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9 過去のレシピ

ゲルハルトからの報告があがった。


瘴気の発生。


それは、平穏に慣れきった帝国の王城を根底から揺るがす大事件だった。

記録によれば、最後に確認されたのは百年前。

それはもはや、「伝説の災厄」に過ぎなかった。

それを身近な恐怖として実感している者など、一人もいなかったのだ。



「……イーサン。浄化遠征に際してだが」

皇帝執務室の重厚な空気の中、ジークヴァルドは腕を組み、高く壮麗な天井を仰ぎ見た。

その瞳には、帝国の主としての鋭い光が宿っている。


「聖女の警護隊長にカイルを就かせるとして――兵士は、どれほど必要だと思う?」

問われた補佐官のイーサンは、モノクルを指先でカチャリとかけ直した。

彼は抱えていたすすけた文献の一冊を、迷いなく開く。

その指先が、黄ばんだ紙面に記された「過去」をなぞった。


「……記録によれば、百年前の最後の浄化遠征において、同行した兵はわずか十名と記されております」


イーサンの淡々とした声音が、静まり返った室内で冷たく響く。


「当時は瘴気の発生頻度も高く、騎士たちも遠征に手慣れていたのでしょう。おそらくは戦術も確立されており、少数精鋭でも十分に事足りたと推測されます。……ですが」


イーサンは一度言葉を切り、主君の顔を正面から見据えた。


「それはあくまで、『手慣れていた』時代の話です。今の騎士団に、瘴気と刃を交えた経験を持つ者は皆無。実戦データは、このほこりを被った数行の記述のみでございます」


それを聞いて、ジークヴァルドは「はは……」と力なく笑い、頬杖をついた。

その笑みには、先人たちが残した記録の「簡潔すぎる不親切さ」への皮肉がたっぷりと混じっている。


「私なら、後世に残す情報として、もっと細かく記載するがな。何人の兵が血を流し、何人の命が瘴気に喰われたのか……そこが最も重要だろうに。生き残った英雄の数だけ書かれても、今の私には何の役にも立たんよ」


「左様ですね。いくさの記録としては、少々詩的すぎると言わざるを得ません。現場の悲鳴を削ぎ落とし、栄光だけを残した。……その報いを、今、我々が受けているというわけです」


二人の間に、一瞬の沈黙が流れた。

窓の外には、何も知らない帝都の街並みが美しく広がっている。だが、その平和も、今この瞬間から砂上の楼閣と化すのだ。


ジークヴァルドは少しばかり逡巡した後、決然とした動作で立ち上がった。

その背中には、帝国の命運を背負う者の、逃れようのない威圧感が漂っている。


「近衛騎士団長カイル・ヴァルテンベルクを、警護隊長に任じる」

空気が張り詰める。

「兵は五十。聖女を死守し、瘴気発生地までの遠征を完遂せよ。——直ちに伝えよ。一刻を争う」


「御意」

イーサンは恭しく深く頭を下げ、主君の意志を体現すべく、音もなく執務室を後にした。

廊下を歩くイーサンの足音だけが、やけに速く、鋭く響く。


城内にはまだ、晩餐の準備を急ぐ侍女たちの声や、笑い声が微かに聞こえてくる。平和な日常の残り香だ。

だが、その平穏が間もなく終わりを告げることを、彼は誰よりも理解していた。

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