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8 腐った生ゴミのような

古びた紙と、微かなインクの匂い。

それが、ようやく鼻に馴染んできていた。

ここに来てから、数日が過ぎた。


朝、雲のようなベッドで目を覚まし、侍女たちに表情を強張らせながら顔を洗ってもらう。

その後、時間になれば現れるイーサンに連れられ、この巨大な書庫へと向かう。

そんな「聖女」としての無機質な日常が、少しずつ、リリアの肌に馴染み始めていた。


「……ふぅ」

重厚な表紙の本を閉じ、小さく息を吐く。

文字を追う速度は、日に日に増していた。


「言語理解」という、得体の知れない恩恵。

それはリリアの意思とは無関係に、帝国の歴史や、この世界のことわりを脳内に流し込んでくる。

読めば読むほど、この世界のことが分かる。

それと同時に、自分がいかに場違いで、分不相応な場所に連れてこられたのかを、嫌というほど突きつけられる日々だった。


「終わったか?」

部屋の隅から、聞き慣れた軽い声がした。

振り返らなくても分かる。第一騎士団長、ゲルハルトだ。

彼は相変わらず、適度な距離を保ったまま壁にもたれかかっている。

彼なりの気遣いなのだろう。リリアが集中している間は、気配を殺して空気のように振る舞ってくれていた。

「はい、今日のところは……」

リリアはゲルハルトの方に顔を向け、力なく答える。


正直に言えば、この学習に「終わり」なんてものはない。

ただひたすら、底の見えない穴を掘るように知識を蓄えていく、終わりなき作業だ。

その時だった。


――ぞくり、と。


心臓の裏側を、冷たい刃で撫でられたような感覚。

全身の毛穴が逆立つ。

胃の底から、不快感がせり上がる。

「……なに、これ……」


感じたことのない、おぞましいまでの拒絶反応。

視界が急激に歪み、立っていられなくなるほどの眩暈めまいが襲う。

ガタガタと震え始めた自分を抱きしめるようにして抑えるが、その腕ごと震えが止まらない。

指先から体温が奪われ、代わりにじっとりとした嫌な汗が吹き出した。


「おい、どうした!」

異変を察したゲルハルトが、弾かれたように駆け寄る。

「顔色が真っ青だぞ……おい、リリア! すげぇ汗だ!」

ゲルハルトの手が肩に触れそうになり、直前で止まる。

——触れてはいけない、と判断したのだ。

彼はリリアが「触れられること」を極端に嫌うことを覚えていた。


だが、今の彼女はそんな配慮に気づく余裕すらない。

リリアは声を出すことすらできなかった。

肺の中の空気がすべて濁った泥に変わったかのように、呼吸が浅く、苦しくなる。

歯をガチガチと鳴らしながら、視線が勝手に動いた。


自分の意思ではない。

何かに、呼ばれている。

——逃げるべきなのに。


あるいは、何かが「そこ」にいると、魂が叫んでいる。

リリアの視線は、書庫の壁面を飾る巨大な窓の枠へと向けられた。


「…………」

「窓か!?何が見えるんだ!?」


ゲルハルトが窓の外を仰ぎ見る。

そこには、いつもと変わらぬ美しい帝都の街並みが広がっているはずだった。

だが、リリアが見ているのは、窓枠そのものではない。


その先。


ずっと、ずっと向こう。


この豪華な城の壁も、帝都の喧騒も通り越し、地平の果てにある「何か」を、彼女の瞳は捉えていた。

(……汚い)


どろりとした、黒いよどみ。


すべてを侵食し、腐らせ、死へと誘う「呪い」の気配。


知識として知ったばかりの、この世の害悪。



「瘴気……」



掠れた声で、その名を呼んだ。

知識が実感へと変わった瞬間だった。

帝国の北西。

遥か遠くの村で、今まさに大地の傷口が開いたのだと。

そこから溢れ出した「死」が、世界を塗り潰そうとしているのだと。

リリアの身体は、逃れようのない警鐘を鳴らし続けていた。


召喚されてから数日。

ただの「スラムの少女」だったリルが、初めて本物の「聖女」として覚醒した瞬間だった。

「ゲルハルト、さん……早く、誰かに……っ」

リリアは机に縋り付きながら、必死に言葉を絞り出す。

彼女の中に宿る聖女の力は、その「発生」を、誰よりも早く、あまりにも鮮明に感じ取ってしまった。


それは救いなどではない。


これから始まる運命の——

「呪い」の予感だった。

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