58 空の皿
鬱蒼とした森の奥。時折、陽の光が葉の隙間からちらちらと差し込んではいるが、セラフィーナの立っている場所だけは、暗く淀んだ空気が執拗に立ち込めていた。
セラフィーナは、目の前で蠢く小さな瘴気の周りを、落ち着きなくウロウロと歩き回りながら、焦ったように呟いた。
「消えてよ……お願いだから。……消えて」
今までなら、彼女が近づいただけで、霧が晴れるように霧散していた瘴気だ。だが、最近ではセラフィーナがすぐ近くまで歩み寄っても、何の変化も起きない。
「い、祈りますっ!」
逃げるように両手を組み、きつく目を閉じる。
「綺麗に、なあれ……!」
セラフィーナの組んだ両手が、柔らかな光を帯びて広がった。ひだまりのような、温かく、けれど頼りなげな光が瘴気を包み込む。
――だが。
黒い靄は、その光を嘲笑うかのように、何事もなかったようにそこに存在し続けていた。
「………えっ?」
セラフィーナは、目に見えて動揺した。
「う、上手くいったと思ったのに……。どうして?」
再び目をきつく閉じ、今度は絞り出すように声を張り上げた。
「綺麗に……! なあれ!」
――今度は、光さえ起こらなかった。
控えていた護衛の騎士たちが、困惑と不安を隠せぬまま目を見合わせる。
その様子を見て、セラフィーナはさらに焦燥を募らせた。
「そ、そうだ……。リリアさん、みたいに……」
言いかけて、言葉が止まった。
あの方のやり方は、ひどく痛くて、苦しいものだった。
あれは嫌だ、怖い。
……やめておこう、そう思ってちらりと騎士たちに視線を送る。
だが、騎士たちは、ほんの僅かだが、期待の眼差しをセラフィーナに向けていた。
『聖女様なら、きっと何とかしてくださる』
久しぶりに感じる、自分への純粋な期待。
セラフィーナにとって、その温かな視線は、先程よぎった恐怖を塗りつぶすには十分すぎる誘惑だった。
(大丈夫。私だって、聖女だもの)
そろりと、震える手を瘴気へと差し出す。
その瞬間。
ぐわん、と世界が揺らぎ、脳髄を直接掴まれたような酷い頭痛が襲った。
「い、痛……っ!」
そして、瘴気の黒い霞がセラフィーナの指先に触れた瞬間、彼女は裂けるような悲鳴をあげた。
「きゃあぁっ! 痛いっ! 熱いぃっ! 」
手を引き、指先を抱えて「痛い」「熱い」と子供のように大泣きし始めたセラフィーナを見て、護衛として同行していたゲルハルトが、呆れたように腰に手を当てた。
「……帰るぞ。それ以上やっても、時間の無駄だ」
帰りの馬車の中で、恐怖とショックに項垂れているセラフィーナを、並走して馬を走らせているゲルハルトは横目で一瞥した。
最近の浄化遠征は、いつもこの調子だ。
小さな瘴気ですら浄化できず、逃げ帰る日々が続いている。
以前なら、彼女が近づくだけで霧散していた程度の、微弱なものだというのに。
その度に、この新しい聖女はメソメソと泣き喚くのだ。
「チッ……。面倒くせぇ……」
ゲルハルトは舌打ちし、前方の道へ視線を戻した。
「ご、ごめんなさい……。瘴気が、とても強くなっていて。私の力では、浄化できませんでした……」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、セラフィーナはハンカチで涙を拭き続けていた。
皇帝執務室で遠征の報告を受けたジークヴァルドは、泣き続ける少女をじっと見つめていたが、やがて、その顔に貼り付けたような穏やかな笑みを浮かべた。
「セラフィーナ、お疲れ様。君の安全が第一だ。……もう下がっていいよ」
笑顔のジークヴァルドにぺこりと頭を下げ、セラフィーナはとぼとぼと部屋を出ていった。
閉じた扉を見つめたまま、ジークヴァルドは腕を組み、椅子の背もたれに深く体重を預けた。執務室には、死んだような沈黙が降りる。
「さて、ゲルハルト。君はどう思う?」
「あいつは、もう浄化できねえな」
ゲルハルトの断定に、異論を唱える者は誰もいなかった。
事実、セラフィーナの浄化には以前から時間がかかるようになっていた。そして、ここ最近では、浄化そのものが完全に成功していない。
「セラフィーナの力は、有限だったのでしょう」
イーサンが、手元に広げた文献のページを捲りながら告げる。
「過去の聖女の記録にも、数回の浄化で力が枯渇し、ただの人に戻った例がありました。今回もおそらく、それに当てはまります」
皇帝の椅子の数歩後ろ。カイルは身じろぎひとつせず、石像のようにその話を聞いていた。
そして、ぽつりと言葉を発した。
「――瘴気は、残っているのだろう?」
その場にいた全員の心を刺すような、鋭い指摘だった。
ジークヴァルドは、痛いところを突かれたとでも言いたげに、自嘲気味に肩をすくめた。
「……ああ。残っている。そして、増え続けている。我々は、浄化しなければいけない」
ジークヴァルドは、鼻で笑った。その笑いは、自分自身への侮蔑に満ちている。
「私は、万代にわたって『愚帝』として語り継がれるかもしれないな」
重苦しい沈黙が、再び執務室を支配した。
瘴気は消えていない。
目の前の聖女は、もう浄化できない。
ならば――選ぶべき答えは、最初から一つしかなかった。
「……聖女の、再召喚を行う」
三度目となる召喚。
過去の歴史を振り返ってみても、ここまで手こずった皇帝がいただろうか。
何も知らない自分であれば、無能な王だと笑ったかもしれない。
ジークヴァルドは、ふと窓の外を見た。
春の光が、城の庭園を照らしている。
あの場所で、無邪気に笑っていた少女の姿が、脳裏をよぎった。
――もう、この国にはいない。
それでも帝国は、進まなければならない。




