56 残り物
王城の会議室。
定例の報告会はとうに終わり、他の官吏たちは皆、足早に去った後だった。
残されたのは皇帝、宰相、そして帝国の両翼。誰も席を立とうとはせず、重苦しく、それでいてどこか空虚な沈黙だけが部屋を支配している。
最初にその静寂を破ったのは、ゲルハルトだった。
「……そういや」
椅子の背にもたれかかり、天井を仰ぎながらぼそりと呟く。
「あいつの名前」
カイルが、思考を通さず即座に答えた。
「リリア」
ゲルハルトはわずかに首を振る。
「いや、そっちじゃねえ。……元の名前だ」
沈黙が落ちる。
「……リル」
イーサンが、祈るような静けさでその名を口にした。
「意味はたしか、『残り物』……だったな」
ゲルハルトが、鼻で短く笑った。
「ジークが、その意味のまま帝国風の名前にするって言った時、正直思ったんだよ。ひでえことするなってな」
誰もすぐには言葉を返さない。
しばらくして、イーサンが窘めるように、けれど力なく口を開いた。
「……陛下は、決してそのような蔑みの意図で付けたのではありませんよ」
ゲルハルトが片方の眉を上げる。
「じゃあ、本当はどういうつもりだったんだよ。ジーク」
ジークヴァルドは手元に広げていた書類を静かにまとめながら、視線を落としたまま答えた。
「……帝国神話に伝わる、古き戦女神の名だよ」
その声は、ひどく穏やかで、深い。
「凄惨な戦場で、最期まで踏み止まった生き残りにのみ加護を与える女神。それが――リリア神だ」
「……女神の名をつけたなんて知られたら、彼女が負担に感じてしまうと思ったんだ」
肩をすくめ、ジークヴァルドは寂しげに苦笑した。
その沈黙の渦中で、カイルがぽつりと口を開いた。
「リル」
カイルは机を見つめるでもなく、どこか遠く、ここではない場所を見るような瞳をしていた。
「……そうだったな」
ほんのわずかに、彼の口元が動いた。
それは後悔による苦笑ではなく、枯野に咲く一輪の花を見つけたかのような、慈しみに満ちた穏やかな微笑だった。
「思い出した。……あいつの、本当の名前だ」
部屋に、澄んだ空気が流れる。
「……リル」
カイルはその響きを確かめるように、愛おしそうに、もう一度その名を呼んだ。
「悪くない」
ゲルハルトが、怪訝そうに相棒を見つめる。
「おい、忘れたのか。『残り物』だぞ?」
カイルは静かに首を振った。
「違う」
断定するように、短く告げる。
「――『生き残り』だ」
ジークヴァルドが、救われたように微笑んだ。
「……そうだ。過酷な運命の中を必死に生きてきた彼女に……リルに、どうか女神の加護があらんことをと、そう願って名付けたんだよ」
低く、懺悔のような静かな声だった。
イーサンが、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「結果として……リリアは、我々という『生き残り』に、最大の加護を与えてくれたわけです。自らを犠牲にして、魅了という名の呪いを祓うという加護を」
イーサンは眼鏡の奥の目を閉じ、言葉を絞り出す。
「彼女に戦女神の名を与えたことは……これ以上なく、正しかった。……ただ、それだけのことです」
誰も笑わなかった。
ただ、四人は同じ一つの事実を、刃のように胸に突き立てていた。
――自分たちは、その慈悲深い女神を、自らの手でこの国から追放したのだ。




