7 下ごしらえ
「こちらが書庫になります」
イーサンの声とともに、重厚な扉が音もなく開かれた。
足を踏み入れた瞬間、リリアは思わず息を呑む。
天井まで届く巨大な書架。
隙間なく並べられた、無数の本の背表紙。
古びた紙とインクの匂いが、静謐な空気の中に満ちている。
広いのに、音がない。
まるで世界から切り離されたような、圧倒的な沈黙の空間だった。
「本日より、こちらで学んでいただきます」
イーサンが淡々と告げる。
「地理、帝国の基礎知識、情勢、そして過去の聖女についての記録。……そのすべてが、これからの貴女に必要なものです」
視線が、吸い寄せられるように書架へ向く。
どこまでも続く本、本、本。
(……これを、全部?)
喉の奥が、ひくりと鳴った。
スラムでその日暮らしをしていた身には、逃げ場のない分量だった。
それに、文字は読めない。学んだことすらない。
自分の名前の「リル」という文字を書けるだけだ。
「無論、すべてを一度にとは言いません」
イーサンはわずかに言葉を区切る。
「ですが、怠ることは決して許されません」
静かな声音。
けれどその中には、一切の甘えを許さない峻烈な響きがあった。
「……はい」
リリアは小さく頷く。
その様子を確認すると、イーサンは満足げに一歩引いた。
「なお、書庫内には常に警護を配置しております」
その言葉に、リリアはわずかに肩を強張らせた。
すると――。
「そんなに構えんなよ」
不意に、軽い声が横から降ってきた。
びくりと振り向く。
書架の深い影。
そこに、いつの間にか一人の男が立っていた。
「別に取って食ったりしねえからさ」
気の抜けた調子。
けれど、ただ立っているだけで「強者」だと分かる独特の威圧感。
「……ゲルハルト、さん?」
思わず名前がこぼれる。
男は、片手をひらりと上げた。
「覚えててくれて光栄だな、聖女様」
軽口のようでいて、踏み込みすぎない絶妙な距離感。
近すぎず、遠すぎず。
その立ち位置が、今のリリアには妙に心地よかった。
「彼が、書庫での警護を担当します。基本的にはこの場を離れません。安心して学びに集中してください」
イーサンの補足に、ゲルハルトは肩をすくめて応える。
「ああ、邪魔はしねえよ。そこら辺で勝手に立ってるだけだ」
本当に、その通りにするのだろう。
彼はそれ以上踏み込んでくる気配を見せない。
干渉するつもりもない。
それでも――完全に一人ではない、という事実。
それが、ほんの少しだけリリアの胸の奥を緩めてくれた。
リリアは書架へと歩み寄る。
迷った末に、一冊の本を手に取った。
見たこともない、複雑な文字。
――のはずだった。
「……え」
読める。
意味が、するりと頭に入ってくる。
(なんで……?)
指先が、わずかに震えた。
「問題なく読めてるみてえだな」
背後から、気のない声が飛んでくる。
振り返ると、ゲルハルトが壁にもたれかかってこちらを見ていた。
興味があるのかないのか分からない、飄々(ひょうひょう)とした目。
「……はい」
「へえ」
それだけだった。
深くは追求してこない。
ただ受け流すような相槌が、今はありがたかった。
「聖女召喚の際、言語理解が付与されることがあります」
イーサンが、まるで事務連絡のように補足した。
「特別なことではありません。知識の吸収を助けるための恩恵です」
特別じゃない。
そう言われても、リリアの心は凪がなかった。
(……気持ち、悪い)
自分の中に、得体の知れない“何か”を植え付けられたような違和感。
本を握る手に、わずかに力がこもる。
「では、私はこれで。何かあれば、彼を通してください」
イーサンが一礼し、静かに書庫を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
広すぎる空間。
けれど今度は、昨夜のような「完全な孤独」ではなかった。
遠くで、誰かの気配がある。
決して干渉してこない、守護者としての静かな気配。
リリアは小さく息を吐き、再び本へと視線を落とした。
――学ばなければ。
この美しくも不気味な世界で、生き延びるために。




