表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/59

58 空の皿

鬱蒼とした森の奥。時折、陽の光が葉の隙間からちらちらと差し込んではいるが、セラフィーナの立っている場所だけは、暗く淀んだ空気が執拗に立ち込めていた。


セラフィーナは、目の前で蠢く小さな瘴気の周りを、落ち着きなくウロウロと歩き回りながら、焦ったように呟いた。


「消えてよ……お願いだから。……消えて」

今までなら、彼女が近づいただけで、霧が晴れるように霧散していた瘴気だ。だが、最近ではセラフィーナがすぐ近くまで歩み寄っても、何の変化も起きない。


「い、祈りますっ!」

逃げるように両手を組み、きつく目を閉じる。

「綺麗に、なあれ……!」


セラフィーナの組んだ両手が、柔らかな光を帯びて広がった。ひだまりのような、温かく、けれど頼りなげな光が瘴気を包み込む。


――だが。

黒い靄は、その光を嘲笑うかのように、何事もなかったようにそこに存在し続けていた。


「………えっ?」

セラフィーナは、目に見えて動揺した。

「う、上手くいったと思ったのに……。どうして?」

再び目をきつく閉じ、今度は絞り出すように声を張り上げた。

「綺麗に……! なあれ!」


――今度は、光さえ起こらなかった。

控えていた護衛の騎士たちが、困惑と不安を隠せぬまま目を見合わせる。


その様子を見て、セラフィーナはさらに焦燥を募らせた。

「そ、そうだ……。リリアさん、みたいに……」


言いかけて、言葉が止まった。

あの方のやり方は、ひどく痛くて、苦しいものだった。

あれは嫌だ、怖い。


……やめておこう、そう思ってちらりと騎士たちに視線を送る。

だが、騎士たちは、ほんの僅かだが、期待の眼差しをセラフィーナに向けていた。


『聖女様なら、きっと何とかしてくださる』


久しぶりに感じる、自分への純粋な期待。

セラフィーナにとって、その温かな視線は、先程よぎった恐怖を塗りつぶすには十分すぎる誘惑だった。


(大丈夫。私だって、聖女だもの)

そろりと、震える手を瘴気へと差し出す。


その瞬間。


ぐわん、と世界が揺らぎ、脳髄を直接掴まれたような酷い頭痛が襲った。

「い、痛……っ!」


そして、瘴気の黒い霞がセラフィーナの指先に触れた瞬間、彼女は裂けるような悲鳴をあげた。


「きゃあぁっ! 痛いっ! 熱いぃっ! 」


手を引き、指先を抱えて「痛い」「熱い」と子供のように大泣きし始めたセラフィーナを見て、護衛として同行していたゲルハルトが、呆れたように腰に手を当てた。

「……帰るぞ。それ以上やっても、時間の無駄だ」


帰りの馬車の中で、恐怖とショックに項垂れているセラフィーナを、並走して馬を走らせているゲルハルトは横目で一瞥した。


最近の浄化遠征は、いつもこの調子だ。

小さな瘴気ですら浄化できず、逃げ帰る日々が続いている。

以前なら、彼女が近づくだけで霧散していた程度の、微弱なものだというのに。

その度に、この新しい聖女はメソメソと泣き喚くのだ。


「チッ……。面倒くせぇ……」

ゲルハルトは舌打ちし、前方の道へ視線を戻した。





「ご、ごめんなさい……。瘴気が、とても強くなっていて。私の力では、浄化できませんでした……」

ぐすぐすと鼻をすすりながら、セラフィーナはハンカチで涙を拭き続けていた。

皇帝執務室で遠征の報告を受けたジークヴァルドは、泣き続ける少女をじっと見つめていたが、やがて、その顔に貼り付けたような穏やかな笑みを浮かべた。


「セラフィーナ、お疲れ様。君の安全が第一だ。……もう下がっていいよ」

笑顔のジークヴァルドにぺこりと頭を下げ、セラフィーナはとぼとぼと部屋を出ていった。


閉じた扉を見つめたまま、ジークヴァルドは腕を組み、椅子の背もたれに深く体重を預けた。執務室には、死んだような沈黙が降りる。

「さて、ゲルハルト。君はどう思う?」


「あいつは、もう浄化できねえな」

ゲルハルトの断定に、異論を唱える者は誰もいなかった。


事実、セラフィーナの浄化には以前から時間がかかるようになっていた。そして、ここ最近では、浄化そのものが完全に成功していない。


「セラフィーナの力は、有限だったのでしょう」

イーサンが、手元に広げた文献のページを捲りながら告げる。

「過去の聖女の記録にも、数回の浄化で力が枯渇し、ただの人に戻った例がありました。今回もおそらく、それに当てはまります」


皇帝の椅子の数歩後ろ。カイルは身じろぎひとつせず、石像のようにその話を聞いていた。


そして、ぽつりと言葉を発した。

「――瘴気は、残っているのだろう?」

その場にいた全員の心を刺すような、鋭い指摘だった。


ジークヴァルドは、痛いところを突かれたとでも言いたげに、自嘲気味に肩をすくめた。

「……ああ。残っている。そして、増え続けている。我々は、浄化しなければいけない」


ジークヴァルドは、鼻で笑った。その笑いは、自分自身への侮蔑に満ちている。

「私は、万代にわたって『愚帝』として語り継がれるかもしれないな」

重苦しい沈黙が、再び執務室を支配した。


瘴気は消えていない。

目の前の聖女は、もう浄化できない。


ならば――選ぶべき答えは、最初から一つしかなかった。


「……聖女の、再召喚を行う」

三度目となる召喚。

過去の歴史を振り返ってみても、ここまで手こずった皇帝がいただろうか。

何も知らない自分であれば、無能な王だと笑ったかもしれない。


ジークヴァルドは、ふと窓の外を見た。

春の光が、城の庭園を照らしている。


あの場所で、無邪気に笑っていた少女の姿が、脳裏をよぎった。

――もう、この国にはいない。

それでも帝国は、進まなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ