を構えた。
市役所の男が逃げ出した理由も、5年間タダという破格の条件の理由も、本当は分かっている。この家は、いわく付きだ。
前の住人も、その前の住人も、ここで自ら命を絶ったという。
そして、あの黒い扉の空間は、仏壇ではなく、代々の死者を「封じ込める」ための場所だったのだ。
俺たちは今、夫婦二人でこの家で暮らしている。直美は相変わらず何も気づいていない。彼女にとっては、ここは安らぎに満ちた理想のマイホームだ。
「今日もいいお天気ね」
そう言って彼女が庭の榎を眺める。俺の視界では、その木の枝に、今日も新しい「影」が増えている。
一年前からぶら下がっている老婆。
半年前から揺れている中年の男。
そして最近になって現れた、あの時の市役所の担当者。
彼らは皆、俺にしか見えないらしい。彼らは死んでいるのに、時折、枝から「ドサリ」と落ちては、ふすまの音と共に家の中に這い入ってくる。
「……ねえ、あなた。最近、背中を曲げていることが多いけど、肩が重いんじゃない?」
直美が俺の背後から声をかける。俺は鏡を見る。俺の肩には、あの木にぶら下がっていたはずの老婆が、折れた首を俺の耳元に寄せて、にやりと笑っていた。
俺は、もう何も言わない。この家で、俺たちは「二人」だけで静かに暮らしている。ただ、俺にしか見えない隣人たちが、少しずつ増えていくだけの話だ。




